憩いのジャングル
たかひろ
憩いのジャングル
こんなに不安になったのは生まれて初めてだった。
俺は今、どこかの国のどこかのジャングルにいる。おそらく一週間が過ぎた。いや、もっとかもしれない。そして今が何時かもわからない。多分、なんとなくだけど、夕方くらいだと思う。
そんなことより、とにかく腹が減りすぎて全身に力が入らない。水分は、木を切って出てくる水で確保できたから今までなんとか生きながらえているけど、食料がないことにはいずれ死ぬ。何かを口に含まなければダメだ。見たこともないような虫ならその辺にいくらでもいるが、さすがにそれを食べる気にはなれない。たとえ火を通したとしても絶対に無理だ。俺は虫が嫌いなんだ。
あそこから出た時、何としてでも生きて帰ると強く誓ったが、そろそろ限界がきていた。奴らに捕まったら一巻の終わりだ。確実に死ぬよりつらい目に遭うだろう。考えただけでも気分が悪くなってくる。畜生。苛々する。
「お、おい……ちょっと待ってくれよ」
後ろから情けない乾いた声が聞こえた。通訳の男だ。
彼は明らかに俺より疲弊していた。顔もやけに青白く、その短い足もフラフラだった。
「ちょっと休もう……」
男が木に寄り添って座り込んだ。
「そうだな……」
そう言って、俺も男の横に腰掛けた。
「なんでこんなことになっちまったんだよぉ」
通訳の男は泣きそうになりながら、木々で覆い隠された空を見上げて言った。
確かに、俺もそう思う。ほんの何日か前までは日本でいつも通り堕落的な日常を送っていたのに、なぜ今俺はランボーみたいなことをしているんだ。つくづく運の悪い人生だ。
*
すべては姉が失踪したことが始まりだった。
パチスロで十万も負けたから、久しぶりに姉に金を借りようと家に行った。ボロボロのガラクタみたいなアパートだ。
風俗で夜に働いている姉は、夕方にはまだ家にいるはずだが、その日はなぜかいなかった。扉の横についているポストに合鍵が入っているから、それを使って勝手に開けて、勝手に上がり込んだ。
犬のミニチュアダックスが飛びかかるようにして寄ってくる。飼い主がいなくて寂しかったのか、やけに元気だ。だがよく見るとおかしい。足元がおぼつかない様子だった。
腹が減っているのかと思って戸棚に入っていたドッグフードをやったが、食べようとせずただ俺の方に寄ってくるだけだ。
鬱陶しいので軽く足で押しやったが、まだ懲りずに寄ってくる。何度蹴ってもきりがないので無視して棚を漁った。
いかにも金が入っていそうな封筒を見つける。封筒には死に損ないの老人が書いたようなガタガタの字で何か書いてあるが、読めそうにないので諦めて封筒の中を覗いた。なにも入っていなかった。他にも色々漁ったが、結局金目のものは一切見つからなかった。
姉には、子供の頃から何かをしてもらったこともないし、一緒に遊んだ記憶も殆ど無い。逆に文句ばかりで、何かあるたびにヒステリックに怒鳴り散らしてきた。はっきり言って嫌いだ。俺にとって姉はただの金づるで、利用するだけの存在でしかない。向こうが俺に金を貸すのも、俺がキレると面倒くさいのをわかっているからだ。つまり金で俺のご機嫌を買ってるんだ。
俺は諦めて家を出た。
しょうがなく姉の勤め先の風俗店に行く。姉の同僚のミキちゃんにフェラをしてもらいながら姉がいないことを話したが、ここ最近店にも来ていないという。
嫌な予感がした。姉は過去に闇金に手を出し、その借金を返すために風俗で働きだした。全額返済したらしいが、なぜか辞めることなく働き続けた。姉は陽気ではあるし、昔から家出をするようなタイプでもなかった。だから急に失踪するとしたら、自分の身に危険が及ぶ時以外考えられない。つまりまた闇金に手を出した可能性があるということだ。そしてもし借金を返したくないからという理由で逃げたのだとしたら、弟である俺の元に闇金の連中が来るかもしれない。そうなると実に面倒くさい。
*
翌日パチンコに行くために外出する時、自分の身に危険が及ぶかもしれないと思って机の引き出しから自作のキーホルダーを取り出し、家の鍵につけた。このキーホルダーは一見するとただの楕円形の飾りのようだが、実は仕込みナイフになっていて、楕円形の飾りには『California』と書いてあり、その”C”の部分を押すとナイフが飛び出す。刃渡り三センチほどの小さなものだが、喧嘩の時にこれを刺せば相手を殺すことはないが怯ませることはできる。
中学の時に作ったもので、当時俺に絡んできた先輩をこれで刺しまくってやったことがある。先輩は大量に出血して泣きそうになっていたが、全身何十針と縫っただけで助かった。それ以降、先輩はビビって俺を見るだけで目を逸らすようになったが、その代償として俺は少年院へ行くことになった。警察には武器は捨てたと嘘をついたが実際には友達に預けていたので、押収されずに済んだ。
周りに気を使いながら歩いていると、早速ドスのきいた声で呼び止められた。
「長谷川和樹くんかな?」
振り返ると、明らかに堅気には見えない男が二人立っている。一人は上下ジャージで、もう一人はスーツを着たサラリーマンのような男だ。サラリーマンのようなといっても、服装がそうであるだけで眼光は鋭すぎる。一見すると刑事のようでもあった。
「なんスか?」
「和美さんのことで話があるんだけど、ちょっといいかな」
姉のことだった。
話も聞かず逃げたら不自然だから、おとなしくついて行く。
やはり彼らは金融屋だった。
事務所は雑居ビルの二階で、内装は普通のサラ金のように、奥にデスクが四つ並び、手前に小さなカウンターがあった。右の奥にはモザイクのガラスが張ってあるパーテーションがあり、その中に、小さい机をくたびれたソファーが挟んでいた。ちんけな応接セットだ。俺はそのソファーに座らされ、向かいにはさっきのサラリーマン風の男が座った。
「君のお姉さんね、ここで借金してるんだわ。膨れに膨れてざっと二千万だ」
俺は口に含んだお茶を吹き出しそうになった。たかだか風俗嬢がどうやったら二千万も借金できるんだ。
おそらく彼らは、女だからいつでも回収できるだろうと思って金を貸しまくったが、突然逃げられたというところだろう。マヌケな奴らだと思うと同時に、現実味のない金額を耳にしたことで変な緊張感もあった。
