ご用心
宮倉このは
ご用心
「魔物は怖いぞ。充分気をつける事じゃ」
アンタの顔の方が怖いよ。忠告してきた老婆の顔を思い出して、ピオルは身震いした。
仄かに光る蝋燭だけが灯る室内にも関わらず、皺の一本一本、ぎょろりと出た目の充血具合すらはっきりと見える状態まで顔を近づけられた上に、不気味極まりない言葉を臭い息と共に投げつけられたのだ。これで怖じ気づくなと言う方が無理な話である。
今思い出しただけでも、鳥肌が立つ。こうして無事に生きているのが不思議なくらいだ。魂を吸い取られるかと思った。
「巷じゃ評判の占い師だって言ってたから、見て貰ったって言うのに……アレじゃ、見て貰わない方が良かったよ」
有り金全部出すから、命まで取らないで下さいと平身低頭に頼んでしまいたくなるような感じだった。今日はぐっすり熟睡とは縁遠い夜になりそうだ。
ピオルは、各地を旅しながら薬草を集めて回る収集家だった。珍しい薬草があると聞けばどこへでも出向いていき、譲って欲しいと言われれば、値段を交渉して売り渡しもしていた。
勿論、薬草の煎じ方も心得ている。病気に伏している人がいれば、病状に応じた薬を煎じてもいた。
今日は、ユイトースという山の奥に咲いているという、熱病によく効くという薬草を採りに来た。しかし行程上どうしても野宿をしなければならなかった為、占い師に危険がないかどうか見て貰おうとしたのだ。
危険な所へ行く時や野宿が必要になる時などは、必ず占い師に見て貰って行程を変えたりするのが旅人の常識だったのだが、今回ばかりはそれが災いした。
まさか、あんな(顔が)怖い占い師だとは思わなかった。人は見かけで判断するものではないと分かってはいるが、生理的恐怖には勝てなかった。
野宿は慣れているが、こんなに怖いと思った事はない。たき火に照らされた周りの木々達に目と鼻と口が付いて、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ている気すらするのだ。
しかも、占い師の印象があまりにも強烈だった為に肝心の占い内容を思い出したのがつい先刻、野宿をしようとたき火を起こした時だった。
なんて絶妙なタイミングだろうか。こんな時に思い出す事すら、あの占い師の陰謀のような気がしてならない。
「はあ……魔物かぁ。あの占い師の腕次第じゃ、僕は明日の太陽を拝めないかも知れないんだよな」
ピオルとて、占いの内容を丸飲みにしているわけではない。占い師の腕にもよるが、本当に当たる確率はあまり高くない。彼女達の助言は、あくまでもこれからの行動を決めるにあたってのヒントに過ぎないのだ。
けれど今回は、本当に当たってしまうような気がしてならない。ピオルの独り言を肯定するかのように、ざわざわと木々が風に揺れたからだ。
自分でも大袈裟だと思う程に大きく肩を揺らしたピオルは、自分自身の体を強く抱きしめて、辺りを見回した。
せめて傭兵の一人でも雇っていくべきだったか。あの時はただ占い師の不気味さから少しでも早く遠ざかりたくて、取るものもとりあえず町から出てしまったが、今になって後悔の波が襲ってきた。
「どうしよう。今夜は眠らずに火を見ていた方が良いのかな。いや、火をつけていたらかえって魔物に見つかりやすいから、思い切って真っ暗にして眠っちゃった方が良いのかな」
一人で不安な時は、独り言が多くなるのが必然。ピオルは落ち着きなくあたりに視線を揺らしながら、これからどうするかを必死に思案した。
本心としては、眠ってしまいたかった。しかし気づかないうちに魔物に襲われて、永遠の眠りについてしまう可能性が頭から離れない。
だが、このまま火をたき続けて魔物に見つかりませんようにと祈り続けるには、夜はあまりにも長すぎる。
結局良い考えが浮かばないまま、悶々とたき火を見続ける。こうなってくると、何も考えずに呑気にはぜる赤い揺らめきすら憎らしくなってくる。
