第8話 忠慧
夜……相模屋の裏口から、ひとりの男が外に出る。
まだ宵の口だったが、寒い冬の日のこと。あたりは真っ暗で、雪がちらついている。
武家の子が通う学舎では、先生の仕事の手伝いですっかり帰宅が遅くなってしまった
忠慧は、男の異様な姿を見とがめて足を止める。
男の目が……赤い。
口からは白い息を吐き、ただ、目が赤く爛々と輝くさまが、忠慧の目には奇妙にうつった。男が右手に持つ太刀に目を留める。
「月夜の使者……!」
その名が思わず口をつく。
「誰だ!」
男が、赤い目をこちらに向けた。
「ひ!」
叫んで、忠慧は大通りに向かって逃げ出す。
「誰だ!」
同じことを、男は二度聞いた。
忠慧は、応えない。ただ、懸命に大通りに向けて走った。
「助けて、助けて、助けて!」
男が、刀を振り上げた。
「姉上! 助けて!」
……それが……数え14歳になったばかりの忠慧の、最期の言葉になった。
玄関先で、すでにこときれた忠慧を阿津が見つけたのは、早朝のことだった。
「忠慧。忠慧……」
一晩かけて、歩いて帰ってきたのだろう。
やっと家について、ほっとしたのかもしれない。
忠慧の表情は、ただ、穏やかだった。
「忠慧……」
父の鬼奉行も、母のお初も、忠慧の亡骸を見て、力なくうなだれる。ただ、数え4つの直太朗だけが、「あにうえ」と無邪気に忠慧を呼ぶ。
「左利き」
忠慧の切り傷を見て、阿津が呟く。
「……左利き?」
「忠慧が、月夜の使者は左利きだと、申しておりましたの」
阿津にそんな話を聞いて、鬼奉行は息子の亡骸の、切り傷をまじまじと見つめる。
「……左利き……」
じっと呟くと、鬼奉行は妻に通夜と葬儀の手配を申しつけ、阿津を伴って奉行所の道場に入る。
「太刀は両手で振るうもの。左利きの者とて、太刀の持ち方は右利きと同じ」
そう言いながら、父は阿津の前で竹刀を振るう。
「そんなことは忠慧もよう、存じておるはずだが」
「おそらくは、剣を振るったことがない者の仕業だと、申しておりました」
「……剣を振るったことがない? 武家ではなく、町民の仕業と申すか」
「……わたくしでは、存じかねます」
「埒もない。14の子どもの申すこと……月夜の使者の捜査は同心頭の藤川によう、言い聞かせておる。子どもが口を出すな」
「承知いたしました」
それ以来、阿津は「月夜の使者は左利き」だという話をしなくなった。
忠慧の通夜は、翌日。
葬儀は、その次の日に……奉行所の中で、ただひっそりとしめやかに執り行われた。
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