「君に相談があるんだが、お姉ちゃんを連れ戻して欲しいんだ」
連れ戻す……。俺はてっきり「お前が金を返せ」とでも言われるのかと思ったが、どうやら違ったようだ。
というより、連帯保証人もなしで金を貸したのだろうか。闇金稼業も最近は警察の取り締まりが厳しいし、一般人も知識をつけたことでやっていくのが厳しいと聞いた。だから金を貸す基準を甘くしているのかもしれない。
「なんで俺が……」
「海外に逃亡したという情報が入ってね。君が行って説得して欲しい。もしできないのであれば、借金は親族である君から回収することになるが、どうする?」
こうなることはなんとなくわかってはいたが、いざ目の前に叩きつけられると、怒りが湧いてくる。鼓動が激しくなり、顔が熱くなった。
「俺たちだけで行っても、抵抗されるだろ? だから君が行って説明して欲しいんだよ」
「なんて言うんだよ」
「一千万は負けてやるから残りの一千万をコツコツ返せと」
「返せるわけないだろ。利息はいくらだ」
こいつらは闇金だ。短期間で借金が二千万まで膨れ上がったということは、相当高い利息を取っているはずだ。
「利息は取らないよ。俺らも全く返済されないよりもされる方がいいからな。姉ちゃんが戻ってくるような条件を出すつもりだ」
俺は黙った。
こいつらは信用できない。だがどのみちここで断れば俺が借金の肩代わりをさせられるだけでメリットがない。例え連れ戻すのが無理だとしても、やるだけやってみたほうがいいかのもしれない。
それか警察に泣きつけばなんとかなるか、とも考えた。だが俺は、闇金から金を借り、いざ返す時になったら警察に駆け込んで、闇金業者の社長を逮捕させた奴を知っているが、その後社員の連中に仕返しで拷問で殺されたのも知っている。この手の業者の、特に下っ端は頭も悪いし常に感情で行動するような理性のない野郎ばかりだ。こっちが法律を盾にしたところで、後で何をされるかわかったもんじゃない。損得の判断ができない奴を相手にすると面倒くさいんだ。
ならどうすればいい……。
「お前、今仕事ないんだろ?」
デスクで電話をしていたジャージの男が顔を覗かせて話しかけてきた。
そうだ。俺は先月まで塗装屋をしていたが、親方と喧嘩になって辞めた。
「もし姉を連れ戻すことができたら、うちで働かせてやってもいいぞ」
「そうだな。今うちは見ての通り人手不足だ」
スーツの男がタバコに火をつけながら言った。
確かにまだ朝なのに事務所には二人しかいない。借金の回収に行っているのかと思ったが人手不足だったのか。
「どうだ? 行くか?」
闇金か……。俺は考えた。他人に同情することがない俺なら確かに向いているかもしれない。緊張と同時に妙な期待感が出てきた。
これから仕事をどうしようかと思っていた矢先に就職先が見つかった気分だ。ということはこれは面接みたいなものか……。
だがこれも奴らの手口。俺のような無職のどうしようもない男は、金もなく将来が不安で、誰にも頼られたことがない。そういう奴には、逃げ道を塞いだ上で、進むべき道を開けてやれば馬鹿みたいにそっちに歩いていく。奴らはそうやって俺をコントロールしている。
だがそれをわかっていても、差し伸べられた手を掴みたくなっている自分がいた。
「行ってくれるな?」
俺は小さく頷いた。
*
聞いたことのない国だった。飛行機で七時間ほどかけてある都市に行き、そこから車で四五時間かけてジャングルの周辺まで来た。所々に木で建てられた小屋があるが、人が生活している様子はない。
闇金によると、姉はこのジャングルの奥地にあるバナナ農園に潜んでいるということだった。ジャングルの奥地にバナナ農園があるのかどうかはわからなかったが、この蒸し暑い気温と雰囲気的に、いかにもバナナがありそうだった。
俺の姉がバナナ農園に潜んでいるというのも、姉は学生時代にイギリスに留学していて、その時にこの国の男と交際しており、そして今から行くバナナ農園はその男の実家だということで一応筋が通っていた。俺もイギリスで恋人ができたことは知っていたし、姉のSNSに載っていた写真を見たことがある。確かに、写っていた男の顔がアジア系で、その時俺は「せっかくだから白人と付き合えよ」と言ったのを覚えている。
闇金の連中は、姉の過去を調べ上げ、元彼に連絡をとって、金で姉がいるという情報を買ったらしい。
俺たちは通訳の男を雇って行動していた。通訳の男は日本人で、今はこっちで生活している。
「お前、この辺りのことはよく知ってるのか?」
俺が質問すると、通訳の男は
「私もこんな田舎まで来たのは初めてでわかりません」
と答えるだけだった。
明らかに俺より年上だったが、俺は構わず上から物を言った。俺は人によって態度を変える。こいつは気が弱そうだからタメ口でも大丈夫だ。
俺と闇金二人と通訳の男の四人で、現地のおっさんが運転するボロい船に乗って川を渡った。現地のおっさんは中々鋭い目つきで、頭は悪そうだが喧嘩は強そうだった。
低いエンジンの音と水しぶきの音だけが鳴っていた。
「ピラニアとかいんのかな」
闇金の手下が言った。どうやらテンションが上がっているらしい。
馬鹿丸出しの不細工な顔で川を覗いているこの男の名前は高橋という。上司である闇金の男からは「バカ橋」と呼ばれていた。バカ橋が何か馬鹿なことを言う度に、上司である闇金の男に頭を叩かれていた。初めて高橋に会った時は俺も少しビビったが、今ならタイマンでも勝てる気しかしなかった。
俺は川に目をやる。川は茶色に濁っており、飲んだらいろんな病気にかかるんじゃないかという思うほどだった。だだっ広い川は、右を見ても左を見ても草木だらけで、たまにぽつんと家が建っている。
気づけば徐々に川幅が細くなっていった。より奥地に来たということだろう。人のいる気配はまるでない。
人間の来るところではない場所に、不穏な空気感が辺りを包んだが、俺は何故かワクワクしていた。
「おい見ろよ!」
高橋が木の上の方を指差した。そこを見ると、木のてっぺんに異様な顔をした猿が何匹も座っていた。
「テングザルだ」
全身は薄いベージュで、まるで切りそろえたかのような綺麗な体毛に、髪型は角刈りのようになっている。さらに天狗のような長い鼻をもっていて、腹はぽっこりと出ていて可愛らしい体型だ。
