第9話 疑惑
近頃、左の腕が痛くてどうしようもないのだと、若様がお信乃に訴えてきたのは、義太郎が生まれてから、数ヶ月もしない頃だった。
「寝違えでもしたんでしょうよ」
お信乃はあっさりそう言って、若様の枕を上等のものに変えるように、番頭に言いつける。
「うーん、首はどうもないんですけどねえ」
若様は首をぐるぐると回し、左肩も回しながら、なおもお信乃に痛い、痛いと言い続ける。
「あ。わかった。今日は長老方との寄り合いの日だ。あんた、面倒くさくなったんでしょう?」
「……バレましたか?」
若様はまったく悪びれもせずにぺろっと舌を出す。そんな仕草が可愛くて、お信乃は笑って、番頭に今日の寄り合いを代わってやるように命じた。
「夜に遊び歩いてばっかりいるからですよ。今日の寄り合いは行かなくて良いから、今日、明日、明後日くらいは家で落ち着いて義太郎の面倒を見ていてくださいな」
「……義太郎が今日のお相手ですか……。赤ちゃんは苦手です」
「藤吉郎は頭が良すぎて真面目すぎるから苦手、鶴松は元気すぎて暴れるから苦手、義太郎は赤ちゃんだから苦手……あんたねえ! そろそろ、三人全員、我が子だという自覚でも持って、面倒見てやっておくんなさいな! 日がな一日、ボーッとして遊んでるだけなんだから!」
「はい、はい、わかりましたよ、もう! お信乃さんの怒りんぼ!」
仕事に向かう妻の背中にべえっと舌を出して、若様は自室のタタミに寝転がる。
音もなく障子が開いて、母のお円が顔をのぞかせた。
「おや、母上。どうなさいました」
若様が、寝転がっていた体を起こして、母を迎えた。
「おや?」
母が、息子の異変に気づいて声を上げた。
「そんなところに傷がありましたか?」
「傷?」
母が差し出す手鏡で見ると、若様の首筋に、大きな太刀で切られたような傷がある。だが、それはもうすでに治りかけていて、たしかに若様は常にそのあたりに痛みを感じているのだが、斬ったり刺したりするような、鮮烈な痛みではない。
もっと肩の張りや寝違いのような鈍い痛さで、若様は「このような傷に覚えはない」と言った。
それから、しばらく、またしばらくとその後に、若様の傷はどんどん、大きくなっていく。
「お奉行所の若君様が月夜の使者に斬り殺されたそうですよ」
お信乃からその話を聞いたとき、お円ははっと、息を呑んだ。
「……月夜の使者って、なんでございますの?」
「あら、お
情けない、情けないと呟きながら、お信乃が仕事に向かう。
その、痩せてギスギスした背中をながめながら、お円はきょろきょろと、せわしなく目を動かした。
お信乃と若様の部屋の、床の間に飾ってある太刀に目を向ける。
とくに、何を思ったわけでもなかった。
太刀を手に取る。
ひらりと、鞘を抜いた。
「ひ!」
思わず目をむいて、お円は太刀を投げ捨てる。
……太刀には……誰のものともしれぬ血が、べっとりとこびりついていた……。
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