七章  迷子之天女、酔拳之天女に変じる。

 車の上で騒いでいた華蓮が、近付いていく華琳に気が付いたらしい。車の屋根から下りて――下りるときに一樹の背中をぐにゅっと踏んづけていたが――華琳の方に歩いていく。

 両者、三メートル程の距離をおいて対峙し合う。


「華琳、母さんの言いつけで、あんたを崑崙に連れて帰るから覚悟しなさい!」


 第一声を発したのは、年上の華蓮の方だった。


「悪いけど、あたしは帰るつもりなんかサラサラないから!」


 華琳は強気の姿勢を崩さない。


「そう。ならば、力ずくで従ってもらうまでよ!」


「それはこっちの台詞よ!」


「その言葉、あとで言ったことを後悔させてあげるわ!」

 

「あたしは後悔しないために、この戦いを選んだんだから!」

 

 言葉だけ聞いていると、とても姉妹の会話には聞こえない。まるで果たし合いの場での会話である。

 そして、勝負の開始は唐突に訪れた。


「炎神降臨、急々如律令!」


 華琳が詠唱と同時に、スカートのポケットから取り出した霊符を、華蓮目掛けて投げ付けた。一見すると、表面に朱墨で小難しい文字が書かれたにすぎない、ただの細長い短冊状の紙切れである。その紙切れが大勢の生徒たちが見ている前で、突然炎に包まれたかと思うと、火の玉と化して華蓮に向かって、一直線に飛んでいく。ゆきる以外の者の目には、まるで映画の特殊撮影を見ているかのような現象であった。

 それに対して、だが華蓮は――。


「フンッ!」


 鋭い呼気を吐き出すと、自分に向かってくる火の玉に右拳を突き出した。

 華蓮の拳と火の玉がぶつかった瞬間、火の玉の軌道は大きくそれて、華蓮の後方に飛んでいく。


「うげっええええーーーーーっ!」


 運悪く、火の玉が鬼坂に命中した。だが、皆の視線は華琳と華蓮に向けられたままである。哀れ鬼坂は、ぷすぷすと白煙まみれになっている。

 

「おい、今の現実に起こったことだよな?」


「火の玉に見えたけど、本物なのか?」


「実は『ドッキリ』でした、とかいうオチじゃないよな?」


 生徒の間に、大きなどよめきが起きた。なにかが起きるかもしれないと予感していた生徒たちも、まさかこれほどまでのことが起きるとは、まったく想像だにしていなかったのである。 


「すっごーいっ! ちょー感動シーン!」


 唯一この場面で楽しんでいるのは、言うまでもなく、えみるただひとりであった。


「さすが、華蓮ね。あたしの符術を拳ひとつでかわすなんて……。普通だったら、今ごろ北京家鴨ペキンダックのように丸焼けになっているところなのに!」


「それじゃ、今度はアタシからいかせてもらうわよ!」


 華蓮が拳法のような構えをとった。


「あっ、あの構えはヤバイぞ!」


 いち早く気が付いたのは、今朝その構えを駅前で実際に見た比呂夢だった。


「なんだよ、比呂夢。どういうことだよ?」


「とにかく、あの構えは危険極まりないんだよ」


 言うなり、比呂夢はその場に伏せた。


「いきなり危険って言われても……」


 ゆきるがどう対処すべきか迷っているうちに、華蓮の技が完成していた。


「破アアアアアアアアアーーーーーーッ!」

 

 華蓮が低く腰をおとした体勢から、一歩前に足を出した。

 と、次の瞬間、華蓮の姿が皆の目の前から掻き消えた。

 一方、華琳は少しも動じることなく、華蓮が消えたあたりに鋭い視線を向けている。

 不意に――。


 どずうっ!


 生身の肉と肉とがぶつかってあげる打撃音があがった。音の出所には、華琳と華蓮の姿がある。華琳が自分の顔の横にあげた左前腕部と、華蓮が伸ばした右前腕部が、食い込むようにして重なっている。華蓮の必殺の一撃を、華琳が左腕一本で受け止めたのだ。

 だが、その攻防を理解出来た者は、当事者である二人以外にはいなかった。常人離れした――まさに仙人だからこその並外れた速さで繰り出された攻撃と、防御であった。華蓮の動きが余りにも早すぎるがゆえに、ゆきるたち常人の目には消えたように見えたのである。


「さすが、我が妹ね。アタシの攻撃を見切るなんて……。普通だったら、今ごろシューマイのように押しつぶされているところなのに!」


 おいおい、二人とも本当に姉妹なんだよな? 仇同士にしか見えないぞ! 

 ていうか、北京家鴨にシューマイって、どんだけ中華料理が好きなんだよ!


 ゆきるの心の声は、むろん、二人には届いていない。


「凄まじい技の攻防戦ねっ! 見ごたえあるわ!」


 ひとり興奮しているのは、言うまでもなく、えみるである。


「これじゃ勝負がつかないわね。そろそろ本気を出したほうがいいかな」


「準備体操は終わりよ、華琳。ここからは真剣勝負よ!」


 どう見ても、今までのやり取りだって本気で真剣だっただろう!