奴らは珍しいものでも見るかのように、じっと俺たちを見つめていた。
そこで現地のおっさんが何か言ったのを聞いて、通訳の男が話した。
「もうすぐ着くみたいです」
他校の生徒と喧嘩をする前のような強烈な緊張感が押し寄せてきた。
*
俺たち四人は船を降りると、現地のおっさんを先頭にして歩いた。
船を降りる所は意外にもちゃんとした桟橋になっていた。周辺には俺たちが乗ってきたのと同じ船が何台も並んでいる。そして桟橋はそのままジャングルの奥までずっと続いていた。ということはこの先には人が住んでいるということか。
桟橋の周りは木の枝や葉っぱが密集しており、下にも草が沢山生えていて、板の間からちょこちょことはみ出していた。
桟橋の最後は、四段ほどの小さい階段になっていて、そこを降りると道が開けた場所に出て、下は乾いた土になった。その道は、京都嵐山の竹林のように、真っ直ぐ道が続いて、両サイドに木々が立ち並んでいる。ただ嵐山のような幻想的な感じはない。ばらばらの種類の木が無造作に並んでいるだけだったし、足元もそこまで綺麗に整備されているわけではない。幻想的と言うよりむしろ、禍々しささえ感じられた。例えると、ボス戦の前のような雰囲気だ。
「なんかここすげぇっすね……」
高橋が呟いたが、上司の男は無視してただ前を見て歩いていた。
五百メートルほど歩いていると、奥になにやら建物が見えてきた。木造で、屋根は藁でできている。正面の入り口は、上が三角で、それを両サイドの丸い木が支えていた。運動会の時にあるような、来賓用の白いテントを横から見た感じだ。その入り口の上部には板が掛けられ、そこにチョークで書いたような文字で「WELCOM」とあった。
俺は遊園地のアトラクションの入り口を思い出した。水に濡れるようなアトラクションの入り口は、大体こんな雰囲気の所が多いと思う。まさにジャングル的な建物だった。
その建物の周囲に木々はなく、空一面開けた場所になっている。
玄関を潜る前で俺たちを案内した現地の男は立ち止まって、通訳の男に何か言った。
「彼はここまでらしいです」
「おう」
闇金の男が返事をして、現地の男は来た道を戻った。
「じゃあ行くぞ」
そう言って闇金の男は中に入った。
ここは一体なんだ?
入り口を入ってすぐ左側には丸い机が並んでいるテラスのようで、右側にはカウンターがあり、カウンターの上には手書きのメニューがあった。観光客が来るためのカフェのようにも見える。
今は昼間なので中は電気がついていおらず、入り口やテラスから差し込む光だけで全体的に暗かった。
人はいない。
そのまま奥へ進むと、関係者入り口のような通路があり、その奥には驚くことに、映画館のような重そうな両開きの扉があった。その扉の上には、よく雑貨屋などに売っていそうな電飾の看板があり「Lucy's House」という文字がマゼンタに光っていた。
闇金の男が扉の横にあるカメラ付きのインターホンを押す。
しばらく待つと、インターホンから日本語で「少々お待ちください」と返事があった。
「いや、ちょっと待てよ!」
俺が言うと、三人全員がこっちを見た。
「ここはなんだよ。バナナ農園に行くんじゃねぇのかよ」
「ここはそのバナナ農園の園長が経営してるカフェ兼自宅だよ」
闇金の男が冷たい目で小さく言った。
俺の心臓がドクドクと鳴っている。何かがおかしい……。
目の前の扉が、この場所に似つかわしくない金属質な音を立ててゆっくりと開いた。
前に立っていたのは浅黒い肌をした屈強な男だった。身長は俺と変わらないが、漁師のような太い腕と指をしている。肌の色が黒いこと以外は日本人と変わらないが、なぜか一目見ただけでコミュニケーション不能で感情が伝わらない感じがした。それは彼が外国人だからなのか、それとも彼特有のものなのかわからない。
「ドウゾ」
ドアマンがそう言うと、闇金の男はためらいなく中へ入り、手下の高橋も能天気にニヤついて入っていった。
通訳の男と俺は顔を見合わせた。彼は明らかに不安そうな顔をしていたが、おそらく俺も同じ顔をしていただろう。
「早く来い!」
闇金の男が初めて見せる表情で怒鳴った。
俺は一瞬ビクっとしたが、その後すぐビックリさせられたことに腹が立った。
「クソが……」
俺は先生に注意されて逆ギレしたガキのように、デカイ態度で中に入った。
*
都会的な扉とは対照的に、目の前に広がるのは木でできた橋のような道だった。屋外のような感じがしたが、それは天井が四五メートルほどもあり広いことからそう感じた。そして二メートルほどの藁でできた屋根が、横幅一メートルくらいの道の上に、伏見稲荷大社の鳥居ように、奥まで真っ直ぐ続いている。歓迎されている感じはした。
橋の道は地面から高くなっていて、下は土が敷かれて大麻のような葉っぱが大量にあった。天井には暖色の電気がついていて、全体の雰囲気がまるで暖かい地域のホテルのようだ。旅行で来たとすれば、こんな綺麗な造りを見ると普通は安心するのだろうが、今はむしろ不安になった。想像と違いすぎて緊張しているのかもしれない。
俺たち四人はドアマンに案内されるままに着いて行く。
分かれ道になっていた。
真っ直ぐ行くと、ハワイ辺りにありそうなホテルのロビーみたいな空間がある。木を編んだ椅子がいくつか並べてあって、奥にカウンターもあることから、おそらくバーだろう。カウンターにはボーイもいるし、席には二人の白人男性がいた。
客だろうか。俺は観察するようにじっと見ていたが、ドアマンと闇金たちは立ち止まらずに左の道に進んだから、俺も諦めてそっちに進んだ。
左側は壁しかなく、右側はそのまま外につながっている。半分室内、半分屋外で、俺は小学校の一階の廊下を思い出した。学校にもこういう造りの廊下があったからだ。
外には大きいプールがあった。プールサイドには人がくつろげるように、ビーチチェアも置いてある。プールの周りはでっかい壁があって、外からは確実に入れないようになっていた。
ここまでくると、完全にリゾートホテルだ。
さらに前へ進むと、前はさっきと同じような重そうな扉があり、左はすぐに階段になっていて二階に上がれるようだった。
ドアマンは左の階段には上がらずに、前方の扉に進んだ。
「ココデス」