「あーあ、何たって僕はユイトースに薬草を採りに行こうだなんて思っちゃったんだろう。あんな所まで行かなくたって、珍しい薬草はあるのに」
その薬草を早急に必要としている病人がいるわけでもなかった。ただ単に、人づてに珍しい薬草があると聞いて好奇心の赴くままに向かってしまったのだ。
自分の探求心で後悔する事態に襲われるとは思ってもいなかった。例えどんなに珍しいと言われても、命あっての物種だ。魔物に襲われて命を落としてしまっては、なんにもならない。
かといって、今更山を下りるのはさらに死亡率を上げるだけだ。危険な動物は魔物だけではないのだから。飢えた肉食獣が涎を垂らしながら追いかけてくる所など、想像もしたくない。
「はー……」
もはや、ため息をつくしかやる事がなくなってしまった。話し相手の一人でもいれば良かったのにと、そう思っている内にだんだん瞼が重たくなってきた。
小さな声が聞こえてきたのは、どれくらい経ってからだったろうか。船を漕いでいたピオルは重い瞼をこすりながら、辺りを見回した。
「誰か、いるの?」
こんな時ですら、偶然にも誰かが通りかかったという都合の良すぎるシチュエーションを期待してしまう自分に気づいていないピオルは、目を輝かせる。
しかし、周りに広がるのは闇の力を借りて不気味さを増した木々が茂るばかりだった。
「なんだ、気の所為か」
がっくりと肩を落とすピオルの耳に、再び声が聞こえた。囁くような小さな声で、何を言っているのかまでは聞き取れないが、確かに人の声だ。
「や、やっぱり声が聞こえる……!」
どこかに人がいるのだ。縋る思いで、ピオルは立ち上がり首を巡らせた。
「だ、誰かいるんですか?」
魔物や獣の事が頭を横切り、あまり大きな声は出せなかった。それでも誰でも良いから出てきて欲しいという思いで、乾いた喉を震わせる。
しばらく待っても、応えはない。やはり空耳だったのだろうかと、たき火の前に座り直す。
すると。
「……………」
目の錯覚だ。
一番最初に頭に浮かんできた言葉が、これだ。だが、どれだけ目をこすろうとも頭を自分で小突こうとも、頬をつねろうとも目の前の光景は変わらなかった。
自分はもう既に魔物の腹の中に収まってしまい、これはあの世の光景なのだと思ってしまおうとしたが、思い切りつねった頬の痛みが、これは現実なのだと声を大にして言っていた。
「な、な、なんだよ、これ……!」
たき火と言えば、こんな状況下でしかも大勢でいればキャンプファイヤーだろう。しかし、今はピオル一人しかいない。
否。ピオル一人しかいなかった、筈だった。
今は違う。ここにいるのは、彼一人だけではない。
ただし――一緒にいるのは、人間ではない。
(クスクス……)
(クスクス……)
(楽しいね)
(嬉しいね)
(踊ろうよ)
(遊ぼうよ)
呆然と佇むピオルの目の前には、小さな炎のような生き物がたき火の周りをぐるりと囲んで踊りながら回っていた。
小指程の、小さな――小人と言った方が良いだろうか。蝋燭のように揺らめきながら、辛うじて人間に見える者達が、くるくると踊りながら、ピオルに手招きしている。
数秒経っても受け入れがたい光景だったが、ピオルは気力を振り絞って首を左右に振った。
例え自分よりもずっと小さな生き物でも、人間を貶めるのに充分な力を持っているものもいると、今までの経験が物語っていたからだ。
頷いたりしたら、どんな目に遭うか分からない。
「い、いや……遠慮しとくよ」
震える唇を何とか動かしながらそう言って、しかし敵意を感じさせないように引きつった笑みを浮かべる。
だが、次の彼らの言葉に再び戦慄を覚える。
(来るよ)
(来るよ)
(アイツが、来るよ)
(早く、こっちへ来て)
(危ないよ)
(食べられちゃうよ)
「え……?」
食べようとしているのは、お前らじゃないのかと言おうとした時だった。
