インターネットに出現する『幽霊』を自称する存在について

@megamouth

第1話 飛行機雲

神山が座るデスクから見える晴れ渡った正午の空を飛行機雲がゆっくりと横断していく。思わず大きな欠伸がもれると、咥えていた火のついていない煙草が床に転がった。


昨夜はほとんど寝ていない。期限ギリギリまで放置していたプログラム修正を一晩で終えて、このオフィス兼自宅から顧客のサーバーにアップロードしたばかりなのだ。自分で出来るチェックは既にすませていたので、後はクライアントがチェックして問題がなければ、そのまますぐに布団に潜り込むつもりだった。


徹夜明け特有の、目を閉じれば数分で眠りに落ちてしまいそうなまどろみと、ラストスパートを終えた高揚感が入り交じって、まるで疲労した肉体を残して自分の意識だけが初夏の日差しに吸い込まれていくような、不思議な感覚に神山は身を委ねていた。



電話が鳴った。


チェックが終わったにしては早すぎる。今朝のアップロードで、何かミスでもあったのか。


嫌な予感が神山の魂を現世に引き戻した。受話器をとると、予想に反してずいぶん懐かしい声がした。


「神山さん。覚えてますか?伊藤です。」


伊藤は大学の後輩だ。そこまで親しかったわけではなかったが、新聞部の中でもひときわやる気をもて余していて、空回りしがちな伊藤のことはよく覚えていた。確か卒業後はどこかの出版社に就職した、と人づてに聞いた記憶がある。


「久しぶりだな。元気してるか?」


どういう電話かわからないまま、神山はとりあえずそう尋ねた。


「はい、今は週刊誌の編集をやってます。えっと、神山先輩って、インターネット関係の仕事でしたよね?」


当時から変わらない性急な物言いに、神山は内心苦笑した。勤務時間にかけてきたということは、何か仕事絡みの頼みごとなのだろう。


「ああ。一応それで飯を食ってるよ。今はフリーランスだけどな。」


神山は答えた。


「良かった。先輩にちょっと聞きたいことがあるんですが。いいですか?」


思わず溜息をついた。ネットワーク専門のプログラマのような仕事をやっていると、こんなふうに知り合いから無償パソコン相談を求められることが多いのだ。大抵は「ネットにつながらない」だの「パソコンの電源が入らない」だのといった話なのだが、テクノロジーの知識のない人間が抱えるトラブルを電話で解決するのは至難の業で、たいていは問題が解決する前に教わる側が怒り出すことになる。


神山はうんざりして、すぐに電話を切り上げようかと考えたが、思い直した。クライアントのチェックが終わるまで、まだしばらく時間はあるのだ。待っている間にまた眠くならないように、伊藤の相手をするのも悪くない。


「少しなら構わないよ。」


神山は言った。


「助かります。えっと、変な質問かもしれないんですが、


『幽霊』がネットに接続することって可能なんですか?」


「はあ?」


神山は思わず声をあげた。よりによって、そんな質問だとは思ってもみなかったのだ。


「いや、あの今インターネットの掲示板に、自分が『幽霊』と名乗る書き込みがありまして。ちょっとした騒ぎになっているんですよ」


「自分でそう言ってるだけだろ。そういうネタなんじゃないのか?」


神山は呆れて言った。ネット掲示板で注目を浴びるために、そういった発言をする者は多い。


「それがですね。けっこう有名なサイトなんで、掲示板に書き込んでいるユーザーの中にも、先輩ほどじゃないにしても、それなりにネットに詳しい連中もいると思うんですが、彼らが本物じゃないか、って言ってるんですよ」


神山は首をかしげた。掲示板の書き込みのどこを見ればそれが幽霊のものだと判断できるのだろう?見当もつかなかった。


「その連中は何を根拠に、本物だ、って言ってるんだ?」


「えっと、アイピー(IP)っていうんですか?あの発信元を表す数字があるじゃないですか。」


彼が言っているのは正確にはグローバルIPアドレスのことだ。インターネットに接続された全コンピューターを識別するための番号で、基本的にはネットワーク接続している全てのコンピューターごとに異なる番号が割り振られている。


「あれが、ないんだそうです。アイピーが出る欄が空白になってるんですよ。その『幽霊』の書き込みだけ。」


ふーん。と、神山は思った。だいたい話が見えてきた。


不特定多数が利用する掲示板サービスは利用者を識別する目的でIPアドレスを書き込みの内容と共に表示するようにしているものが多い。IPアドレスを誤魔化すことは普通できないので、自作自演の書き込みや、他のユーザーの名前に成りすましていないか、ユーザー自身がIPアドレス欄を見て判断できるようにしているのだ。


しかし、だ。ユーザーが掲示板を見た時に「表示」されている「IPアドレス欄」はあくまで、掲示板システムが表示しているものにすぎない。つまり掲示板システム自体に細工をして、その書き込みの場合にだけ、IPアドレス欄を空白にすることは原理的には可能なのだ。


もちろん、企業の管理するサーバーに侵入して、掲示板システムを勝手に改ざんするのは、連日ニュースを賑わせている「ハッカー」でもなければ難しいし、そもそも違法行為だ。「幽霊」と名乗るためだけに、そんな面倒で危ないなことをするとは思えない。だからこれはそういう話でもないだろう。


「というと?」


伊藤は言った。


「ようするにグルなんだよ。掲示板を管理している人間か、その関係者が、ちょっとしたイタズラをしてる、ってところだろ。」


神山は煙草に火をつけながら言った。


「なるほど。サーバーとシステムを管理している人間であればプログラムを修正することはできますからね」


伊藤は思ったよりも理解が早いようだった。


「そういうことだ。おそらく『幽霊』役のコンピューターからの書き込みだけ、IPアドレスの表示を消すような処理がシステムに組み込まれているんだろう。運営スタッフ個人のイタズラか、もしくは会社の指示か。企業にしてみれば、こんな子供だましでも、話題になれば宣伝になるわけだからな」


伊藤は神山の見解に納得したのか、おざなりに礼を言って電話を切った。神山はこれが記事になって自分のコメントが名前入りで掲載されるところを想像してみたが、それほど興味深い記事になるとは思えなかった。昔の新聞部であれば、真っ先にボツになるところだ。


時計を見ると、まだチェックが完了しそうな時間でもない。そういえばどこのサイトか聞いていなかった。神山はキーボードを叩いて、その幽霊騒ぎが起こっている掲示板を探してみることにした。


騒ぎになっているだけあって、耳の早いニュースサイトが既に記事にしているのが見つかった。どうも『幽霊』はまだ書き込みを続けているらしい。神山はリンクを辿り、この騒ぎを見物することにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る