扉の前に立ったドアマンが、闇金の男に言った。それを聞いて闇金の男は手招きで俺を側に呼んだ。
俺は緊張した。姉がこの扉の向こうにいるのだろうか。いるとすれば、姉はここで一体何をしているんだろう。嫌いな相手でも一応ガキの頃から知っている存在だ。その姉が自分の知らない世界に行ってしまったようで、妙な気持ち悪さがある。
体から汗が出てきたが、これは暑さのせいではないらしい……。
「ドウゾ」
ドアマンがそう言ってノブを掴み、重心を後ろにするように体を引いて重いドアを開けた。
俺の目に映ったのは、さらに想像とはかけ離れたものだった。
部屋は暗くて広い。ドラマで見るような高級レストランみたいだ。内装はキャバクラのように低い椅子や机が間隔をあけて並んでいて、客と思しき男たちが沢山居て談笑していた。
さらに部屋中ナイトクラブのような音楽が鳴り響き、目に悪そうなカラフルなライトがチカチカと光っている。
俺が驚いて立ち止まっていると、闇金の男に背中を押されて、よろけながら中へ入った。その俺に続いてドアマンを含む四人が中に入り、扉を閉めた。外へ抜けていた音が扉を閉めたことで部屋の中へ篭り、重低音が内臓を振動させた。
少し冷静になって辺りを見回すと、驚いてまた体が固まってしまった。
壁は一面ガラス張りで、そのガラスの向こう側に、何人もの若い男達が裸でいた。男達はライトで照らされ、幻想的な雰囲気を纏っている。端で膝を抱えて座っている者や、ガラスにへばりついて客を覗く者など様々だ。
「なんだよあれ。まるでオランダの風俗じゃねぇか」
「ゲイ専門の風俗だよ」
「ゲイ専門って……あいつらは客かよ」
椅子に座っている男たちを指差して闇金の男に聞くと、彼は黙って頷いた。
客はどいつもこいつも金持ちそうな見た目だった。
俺は、昼間っからこんな所でなにしてんだよという感じで、緊張をかき消すようにわざと見下して鼻で笑った。
「いいから行くぞ」
そう言って闇金の男とドアマンは奥に進んでいった。俺と通訳の男と高橋の三人は、ガラスの向こうにいる男娼を気にしながら、小走りでついて行く。
関係者入り口の前へ行った時、うなじの部分に激痛が走った。うなじの皮膚の表面に鋭い痛みがあり、中から強い静電気のようなものが全身を駆け巡った。力が抜け、地面に四つん這いになった。その間おそらく三秒にも満たないだろうが、頭が真っ白になって地面を見つめていると、突然目の前が真っ暗になった。何か布を被せられたんだ。
糞ッ。何しやがる……!
俺は抵抗しようとしたが、複数の人間に抑えられて、もうどうしようもなかった。
*
どこかの地べたに座らされている。尻にコンクリートの冷たさを感じた。さらに腕がロープで縛られていて、繊維が手首にチクチクと痛い。
頭に被せられた布が取られた。光で目が痛くて細めながら前を見ると、目の前に見えたのは何本もの足だった。恐る恐る上を向くと、闇金の男がこっちを見下ろしていた。横や後ろにはここのスタッフであろう男たちが六七人いる。
俺は壁にもたれて座っていて、左側の壁には木材やスチール製の棚がある。棚には軍手や箱が無造作に置かれていた。自分から見て右の奥には錆びた扉がある。倉庫のような所だ。窓はどこにもない。ここに連れてこられる時に階段を降りたからおそらく地下だろう。
はめられた。と思うと同時に、俺は不思議に思って自分の横を見ると、通訳の男と高橋も、俺と同じように縛られていた。二人ともなにが起きたのかわからないといった表情をしている。
「どういうことだよ……」
俺は闇金の男にそう聞いたが、思っていたより声が小さく震えていた。
「どういうって……こういうことだよ」
闇金の男は面倒くさそうに言った。
俺は次の言葉が出てこなかった。完全にパニックになっているらしい。
「モリオカさん……勘弁してくださいよぉ……」
高橋が作り笑顔を浮かべて言った。
闇金の男の名はモリオカというらしい。今初めて知った。
「何がだよ」
「冗談きついっすよぉ!」
高橋の様子は、俺がヤキを入れた時の後輩に似ていた。言葉は弱いが声が大きい。相手が怖いから強い言葉は使えないが、自分の熱意を伝える為に声が大きくなるんだ。
「お前は必要ないからしょうがない」
「ちょっと待ってくださいよ! 売るのはこいつらだけって言ってたじゃないですか」
「お前もついでだ、馬鹿」
売る? 売るってどういうことだ。
俺はさっき見たガラス越しの男娼を思い出した。
人身売買か?
冷房の効いた部屋なのに汗が一気に吹き出す。
「おい、どういうことだよ! 売るってなんだよコラァ!」
俺は高橋に聞いた。
高橋はモリオカの方を一瞥してから口を開いた。
「……俺らは元々お前とこのおっさんをここに売るつもりだったんだよ」
「うぅぅ……」
通訳の男は震えて下を向いた。
高橋とバトンタッチしてモリオカが話し始める。
「お前の姉ちゃんはな、ヤク中なんだよ。それ知ってたか?」
俺は驚いて声を失った。姉とはしばらく会っていなかったからそれは初耳だった。
「まず一回借金を返済し終えたが、その後すぐ、奴は金を借りに来た。調べてみるとそれが薬のせいだとわかった。だが薬ってのは高いし体は悪くなるし中毒は酷くなるしで際限がねぇ。当然借金が膨らんで返せなくなった。だから俺の提案で、お前を売った。というわけだ。お前とバカ橋と通訳を合わせて五千万になったよ」
「で、俺をここにつれてきたのか……」
「そう。お前の姉ちゃんなぁ、ペットの犬にまで覚醒剤打ってたんだぜ」
モリオカは初めて歯を見せて笑った。
そうか、チワワが俺に寄ってきたのは薬を欲していたからなんだ。ということは、あの汚い字で何か書かれていた封筒は、覚醒剤を買うための金を入れていたものだろうか。ヤク中だから字もまともに書けなくなっていたのかもしれない。
何してんだあいつは。
俺は姉に対する怒りが爆発しそうで息が荒くなった。
「あいつ絶対殺してやる」
「お前が悪いんだよ。お前が無能で誰からも必要とされてないからこういう時に裏切られるんだ。もしお前が姉ちゃんにとって大事な弟なら、ヤク中でもさすがに売ろうとまではしないだろうに」
「関係ねぇだろ! あいつがクソだからだよ、ボケが!」
「私達、どうなるんでしょうか……」
通訳の男が子供のような弱々しい声で聞いた。
