モノの善し悪し

速水春

端書き

人の心には、必ず大なり小なり悪意というものが存在する。

それを思い切りぶつけてくる人、嫌味に遠回しにこすりつけてくる人。その逆で自分の理性の元に悪意を律し、悪意を糾弾できる人もいる。

多くの人間は、これら二つのどちらかに分かれていた。悪意を持って行使する人。その逆の人。でも、現代人というのはこれら二つに区別されにくくなっている。他人を他人のまま額面通りで受け取る人が少ないからだ。相手のことを深読みして、表現されない悪意を感じ取ってしまうからだ。その言動に悪意など介在していないというのに。

そもそも悪とはなんなのだろうか。善とはなんなのだろうか。結局は、モノの見方だ。一見すると悪いものに見える。だが、見方を変えてみると善になる。戦争がいい例だろう。自国にとっては、戦う兵士や政治家なんていうのはいわゆる正義である。そして、敵国が悪。つまりは、相手の立場に立てば善だと思っているものが悪になり、悪だと思っているものが善になる。大衆にとっての善は、誰か個人の悪となる。これは、現代社会で見られるイジメでよくあることだ。

こう考えてくるとなにが良くてなにが悪いのかわからなくなってくる。結局はそういうことなのだろう。人のキャパシティでは、善悪を図ることなどできない。それでも、人は善や悪で規定したがる。

なぜなら、そうしたほうが楽だからだ。生きて行く上で。自分は、正しい。自分の信じるものが、正しい。それ以外は悪だ。とそう思うことが楽なんだ。だから、他人と接するときに疑心暗鬼になる。そして、見落とす。善意を。自分の楽さを追求するあまりにどれだけの善意や祈りが、呪いに変えられたことか。そもそも本当に悪意をもって接している人などいないというのに。

書き始めがグダグダと長くなったが、これはそういう物語だ。人の善意を信じる話。人の気持ちに戸惑い、つまずき、転んで、立ち上がる話。祈りを、善意を信じて。

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