「おや……火が見えたから、誰かいるのかと思えば。昼間会った坊やじゃないか。勇敢だねぇ、アタシの占いを受けても尚、こんな所で野宿とは」
「……………!?」
振り返らなければ良かった。そう思った時には、もう遅かった。
蝋燭に照らされた時の「彼女」の不気味な顔を、再び見る羽目になろうとは。
「あ、アンタは……!」
木々の中から姿を現したのは、確かに昼間会った占い師だった。皺だらけの顔と充血した大きな目は、見間違いようがない。
しかし、何故こんな所に彼女がいるのだろう。その疑問が顔に出ていたのか、老婆は肩を揺すりながら笑った。
「アタシもこっちの方に用があってね。だけど、森の中で迷っちまって、途方に暮れていたのさ。坊やがいてくれれば、心強いよ」
「……………」
確かにピオルも、人に会いたいと思っていた。偶然でも良い、誰でも良いから話し相手が欲しいと。
それが例え、不気味な老婆でも。
出来れば、もう少しまともな相手で欲しかったが。
贅沢は言っていられないか。心の中で呟くと、ピオルは視線を彷徨わせながら言った。
「あー……のさ、魔物が出るって言ってたけど、それってこいつらの事か?」
「おや……」
老婆はぎょろりと突き出た充血した目をさらに大きく見開いて、まじまじと炎の小人達を見下ろした。
そして、まるで恐ろしい物を見つけたかのように袖で口元を覆った。
「これは、恐ろしい。炎の
「なっ……!」
今も尚、小人達は踊り続けている。だが先刻まで聞こえていた声が聞こえない。もしあの声に頷いていたら、自分は今頃まる焦げになっていたというのか。
魔物と言うからには、大きな獣のような姿をしていて一口で自分を食べてしまうようなものだと思っていた。
喰われるのも嫌だが、炎に呑み込まれるのも嫌だ。頷かなくて本当に良かったと胸をなで下ろすピオルに、占い師はさらに言った。
「近づくんじゃないよ。早く、火を消すんだ。そうすれば、奴等は手を出せなくなる」
「あ、あぁ……」
占い師の言う通りにした方が良いとは思ったのだが、何故かピオルの脳裏に微かに走った予感に、一瞬手が止まった。
確か、自分は思わなかっただろうか。
昼間、占いを受けた時に。
「魔物は怖いぞ。充分気をつける事じゃ」
……アンタの顔の方が怖いよ。
(違う)
(違うよ)
(火を消しちゃ駄目)
(魔物は)
(キミを食べようとしてるのは)
(こいつだ!)
炎の小人達はいつしか踊りを止めて、互いの手を繋ぎ上下に動かしていた。するとしゃがんだピオルの胸あたりまでしかなかったたき火の炎が突如として大きく燃え上がり、まるで生き物のように占い師に襲いかかった。
「ぎぃやあああああ――――っ!!」
「……………!」
老婆はあっという間に炎にまみれた。全身に熱を纏い、悶絶の声を上げながら転げ回る。言葉を失ってその場に完全に尻餅をついてしまったピオルは、助けの手を伸ばすのも忘れてそれを見ているしかなかった。
このまま放っておけば、死んでしまう。炎の小人達が正しいのか、それとも老婆の方が正しいのか。凄まじい光景に思考が停止してしまった。
動けない。どちらが正しいにしても、ここは逃げなければ殺されてしまう。そう分かっていても、腰が砕けてしまって立ち上がる事すらままならない。
一体どうすれば。そう思った時だった。
「ぐ……ううぅああぁあああ………!」
「なっ……!!」
炎に全身を舐められて、無事でいられる人間などいない。
否。いてはいけない。
だが、老婆は。
「な、何なんだよ……!」
焼けただれてまともに動けないはずの老婆が、黒こげになった身体をゆっくりと起こす所を目の当たりにして、もはやピオルに出来るのは、目を潤ませながら悲鳴にも似た呟きを漏らす事だけだった。
魔物は、こちらの方だったのか。
(ふ……ふふはははは……! だ、だから言っただろう……魔物に気をつけろ、とね……!)