「あ? あぁ、ここで男娼として働かされるか、変態に殺されるかだな。俺は知らない。この後のことはルーシーに聞いてくれ」
確か入り口にあった看板に「Lucy's House」とあった。ということはこの風俗はルーシーという奴のものか。
手汗がぬるぬるとして気持ち悪い。恐怖と怒りでスポーツをしたみたいに呼吸が激しくなっていた。
「ルーシーというのは、どういう人ですか……?」
「質問ばっかするなよ。もうすぐ来るから」
そうやって話していると、右奥にあるスチール製の扉が開いた。
「来た。ルーシーだ」
縛られた俺達三人は食い入るように扉の方を見た。
入ってきたのはスーツを来た男二人と派手な服を着た六十代ほどのじじいだった。
「ハロー、皆さん。ご機嫌いかが?」
じじいはハイテンションで挨拶した。
彼がルーシーだった。俺はてっきり欧米人と思ったが、顔はどう見ても日本人だし、ゲイ丸出しの服装だ。ただの変態じじいにしか見えねぇが……。
「あら、この子達が?」
「はい」
モリオカはルーシーに丁寧に返事をした。
上司ではなくビジネスパートナーなのにこの態度。ルーシーの方が格上ということだ。
ルーシーは俺たちの前に立ち、その場にしゃがみ込む。まず一番左の高橋を見た。
「あなたは見た目が随分と厳ついわね。丁度いいわ」
何か鑑定をしているらしい。
次に通訳の男を見る。男は顔を見られたくないのか、下を向いた。ルーシーは彼の顎を優しく持って自分の方に向ける。
「気の弱そうな子ね。うふふ」
皺だらけの汚ない顔面にさらに皺を寄せて笑った。その時に見えた歯には金歯が付いていた。どうやら独特の美的センスを持ったリッチらしい。
次に俺の顔を見る。俺は一切目を逸らさずに睨みつけた。だがルーシーは特に何の反応も見せずにニコニコと微笑む。
何を思ったのか、少し近づいて俺の太ももに手を置いてきた。
「おい、気安く触ってんじゃねぇぞ……」
「あらぁ、良いわね! こういう好戦的な子を犯したいっていうお客さんもいるのよぉぉぉっほっほぉぉぉん」
何故かルーシーはテンションが上がり、語尾の伸ばし方がやたらと気色悪くなった。
それにしても「犯したい」とは……。俺は犯されるのか……。
早くここから逃げなければ、という焦燥感が出てきた。おそらく、今俺は顔が引きつっていることだろう。
ルーシーは立ち上がり、モリオカの方を向いた。
「じゃあ残りは振り込んでおくわ」
「了解しました。じゃあ俺はこれで失礼します」
そう言ってモリオカは扉から出ようとした。
「ちょっと待てやコラァァァ!」
「待ってくださいよ! モリオカさん、待って!」
俺や高橋の必死の叫びも、モリオカには通用しない。彼はガン無視を決め込んで扉から出て行った。
「ざけんなよ! ロープ解けコラ! お前ら全員ぶっ殺してやる!」
俺はとにかく暴れた。興奮して顔が熱い。足をジタバタさせて、縛られた腕も無理やり動かそうとした。プロが結んだのだろう。とにかく頑丈で殆ど腕が動かせなかった。だがそれでも俺は歯を食いしばってロープを外そうとした。ロープが手首に擦れて皮が剥けているがお構いなしだ。だがルーシーの手下であろう男達に腹を何発か蹴られて俺は唸った。
「じゃあとりあえずこのお店のシステムを説明するわね」
ルーシーが相変わらずニコニコしながら話し始める。
「ここは基本的にゲイ専門の風俗よ。あなた達もさっき見たでしょ、ガラスの向こうにいた子たちは男娼。彼らは普通の客を相手にする。だから彼らもゲイよ。普通の風俗嬢と同じでここで働いてるの」
「普通の客を相手にするって……普通じゃない客もいるってことかよ」
高橋が質問した。
「テメェ高橋、普通に質問してんじゃねぇぞ!」
ルーシーは俺を無視して話し続けた。
「そう。ゲイとやりたいゲイは普通の客だけど、ノンケを犯したいゲイもいる。ウチはそういう客にも楽しんでもらうために人身売買でノンケの子を集めてるの。あと他にも色々変態がいてね、男をいたぶりたい奴や、殺したい奴もいる」
俺は血の気が引いていくのを感じた。
「つまり、金持ちの快楽殺人者が客として来るってことよ。だから殺す用途としても男の子たちを集めなきゃいけない。因みに子供は扱ってないわ。私は子供が好きだし、子供は社会の財産だからね。うふふ」
ルーシーは醜い笑顔を浮かべた。
急に社会派なことを言うから、逆に気味の悪さを感じる。こいつはただの変態じじいじゃない。
「じゃあ早速だけど、あなた。仕事よ」
ルーシーは高橋を指名した。
高橋は泣きそうなマヌケ面になっている。
「ちょ、ちょっと待ってください 。まだ気持ちの整理が……」
「あなたさっきからちょっと待ってばっかりね。客が来てるの、待てないわ。ふふ」
ルーシーの部下の男達が高橋を立たせて連れて行った。
「いやぁぁぁぁ待って! 待って!」
「あなた達も来なさい。うふふ」
ルーシーは固まってる俺達二人に言った。
俺達は残りの男達に体を掴まれ扉の外へ出された。
*
連れてこられた所は警察の取調べ室の横の部屋のようだった。目の前には窓(多分マジックミラー)があり窓の向こうの部屋には高橋が椅子に裸で座らされていた。高橋は、足首、太もも、手首、二の腕、腹、首とベルトで椅子に固定されていて、全く身動きのとれない状態だ。
高橋のいる部屋を見回してみると、まず高橋の横に看護師が医療器具などを乗せて運んでくるような台車が置いてある。ここからはよく見えないが、上には色んなサイズの刃物や建築工具のようなものが置いてあるようだ。そして部屋の四方の隅にカメラが置いてある。
俺たちのいる部屋には、俺と通訳の男の隣にはルーシーがいて、ルーシーの後ろにはスーツの男二人が立っていた。
「何が行われるんだ?」
「殺人ショーよ。ふふ」
ルーシーは不気味に笑った。
「あのカメラは?」
「スナッフフィルム用よ」
なるほど。殺人の映像も販売して儲けているのか。
少しして男が一人、高橋のいる部屋へ入ってきた。
四十代くらいだろうか。上は白のTシャツで、下は薄いスウェット。あれは多分私服じゃない。ルーシーは今から殺人ショーが行われると言った。だからあの服は作業服だ。借りたのか自分で持ってきたのかわからないけど、とにかく汚れることを前提にした服装だった。
男は高橋を見るなり、猿のような奇声をあげた。
「発情期かよ……」