 ゆきるは心の中で全力でツッコミを入れた。


「この攻撃をかわせる? 剪紙成兵術! 我がしもべ、掛かっていけええええーーーーーっ!」


 華琳が霊符の束を空中に放り投げた。霊符がたちまち動物の姿に変化する。鋭利な牙を剥いた凶暴な顔付き。子牛ほどの大きさがある狼の集団が誕生した。

 

 ワゴオオオオオオオーーーーーーッ!


 狼の集団が一斉に吠え声を上げた。    


「数が揃えばいいってもんじゃないのよ!」


 華蓮が中華服の袖下から、瓢箪を取り出した。指だけで起用に蓋を開けると、飲み口を咥える。喉がゴクリゴクリと動く。どうやら瓢箪は水筒として使っているらしい。ゆきるもテレビの時代劇で見た記憶がある。


「うぃ……ひっく……こっちも……ひっく……準備……ひっきゅ……完了……ひっく……」


 華蓮の言動があきらかにおかしくなった。さきほどと比べて、さらに酔いが進んでいる。

 そんな華蓮に向かって、狼の集団が次から次に飛び掛っていく。

 完全に酔っ払っている華蓮の足元は、危なっかしくて覚束ないように見える。しかし、どういうわけか体の動きはキレが増して素早かった。体に噛み付いてくる狼たちの攻撃を、ほんの紙一重でひらりひらりとかわしていくのだ。その動きはさながら舞踏会で舞う、踊り子のごとき流麗な動きであった。

 さらに何匹かの狼に対しては、拳と蹴りを的確に当てていく。攻撃を受けた狼たちは、元の紙切れに戻っていき、華蓮の足元にはたちまち破れた霊符の山が出来上がっていった。


「まだまだ、次はこれよ! 炎神之乱舞、急々如律令!」


 華琳がさらに霊符の束を放った。

 十個ほどの火の玉が空中に出現したかと思うと、華蓮に向かって様々な角度から飛んでいく。

 到底かわしようがない攻撃に見えたが、華蓮はあるいは体をひねり、あるいは体をそらして、あるいは体を跳躍させて、またあるいは拳と蹴りを使って火の玉を弾いてかわしていった。

 拳と蹴りで弾き飛ばされた火の玉は、あるいは鬼坂に直撃し、あるいは一樹に激突し、あるいは鬼坂の顔面にぶつかり、またあるいは鬼坂の残り少ない頭髪を燃やし、とにかく二人の気の毒な犠牲者を生むことになった。

 もっとも、目の前で展開する異次元の光景に誰もが目を奪われて、二人が炎に包まれているのを気にする者はひとりもいなかった。

 哀れなり鬼坂――合掌。

 不憫なり一樹――黙祷。


「そうか、分かった。その酔ったみたいな動き――華蓮、あなたがさっき飲んだ瓢箪の中身って、お酒だったんでしょ!」


「ひっく……そうよ……飲めば飲むほど……ひっく……強くなる……ひっきゅ……伝説の拳……ひっく……酔拳よ……ひっきゅ……」


 華蓮が体を上下左右に大きく揺らしながら答える。今にも地面に倒れそうに見えて、しかし、いっかな倒れない。

 華琳がそうであるように、華蓮もまた仙道の技――仙術を使えるのだった。華蓮が習得した仙術は武術であった。少林拳や八極拳などの種々の拳法にはじまり、剣術、棒術、槍術といった、ありとあらゆる武術をすべて使いこなすのだ。その中には今では伝説となっている、人間では扱えない特殊な武術まで含まれている。言うなれば、華蓮は歩く人間凶器そのものなのだ。 

 その中でも、華蓮がもっとも得意としているのが酔拳であった。

 酔拳とは、正式には酔八仙拳すいはっせんけんと呼ばれるもので、その字が示すように、酒に酔った八人の仙人の姿から出来上がった拳法である。華蓮は特に鍾離権しょうりけんという仙人の型が好きであった。鍾離権の拳法の型は、酒甕を抱えた格好を基本としており、酒好きの華蓮にはぴったりのものなのだ。加えて、酔拳は実際に酒を浴びるように飲みながら行う拳法なので、華蓮は常日頃から酔拳ばかり練習しており――もとい、酔拳の練習しかやっていなかった。もちろん、酒をたらふくに飲みながら。

 こうして、華蓮は酔拳だけ異常に上達したのであった。まさに酒の力恐るべしといったところだ。 


「なるほどね。こっちの中華少女も、とんでもない技を使うというわけか。さすがに姉妹のことだけはあるな。もっとも、最初に見たときからある程度は予想していたけどさ」


「ねえ、素晴らしい技じゃない! お酒を飲めば飲むほど強くなれるなんてうらやましい! もはや魔法と言ってもいいじゃん!」


 違う意味でえみるが喜んでいるみたいだが、ゆきるはきっぱりと無視することにした。


「でも、華琳の使う符術も捨てがたいんだよなあ。酔拳と符術、どっちを教えてもらおうか迷っちゃうなあ」


 さらに怖いことをさらっと言うので、ゆきるは聞こえない振りをした。これ以上えみるに付き合っていたら、命がいくつあっても足りない。ここは、君子危うきに近寄らずの精神である。

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