何が巷で評判の占い師だ! ピオルは、噂を流した顔も名も知らぬ人間に心の内で盛大に罵声を投げかけて、それでも何とか唇を動かした。
「そ、そうだよな……。自分で現れるって言えば、外れるわけがないよな……!」
ふらりと立ち上がった老婆は、もはや人間の姿をしていなかった。人間だった時の名残――占い師特有の黒いローブの成れの果てと、炎にまかれた後の煙を出しながら現れたのは、紛れもなく、魔物。
隙間だらけだった歯は、逆に隙間なくしかも鋭く光る牙が光り、目は充血をそのままにぎょろりとした魚を思わせる金色に変化していた。
紫色の肌はたき火の明かりを受けてぬらりと光る体液で覆われている。それは全身を覆ってもまだ余りあるようで、歯と同様鋭く尖った爪の先と、耳まで割れた大きな口から覗かせている死と血を思わせる真っ赤な舌からもしたたり落ちていた。
今まで、魔物に会う機会がなかったわけではない。珍しい薬草は、人が普段踏みいらないような所に生えているから珍しいわけで、そこに行けば会った事もないような生き物に出くわしてしまう。
しかしこの魔物は、今までに会った魔物の中でも一番恐ろしい姿をしていた。こんなものに襲われたら、死を意識する間もなく喰われているだろう。
炎の小人達に助けられたピオルは、その例外になるわけだが。
「お、お前は……ワザと魔物が現れると予告して、恐怖を煽って人を混乱させ、まともな行動を取らせなくさせて油断した所を……!」
恐怖を前に、冷静に行動が取れる人間はごく少数だ。どうしたらいいのか分からず右往左往して、この魔物の罠にはまった人間の方が多いだろう。
ピオルも、自分の思考に絡んだ第六感と、炎の小人達の手助けがなければ彼らと同じ末路を辿っていた。
一体何人の人間が、こいつに……!
(ふ、ふふふふ……だから、言ったろぅ? 魔物には気をつけろとねぇ……!)
犠牲者に投げかけてきただろう台詞を、魔物はピオルにも突きつけてきた。
早く逃げなければ。自分には、魔物と戦う術はない。
けれど、情けない事にまだ身体が言う事を聞かない。
このままでは……。
(そうは、させないよ)
(この子は、僕達を怖がらなかった)
(僕達を、消さなかった)
(だから、守ってあげる)
(お前なんかに、殺させないぞ!)
声に気づいて見れば、炎の小人達はさらに激しく腕を上下させていた。それに呼応して、たき火の炎はピオルよりも、魔物よりも大きくなり。
やがて、獅子の形となってピオルを守るように魔物の前に立ちはだかった。
炎の鬣に隠されて魔物の表情はよく見えなかったが、悔しそうに歯ぎしりしている音が聞こえる。
(おのれぇ、炎の魔魅がぁ!)
(やっつけろー!)
炎の小人達が命じると、獅子はうなり声を上げて魔物に襲いかかっていった。
炎が、夜の闇の中でまるで太陽のように輝く。
――そこから先の事は、良く覚えていない。気が付いたら本物の太陽が森を、ピオルを照らしていた。
「……………あれ?」
どうやら、眠ってしまったようだ。あの状況でどうやって眠れたのかすら分からないが、確かにピオルは横になっていて、目の前には燃え尽きた薪が細い煙を出していた。
辺りを見回しても、炎の小人達も魔物も見当たらない。夜の出来事が嘘のように太陽は緑溢れる木々を照らし出し、小鳥のさえずりがピオルを現実へ引き戻すように聞こえる。
ピオルはゆっくりと身体を起こしながら、頬をかいた。
「夢、だったのかな」
しかし、夢にしては妙に現実感があった。あの時感じた恐怖も、魔物や小人達の声も身体に生々しく残っている。
自分がこうして無事でいると言う事は、小人達はピオルを守って魔物を退治してくれたのだろうか。
聞きたくても彼らはもうどこにもいない。魔物の残骸でも残っていないだろうかと、立ち上がって辺りを歩き回ってみたが、それらしいものもない。
だが、風に乗って微かに声が聞こえた――ような、気がした。
(また、会おうね)
(今度は、一緒に遊ぼうね)
「……………」
幻だったのだろうか。
現実だったのだろうか。
いくら考えても分からなかったが、言うべき事は分かった。
「ありがとう。今度は、一緒に遊ぼうね」
ピオルは荷物を持ち上げると、薬草が生えている山へと歩いていった。
ご用心 宮倉このは @miyakura
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