「彼は強そうな男を殺したい変態。あれでも彼は優秀な投資家なのよ」
早速台車の前へ行き工具を漁りだした。
何個か手に取り確認しては台車に戻し、確認しては台車に戻しを繰り返す。そして男は化粧道具のビューラーのような物を手に取り、高橋の方を見て笑った。高橋は恐怖に震えている。まだ何も始まっていないというのに明らかに顔色もおかしかった。
男はそのビューラーのような工具を高橋の目に入れた。俺はそれを見たとき、大体どうなるか想像できた。眼球を取ろうとしてるんだ。
高橋は首を左右に振って抵抗するが、男に顎を捕まれ固定される。
横にいる通訳の男を見ると、見ないように下を向いて目を瞑っていた。だが高橋の叫び声はこっちまで十分すぎるほど聞こえていた。
眼球が少し飛び出しそうになって、頬に血の涙が滴っていた。高橋は歯を食いしばり苦痛に顔を歪め「うぅぅぅぅ」という力を入れたような声を捻り出していた。男が肘を立てて、ビューラーのような工具を一度押し込むようにして握り直し、一気に引き出した。それと同時に高橋の悲痛な叫び声が鳴った。目の前の窓が揺れるようなでかい声だった。そして完全に眼球が飛び出して、神経などでぶら下がっている。高橋はガタガタと震えて口から黄色い吐瀉物をぶち撒けた。
俺は人間の眼球が飛び出したのを初めて見た。異様な光景がにわかに信じられず、夢を見ているような感覚に陥る。貧血のように視界が違って見える錯覚だ。目が飛び出しただけで、人間の外見がそこまで変わったわけではないから大してグロテスクではないのかもしれないけど、人間の眼球を生きたまま抜き取るという行動そのものが恐ろしい。
男は高橋の目からぶら下がった眼球を引きちぎると、物凄いスピードでズボンとパンツを脱ぐ。するとギンギンに勃起した物が露わになった。
「気持ち悪りぃな……」
俺は思わず声に出した。ルーシーはそれを聞いて「うふふ」と小さく笑う。
何をするのかと顔をしかめて見ていると、驚くことに、男は高橋の膝の上に乗り、空洞になった奴の目に性器を差し込もうとした。
高橋は元気なく小さい呻き声を上げながら動くが、抵抗も虚しく目に性器を擦り付けられていた。だがなかなか上手く入らないようで、男は一旦諦め、台車に戻った。そしてハンマーを取り出し、高橋の眼窩底に叩きつけた。要は差し込み口を広くしようという考えだ。
何発か殴られ高橋は首をガクッと下げた。どうやら失神したようだ。
男は懲りずにまた膝の上に乗り、目に性器を挿入した。そして興奮した犬のように息を荒くして腰を振る。だがサイズ的にどうもフィットしないようで、自分でしごきながら亀頭を差し込んだり抜いたりして、すぐに射精した。
その様子を見てしまった通訳の男はその場に吐いた。
ルーシーの指示により、後ろにいた男の一人が外にスタッフを呼びに行き、スタッフがモップで掃除をする。
変態男は地べたに座ってタバコをくゆらせていた。一回射精をして休憩というわけだ。
それから十分くらいした後、男はナイフで高橋の腹を掻っ捌いて内臓を取り出し、自分の頭からかけた。するとまた見る見るうちに男の性器は勃起していき、今度は立ったまま変わり果てた高橋の姿を見てもう一度射精した。
一息ついた男はにこやかな顔で部屋を後にした。
「大満足だったようね。ふふ。あなた達も大丈夫かしら?」
なぜかルーシーが満足そうな笑みを浮かべている。
大丈夫じゃねぇよ……。
*
俺と通訳の男はさっき捕まっていた倉庫に入れられていた。体はむき出しの配管に立ったまま縛られ、持ち物もタバコや家の鍵のような使い物にならないもの以外全て没収された。
「おい……おい」
囁き声で、うなだれている通訳の男を呼びかける。
「おい、起きろ」
「なんですか……?」
こちらを見た男の顔には生気がなかった。無理もない。あんなものを見せられては誰でもこうなる。だが俺はまだ諦めていなかった。今までだって何度もピンチを経験したことがある。敵対している相手に拉致されて拷問されたり、信頼していた友達に裏切られて膝を叩き割られたりした。その都度俺は自分でなんとかしてきた。中でも一番の武勇伝は、橋の真ん中で二十人にボコられて殺されそうになった時、リーダー格の奴を掴んでそいつごと川に飛び込んだ。何十メートルもあるような高い橋だったから打ち所の悪かった相手は失神して溺れ死んだが、俺はそのまま泳いで逃げれたんだ。つまり、人間本気でやろうと思えば何だってできるということ。
「ここから逃げるぞ」
「何を言ってるんですか……無理ですよ。体は縛られてるし、外には見張りもいる。もし万が一脱出できたとしてもここはジャングルの奥地。もう私達は死ぬんだ」
「だから何だよ。考えても見ろ、このまま黙ってると変態に拷問されて高橋みたいになるのがオチだ。だったらここで暴れて奴らの何匹かぶっ殺してよ、逆上させて俺らを襲わせるんだ。もしかしたら撃たれたり刺されて死ぬかもしれねぇ、でも拷問されたり犯されたりして死ぬより数百倍マシだろうが。で、もし脱出できたらラッキーって感じだ」
俺の話を聞いて通訳の男は少し希望が湧いたようだった。ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
「俺のポケットにな、家の鍵が入ってんだよ。キーホルダーがついたやつ」
「それが何か?」
「実は仕込みナイフになっていて、それでこのロープを切ろう」
「でも、どうやってポケットから取るんですか?」
俺と通訳の男で案を出し合った。手は後ろの配管に縛られていて絶対に取れないから、結局一番単純な、ズボンを脱いで裸足になり、足でズボンを逆さまにして鍵を落とすという方法に決まった。
俺は自分の足の指でズボンの裾を引っ張り、なんとか脱ごうとしたが、ベルトできっちり締めてあってなかなか上手くいかない。もし中学生の時なら、ズボンをずらして履いていたから簡単にできただろう。幸い、そこまでタイトなジーンズではなかったからベルトさえクリアできれば簡単に脱げるはずだった。
できるだけお腹をへこまし、右足左足と交互に少しづつ引っ張ると、徐々にずれていき、ついに太ももの辺りまでズボンがずり落ちた。後は上に跳ねてその反動で完全に脱いだ。
「やった」
通訳の男は小さく言った。
