かじとり (1) 1641

【帝の覚え書き (口述筆記)。現在は1641年の暮れ。】


親政宣言のスピーチで、わたしは自分の仕事が「かじとり」だと言った。


その数日前、Iago が、西洋の小舟 (ポルトガル語でbateiraバテーラ ) の絵を持ってきて、「きみはここにいるんだよ」と言ってくれたからだった。


その絵にえがかれているのは、競争用の細長い手こぎ小舟だった。ふなべりに支点があって、かい(櫂)を支えている。こぎ手が かい を手前に引くと、かい の舟の外側の部分は 前に押され、舟はこぎ手にとってのうしろに押されるのだ。ところが、こぎ手は舟の進行方向と逆向きにすわっているので、舟は前向きの推進力を得るのだ。中国式の手こぎ舟では、こぎ手が前向きにすわって、かいを押すのだが、西洋式に引いたほうが、力がはいりやすいのだろう。


しかし、これでは、こぎ手には進行方向が見えない。舟には、こぎ手のほかにもうひとりの人が乗って、進行方向を向いている。「かじとり」だ。この人のいるところの船底に、かじという板のようなものがついていて、この人はそれを操作して舟の向きを制御するらしいのだが、絵からは、そのことはよくわからない。もしかすると、この舟には舵はないのかもしれない。かじとりの役割は、むしろ、こぎ手に声をかけて、力の入れかたを調節させることによって、舟の進む向きや速さを調節することらしいのだ。まっすぐ進むためにも、加減が必要かもしれない。右に曲がりたいのならば、右側のこぎかたをゆるめて、左側を強める。ただしこの右側・左側は、進行方向に対してであって、こぎ手にとっては逆だ。それをまちがえないように、用語を決めておかないといけない。


絵では、こぎ手は、1せきあたり4人いて、いずれも体格がよく筋肉がしっかりした男の人だ。かじとりは、ずっと小柄で身軽な人だ。こぎ手と同じ服装をしているから、たぶん男の人なのだろう。しかし、Iago に言われて思ったのだが、女の人ということもありうる。この役わりにむいている人は、女の人のほうが多いかもしれない。


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この西日本には、武将や修道会など、さまざまな勢力が、土地を支配し、兵力をもっている。そのうちにまざれば、わたしの直接の支配対象は、あまり大きな勢力ではない。そして、わたし自身には、戦闘の能力はない。


さまざまな勢力の利害がぶつかりあえば、争いが起きる。戦闘を予防するために、そして全体として豊かになるために、利害の調節が必要だ。わたしのとりえは、その調節者としての権威を認められているということなのだ。それはわたしの生まれによるもので、わたしの能力が評価されたわけではないのだけれど、みんなが権威を認める調節者はわたししかいないのだから、調節の仕事を、まじめにやるしかない。


わたしには、それぞれの勢力が望まないことを無理にやらせるだけの力はない。こぎ手に加わる力はないのだ。


複数の利害関係者に、やりたいことを少しがまんしてもらう、あるいは、全体の利益のために少し貢献してもらう。両者が少しずつ負担すれば、どちらにも大きな不満がないようにできるのだ、と感じてもらえるように持っていく。それが、まさに、かじとり の仕事なのだと思う。

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