第4話 恋人
花魁の千代菊姐さんが、桃源楼を去った。
好いた男と駆け落ちした。
ほの香姐さんは泣きわめくだけだし、あたしたちには何が何だかわからない。親父様はカンカンになって怒っていたけど、「千代菊の借金はすでにない」と、追っ手を差し向けるような野暮なマネはしなかった。
いなくなった千代菊姐さんのかわりに、ほの香姐さんが花魁になった。
ほの香姐さんは「野菊」と名前を変えて……桃源楼の、一番花魁となった。
あたしは……ほの香……野菊姐さんが、好きじゃない。
千代菊姐さんはあたしのことを「小さい頃の自分に似てる」と言って可愛がってくれて、そのおかげであたしは
だけど、野菊姐さんは、違う。
あたしのことを嫌っている。
あたしのやることなすことを嫌な目で見てきて、すぐに叱る。まるで小姑みたいだ。
千代菊姐さんが居なくなってから、野菊姐さんのお琴や踊りのお稽古はよりいっそう厳しくなった。たぶん、今までは千代菊姐さんの目が光ってたから、野菊姐さんのイジメがわからなかっただけ。野菊姐さんはあたしにだけ、意地悪だった。
野菊姐さんが花魁になってから、あたしはちっとも楽しくなくなった。
千代菊姐さんと違って、野菊姐さんはタバコを吸わない。お酒も飲まない。真面目すぎるほどに真面目な姐さんに、息が詰まった。
やがて姐さんの道中に付いてお座敷でお世話をすることすら、苦痛になっていった……。
「ねえ、さち香。お前、テツジの旦那と会うておりんしょう」
ある日……。
野菊姐さんが、まるでなにもかもがお見通しであるかのように、顔色も変えず、ただ一言だけそう言った。
「会うておりんせんよ」
あたしは、すかさずそう返す。
「うそばっかり」
小馬鹿にしたような言い方に、あたしはかちんときて姐さんを睨む。
姐さんはそんなあたしを見つめた後、ついっと顔を上げて、部屋の窓から満月が浮かぶ空を見上げた。
「今日は、満月え」
姐さんは、それだけ言って、またあたしに目を戻す。
「満月の夜は、
姐さんは立ち上がり、布団が敷かれた部屋に行って寝てしまった。
「……姐さん、姐さん」
起こしても、起きない。
カオナシから薬を貰う時間は迫っていたから、あたしはいつも通りの布団部屋にカオナシを探しに行った。
カオナシはいつもどおり、布団部屋に重ねられた布団に腰掛けて……さっきの姐さんと同じように、布団部屋の窓から満月を眺めていた。
「カオナシ」
あたしが呼びかけると、カオナシはゆっくりとあたしの方に顔を向ける。そしてまた……満月に目を戻した。
「野菊が、お前を抱けという」
満月を見たまま……カオナシが、そう呟いた。そして、ぷっと吹き出して、ゲラゲラ笑う。
「野菊は恋を知らぬまま……愛しいと想う男など居ぬままに花魁になっちまったからなあ。年季が明けるまで、あいつはずっと、好いた惚れたを知らぬまま、客に抱かれる」
ゲラゲラ笑う……だけど、それは酷く乾いた、哀しい笑いだ。
「……カオナシは、姐さんが好きなの?」
「俺が、野菊を?」
カオナシは、一瞬、キョトンとした顔をし、そして、首を振った。
「好きだけど……野菊はお華と同じだ」
野菊姐さんに対する「好き」は、家族に対する「好き」と同じなのだと、カオナシは言う。
「俺を魔羅としてみねえ女は、お華と野菊だけだから」
哀しげにそう呟いて、カオナシは立ち上がり、あたしにいつもの薬包を手渡す。そして、あたしの横をすり抜けて、布団部屋のふすまに手をかけた。
「待って」
あたしは、カオナシの汚い紺色の
「あたしがあんたを好き……って言ったら……?」
「俺はお華を嫁に出すまで、女は誰も好きにならない」
カオナシは、あたしの言葉を自分の言葉で強く押し込める。
「なに、お華はもう十一だから、あと四年もすれば嫁に行くさ」
恋仲になるならその時にと、カオナシは笑った。
「あと四年も待ってたら、あたし、花魁になっちまうじゃないのさ」
「……さて……花魁を抱くのはいくらかかるのかな」
カオナシは、娘のことしか想っていない。
娘のことが一番で、野菊姐さんのことが二番……あたしがいくら、「好きだ愛してる」と繰り返しても、もしもカオナシがあたしを受け容れてくれたとしても、あたしはきっと、カオナシの心の三番目にしか入れない。
それでも、あたしはカオナシの胸に顔を埋めた。カオナシも、そっとあたしを抱きしめてくれる。
「満月の、夜にだけ……」
カオナシが、そっとあたしの耳元でそう囁いた。
「お前が花魁になるまで、満月の夜にだけ、恋人でいよう」
花魁になるまで……それは、あと一年ほどしかない。たった一年の、期限付きの恋……。
だけど、あたしは頷いた。
満月の夜にだけ……カオナシは、あたしの「ぬしさま」になった。
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