面倒くさいので俺はズボンを逆さまにせずに、足の指を右のポケットに突っ込んで鍵を取り出した。後はこれを手まで運ぶだけだ。
足の指に挟んだCaliforniaを、しゃちほこのように体を反らし、なんとか縛られている手の方に持って行って掴んだ。よし、完璧だ。
俺は腕のロープを苦労しながらもなんとか切り、通訳の男のロープも切ってやった。そしてズボンを履いてから二人でその場にしゃがみ込む。
「これからどうするんですか」
「そうだな……。ドアの前には何人見張りがいると思う?」
「二人、くらいですかね……」
「じゃあ一人を俺がやるから、もう一人をお前がやれ」
「えっ! 無理ですよそんなの。できるわけない」
俺は彼にロープを手渡した。
「これを後ろから相手の首にかけて、背負うようにして絞め殺すんだ。よし、行くぞ」
こういうのは迷っているといつまでたっても行動できない。どっちみち何もしなけりゃ死ぬんだ。勢い任せで行くのが一番良い。
困惑する通訳を他所に、俺は扉の前まで近づきゆっくりと開けた。今はもう深夜だ。多分見張りの奴も気を抜いてるはず。
隙間から顔を出し、右、左と横断歩道を渡る小学生みたいに確認した。見張りは右に一人だった。パイプ椅子に座って雑誌を読んでいる。今ならいける。
俺はナイフを構えて見張りに突進した。
本当に気を抜いていたんだろう。相手は特に焦る様子もなく、友達に名前を呼ばれかのようにゆっくり顔を上げて、俺が目の前にいることを認識してから、目を見開いて椅子を立った。
だがもう遅い。
俺は真っ直ぐ奴の喉にナイスを刺し、男はその勢いで仰向けに倒れた。俺はその上に跨る。
まるで溺れているかのようにゴボゴボと血を吹き出す男の動脈を素早く切ると、真っ赤な鮮血が辺りに飛び散って血溜りを作った。
「見たかオラァ」
振り返ると興奮しながらも喜びの笑顔を浮かべている通訳の男がいた。
*
ストローから入ってくる少ない酸素で命を繋いでいた。
俺達は誰にも見つかることなく地上まで出て、一旦バーに行ったところで見回りの男が現れたのでストローを奪ってプールに入った。忍者のようにストローを外に出し、それを水中で咥えて息をしている状態だ。たまたま手に取ったストローが、シェイクやナタデココを吸うためのストローみたいに太かったから助かった。
夜のプールは真っ暗で、廊下の電気が水面で反射し、外からは潜っていても殆ど見えないはずだ。
少し水面から顔を出し、辺りに誰もいないことを確認しようとすると、目の前に足が見えた。顔を上げると、腰に刃渡三十センチ以上もある鉈をぶら下げたアロハシャツを着た男がいた。見回りの男だ。
俺は心臓が止まりそうになったが、相手も驚いて動きが止まっていた。その隙を見逃さず、反射的に彼の襟を掴みプールの中に引きずり込んだ。通訳の男と二人で完全に押さえつけて、窒息死させる。
俺は鉈を奪い、それを持ってプールを出た。
俺の背中に引っ付くようにして通訳の男がついて来る。
ふと上を見た。二階にはホテルみたいに窓が並んでいて、その内の一つから人がこっちを覗いていた。多分、現地の人間ではない。客か男娼のどちらかだ。よく見ると手には携帯電を持っている。
まずい……。
「走るぞ!」
俺は出口に向かって走った。
行きしなに通った橋のような道を真っ直ぐ進む。だが扉の目の前にはドアマンが立っていた。俺は立ち止まらず直進する。
そのままぶっ殺す!
鉈を取り出し、構えた。
扉の前の空間で対面し、俺がドアマンの頭に向かって鉈を振り下ろすと、彼は左にステップしながら右手で鉈を持った俺の手を払った。俺は体勢を崩して前のめりになる。ヤバイ、と思うと同時に右の脇腹に衝撃が走る。前蹴りだ。
俺は倒れて鉈を取りこぼす。
すぐに上に乗ろうとするドアマンを俺は足でバタバタして牽制するが、彼はその間を上手くすり抜け俺の顔面に拳を叩き込んだ。パンチは鼻っ面にまともに入り血が吹き出す。ツーンと内側から響くような痛みが顔面の中心を刺激し、涙が出た。
こいつはおそらく格闘技経験者だ。
俺は仰向けの状態。両足で相手の胴体を挟む形になった。所謂ガードポジションだ。相手は何度もパウンドを放り込もうとするが、俺は相手の首を抱えて自分の体に密着させ動きを封じた。
血が口に入り、鉄の味がした。昔を思い出す。格闘技経験者との喧嘩は骨が折れる。比喩じゃなく、実際に骨を折られたこともある。だが奴らは格闘技をやっているからこそ、ルールに縛られる。喧嘩とは格闘技ではなく殺し合いなんだ。
俺は相手の耳を噛みちぎった。
ドアマンは軽く叫び、耳を押さえて体を起こした。
「やれ!」
俺は通訳の男に言った。
彼はロープを持ってドアマンの首にかけ、必死の形相で締め上げた。ドアマンの体は持ち上がり、通訳の男に背負われる形になる。
俺はすぐに立ち上がり鉈を拾ってドアマンの腹に刺した。
真っ赤にした顔が苦痛に歪み、両手で刺さった鉈を握った。だが俺は後ろに引きながら左に鉈をスライドさせた。切れ味は鋭く、真横に腹が開いた。ピンクの腸が飛び出したのをドアマンは両手で抑えようとする。まるで戦争映画の一コマだ。
そこで通訳の男が締めるのを止めると、ドアマンは地面に膝をついた。
俺は目の前にあるドアマンの顔面に目掛けて膝をぶっ込んだ。血を吹き出しながら後ろに倒れる。
「よっしゃぁぁ!」
俺と通訳の男で喜んでいると、向こうから鉈を持った男たちが何人も走ってきた。
「逃げるぞ!」
俺達は扉を開けて外に出た。
*
やっと日本に帰ってきた。大変な旅だった。まだ節々が痛むが少し休めばすぐ回復するだろう。
日本に帰ると真っ先にやりたいことがあった。それは焼肉を食うことだ。
十七の頃、初給料で食いに来た焼肉屋。
俺は早速席に着いた。
水気が蒸発するような音が鳴っている。白い煙が立ち込め、香ばしい香りが鼻腔を刺激した。その匂いを嗅いで、腹がグーっと鳴って活動を始める。
目の前の網には赤い牛肉が並んでいる。俺はじっくり目を凝らす。肉汁が滴り落ちると墨の上で一瞬で蒸発し、また白い煙を上げた。
肉を箸で裏返す。片面は茶色くなり、程よい焦げ目がついていた。
あとちょっと。あとちょっとで肉が食える。口一杯に広がる肉汁と、甘辛いタレの味。想像するだけで涎が止まらない。
焼けているかどうか確認してみた。綺麗な焦げ目だ。完璧だ!
