第3話 死者へのIPアドレス割り当て問題

「チェックしました。全てOKです。お疲れ様でした」


予想よりも大分遅く、クライアントからの電話があった。このまま電話を切って、布団に直行するつもりだったが、今や神山に眠気はなくなっていた。


「それで、あの、ちょっと相談が」


クライアントの担当者が言い終わる前に、神山は言った。


「御社の掲示板サイトの『幽霊』騒ぎのことですかね?」




2時間前、神山は『幽霊』の出現する掲示板サイトを見ていた。そこは、神山も見知ったサイトだった。というより、神山はこのサイトの掲示板システムのほぼ全てを把握していた。なぜなら、神山が先程完了させた仕事はこの掲示板システムのプログラム修正だったからだ。


もちろん、この巨大な掲示板システムを作ったのは神山一人ではないし、実際にインターネット上で動いている本番系のサーバーにログインする権限も与えられていない。しかし、システムの一部の修正という仕事のために、神山はシステムの全体のソースコードを守秘契約の後で受け取っており、その概要は大体頭に入っていたのだ。


ようするに、神山は『幽霊』のIPアドレスが何故空白なのかを調べられる立場にあった。神山はすぐにデスクトップ上で開いたままになっている開発ソフトを操作して、IPアドレス欄の表示に関する処理をソースコード全体から検索し、リスト化した。それをざっと眺めていく。神山の推測では、社内からのアクセス時だけ、IPアドレスの表示をスキップするような処理が入っている筈だ。


見たところ、そんな処理はなかった。どころか、IPアドレスの表示処理は間違えようのないぐらいシンプルな構造になっていて、そのような手の混んだ細工をする余地はないように思えた。本番で動いているバージョンとは異なるソースコードが神山にだけ渡されたというのも考えにくい。そんなことをすれば神山の修正部分を結合した時に、問題を引き起こすことになるからだ。


しばらくソースコードをみていた神山は、ふと、違う可能性に気づいた。ようするにこれはバグ(不具合)なのだ。開発者が埋め込んだ処理によって空白になるのではなく、どこか他の深い部分に誰も気づいていないミスがあり、利用者側で何らかの操作をするとIPアドレス欄の表示処理がスキップされてしまうのだ。


こうなると話は別だ。件の『幽霊』氏は運営会社とは無関係で、何らかの方法でこの不具合を引き起こす手順を知った第三者なのだ。


親切な人物なら、こうするとIPアドレス欄が空白になりますよ、と再現手順を運営会社に教えてくれるかもしれない。しかし、『幽霊』氏は、そうする代わりに、これを利用して、幽霊騒ぎをでっちあげることにしたのだろう。

もちろん運営会社は幽霊騒ぎが始まった時から、これが単なるシステムの不具合にすぎないことはわかっている。掲示板に秩序をもたらしているIPアドレスを空白にできてしまうという不具合。それなりに大事おおごとだ。今頃社内のエンジニアがやっきになって再現手順の解明にとりかかっている筈だ。


運営側が修正するのが早いか、『幽霊』氏がタネを明かして、他のユーザーがみんな『幽霊』になってしまうのが早いか。


そこまで考えた時、電話が鳴ったのである。




「相談というのは、それなんです。不具合なんですけど、そちらでも見ていただいてたんですね。どうでしたか?」


おずおずと、外注担当の男は言った。伊藤より若い筈だが、プロに報酬を約束できない頼み事をする時の手順をちゃんとわかっている様子だった。


「ざっと見ただけですけどね。IPアドレスまわりの扱いに特に問題はないように思えますね。」


神山はわざと軽く言った。実際にはその後ソースコードを無関係な部分も含めてずいぶん精査したのだが、問題はまるで見つからなかったのだ。


「そうですか…うちのエンジニアも同じ事言ってるんですよね。まいったなあ…あの幽霊が今から犯罪予告とかしないか心配ですよ…」


ずいぶん深刻な様子だった。外注先のフリーランスとしては、ここは踏み込んでいいものか迷うところだが、彼の心配は杞憂であることは神山にすれば明らかだったので、神山はつい口を挟んだ。


「まあしかし、実害は今のところ出てないわけだし、様子を見てもいいんじゃないですか。サーバーログはあるわけだし。」


掲示板システムに何かの不具合があって、IPアドレス欄が空白になったといっても、それは掲示板サイトの見た目の上の話であって、ネットワークを経由して書き込みが行われている以上、サーバー自体のアクセスログにはしっかりと発信元のIPアドレスが記録されている。もし、この状態を利用して『幽霊』とやらが犯罪予告などをしたところで、その書き込みを速やかに削除して、警察の捜査が行われた時に、書き込み時のアクセスログを提出すればいいだけだ。それでサービス運営会社の法的責任は果たしたことになる。


「それが…これはくれぐれも内密にしてくださいよ。アクセスログにないんですよ」


「は?アクセスログをとってないんですか?」


「まさか。アクセスログの一部が欠けているんですよ。その書き込みの時だけ、IPアドレスが記録されないんです」


神山は唸った。そうなるとかなり深刻な事態だった。サーバーがIPアドレスの記録を特定の発信者の場合だけ取り漏らすということは、ほぼあり得ない事態だからだ。もちろん、ハードディスク装置の故障などで、ログ全体が丸々喪失することはある。だが、それとは違って、ある特定のログの一部の情報だけが消えるというのは、ほぼ確実に一つの事実を指しているからだ。


「サーバーに侵入されたという前提で考えたほうが良さそうですね。ログの改ざんまで行われているということは、サーバー全体が乗っ取られていると考えるのが妥当です」


神山は言った。

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