俺は箸で掴んだ茶色い肉を、小皿に入ったタレに漬けた。それを、湯気を上げている炊きたての白飯の上に二三回バウンドさせ、口の中に放り込むーー
*
チクッ、チクッと尻に鋭い痛みが走って目が覚めた。
まだ完全に覚醒していない俺は半目で地面を見る。大量の蟻がうじゃうじゃと蠢いていた。どうやら尻を蟻に噛まれたらしい。
「うわっ……!」
俺は声を上げて立ち上がった。ズボンを確認するとそこにも大量の蟻が引っ付いていた。
慌ただしく手で払う。
情けねぇ……。
「おい、起きろおっさん! 起きろ!」
隣で木にもたれかかって寝ていた通訳の男を起こした。男は目を覚まし、俺と同じように声を上げて立ち上がる。
俺達二人は結局逃げ切れたものの、ジャングルで何も食べずに彷徨っていた。もう空腹も限界にきていた。視界もチカチカする。
俺たちはまた歩き出した。
最初の何日かは腹がずっと鳴っていて痛かったが、それをも無視し続けると腹は鳴らなくなり、普通の空腹感すらなくなった。代わりにお互いイライラしだして、口論ばかりが続いた。そして今は体が震え、冷や汗が出てきている。暑いけど寒いような不思議な感覚だ。高熱のときに似ている。
もしかして本当に死ぬんじゃないか。人間、餓死するときはこうやって体の機能がおかしくなり、ついには動けなくなって死んでいくのか……。
何か食わないと……。焼肉が食いてぇ。肉が食いてぇ……。
俺の口はさっき見た夢のせいで肉を欲していた。
肉を食いてぇ……。どうする……? その辺に動物はいないのか……。
「足が痛い……足が……痛いよぉ」
また後ろから泣き言が聞こえてきた。
通訳の男か……。彼の顔は青白い。足もフラフラで、声だってしゃがれている。素人の俺ですら正常とは思えないほどだ。もう限界か? もう限界だろう。
「おい、大丈夫か」
「大丈夫じゃないです……見ればわかるでしょぉ」
「うるせぇな、ぶっ殺すぞ」
「どうせこのまま死にますよ……」
だろうな。お前はもう限界だ……。もういいんじゃないか? そうだろ?
「このままだと二人とも死ぬ。少し休憩しよう」
男は返事もせずにその場に座り込んだ。
俺はその辺からよく燃えそうな木を集めてきて男の前に置いた。俺の足もおぼつかなくなっていた。少ししか動いていないのに疲労感が凄い。
「これなんですか? 火を起こすんですか?」
「虫よけにな……」
「ああ」
火を起こしたからといって虫よけになるかどうかは知らないが、適当に言ってみた。通訳の男も半分話を聞いていない。
通訳の男は木にライターで火をつけようとしている。
「おっさん。お前はなんで売られそうになったんだ」
男はこっちも見ずに苦笑いを浮かべた。
「……実は、私も日本で借金をしてたんです。そして妻と娘を残してこっちまで逃げてきた……まさかこんなことになるなんて」
男は自嘲気味に笑う。
「借金をしたってことは、モリオカからか?」
「いえ違います。別の会社からですけど……」
多分、モリオカがその闇金から男の債権を買ったんだ。普通なら海外に逃げた者から借金を回収するのは難しいが、ルーシーにコネのあるモリオカなら簡単に、しかも大量に儲けられる。そしてそうすることで闇金やルーシーからの信頼も獲得でき、横の繋がりが強くなるから好都合なんだ。奴はそれほどビジネス上手ということだった。
絶対に復讐しなけりゃいけない。その為に絶対に生きてここから出てやる。
「ちょっと小便」
俺は男の後ろに回りこんだ。
「あぁ、そう言えば、おっさんの名前なんていうんだ」
男は不思議そうにこっちを見てからまた前に向き直り「藤井」と言った。
じゃあな。藤井。お前のおかげで助かったぜ。
俺は鉈を手に握った。
*
雨が止んだことで俺は活動を始めた。小さい洞窟のような所に身を潜めていた。
藤井のおかげであれからまた二三日生きながらえることができた。でも大した栄養を補給できていないし、また腹が減ってきている。そろそろ動物か何かを見つけないと……。
俺は藤井の骨をそこに放置したまま歩き出した。
ただひたすら直進していると、高い木がなくなり、空が開けた場所に出た。周りの木は自分より少し高いくらいで、多分二メートルほどしかない。ここ二日くらいはずっと雨だったから、久々に晴れて雰囲気が変わったように感じた。それもあってか、もしかすると街に繋がっているのかもしれないという期待感が出てきた。
俺は期待に胸を膨らませ、少し早歩きになる。その時、俺の目の端に緑色の何かが映る。
立ち止まり、もう一度そちらを見ると緑色のバナナがあった。
俺は歓喜して木になっているバナナを毟って食べた。まだ青く、サイズ感も形も人間の指みたいだ。味は苦いが十分うまかった。
俺は何本も何本も意地汚く食べた。
その時、近くでヘリコプターの羽音ようなものが聞こえた。
食べる手を止め、キョロキョロと辺りを見回す。どうやら奥から聞こえてるみたいだ。
俺はさらに何本かバナナを毟り取って、音のする方へ走った。
木と木の間から見えたものは野球のグラウンドのようなスペースで、セスナような比較的小さな飛行機が並んであり、周りに小屋もある。滑走路を備えた村かもしれない。
俺は息が荒くなり、思わず笑みがこぼれていた。
ルーシーは大したことねぇ。『Lucy's House』の見張りもしょぼいし、簡単に脱出できた。
見たかこの野郎。俺は絶対に最後まで生き残るんだよ。
突然横から衝撃が走る。俺は地面に思いっきり叩きつけられた。
何事かと思い、体を起こそうとするが、びくともしない。何かに上に乗られてるようだった。
ツンとした独特な臭気が鼻を突き刺し、首元に生暖かい空気が当たる。
俺の背筋は凍りついた。
上に乗っていたのは、馬鹿でかい虎だった。
虎はピンクの首輪をしており、そこには『Lucy』と書いてあった。
END
憩いのジャングル たかひろ @takahirottt
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