一章

『これは、世界がまだ黄昏に入る前のお話。


 昔むかし、正義の味方がいました。

 正義の味方って何って?

 正義の味方と言うのは、誰かの涙が光った時、そっと拭いて立ち去る人の事です。


 ある所に貧しくてご飯が食べられない女の子がいたら、持っているお弁当をあげ、ある所に荷物が重くて運べない老人がいたら、そっと手を差し伸べるのです。』


****


 俺は、大きくあくびをした。


「うーん……よく寝たぁ……」


 4時を告げる時計塔の鐘の音と共に、俺は両手を広げて伸びをした。

 ちょうど今、うちのクラスもホームルームが終わった所だった。

 机に顔を引っ付けて眠っていたせいで、身体中がかちこちに凝り固まって痛い。俺は首をくるくる、肩をコキコキと鳴らしながらも腕と首を回して、凝り固まった筋肉をほぐしていった。

 窓から掛け声が聴こえてくる。既にホームルームの終了した運動部の生徒達が練習を開始しているらしい。クラスの連中も、部活に行く奴らは部活へ、委員活動に行く奴らはそれぞれの持ち場へ、帰る奴らは校門へと、銘々の場所へと散っていく。

 さあて、俺も帰るか。

 最後にウーンと大きく伸びをした後、椅子から立ち上がり、机に掛けていた鞄に手を伸ばそうとして……その手を冷たい手に掴まれた。


「ひ」


 幽霊ではない。それよりもっと怖いものだ。


「マサ君。どこに行くの?」


 手を掴んでいたのは、肩までのボブカットの女子だった。その声色は控え目で尚且つ優しげであり、傍から聴くと十中八九「あっ、可愛い」と言い、さらにその半分位は「俺の嫁」とのたまうかもしれない。

 しかし、付き合いの長い腐れ縁の俺には分かっている。

 この声、怒ってる。すっげえ、怒ってる。


「ひっ、浩美……さん?」

「今日は、委員の当番の日だよね?」


 浩美はにっこりと首を傾げて笑った。笑っているのに、口元は若干引きつっているし、血管が微妙に浮き上がっている。わっ、怒ってる怒ってる。


「もう何度目なの? いくら九鬼先生が優しいからって、何度も何度も当番さぼってちゃ駄目でしょ?」

「何だよ……第一保健委員なんて、委員1人が行けば別に怒らないだろ……」

「怪我している人達がいたらどうするの!」

「そもそも本当に怪我人が出たら、先生以外見れる人いないだろ!」

「あー、はいはい、ご両人。そこまでーそこまでー」


 俺と浩美が言い合っている間に、園田が割って入ってきた。


「まあ、旦那さんがだらしないからって、全部に目くじら立ててたら、旦那さんが立つ瀬なくなってしまいますぜ、浩美ちゃん」

「わっ、私は……別にそんなつもりじゃ……」


 園田の言葉に、浩美は顔を赤くして両手で抑えてしまった。掴まれていた手が鞄から外れる。もしかして俺はラッキーか?

俺は鞄を提げてそのまま後ずさりをしようとしたが、回り込まれる方が早かった。


「ちょっと、小野。どこ行くのよ?」

「げっ、大瀬」

「陽菜ちゃん」


 回り込んできたのは、浩美の保護者の大瀬だ。俺のげっと言う顔を見て、大瀬はむっとした顔で腰に手を当て仁王立ちする。


「浩美泣かせたら殺すからね」

「いや、陽菜ちゃん、別にマサ君はそんなつもりはなくってね……」

「でもまた浩美に委員を押し付けて逃げようとしたんでしょ? 小野、アンタね、一応は委員なんだから、形だけでも真面目にやったらどうなの?」

「……じゃんけんと言う名の民主主義で選ばれた委員だけどな」

「何か言った?」

「いや、別に」


 大瀬にジロリと睨まれて、俺は肩をすくめる。

 やりにくいよなあ、女同士のねちねちした友情って奴は。おまけにこいつは、口より先に手が出るからな。今時流行らねえんだよなあ、肉体言語至上主義は。

 俺の心境を知ってか知らずか、園田はパンパンと手を叩く。

 そして大瀬の肩を抱いて引き寄せた。セクハラだろ、それは。


「まあまあ、陽菜ちゃんもあんまり正義君をいじめたりしない。男っつうのはな、尻叩いてくれる女がいて、初めて力が発揮できるものなの。

 正義君は浩美ちゃんと言う立派な嫁がいるんだから、大器晩成型で大きく成長する事でしょう。まあ俺らはそれを微笑ましく見守って……」

「な・ん・で、アンタと見守らなきゃなんないのよ!!」


 大瀬の肘鉄が、園田の鳩尾に見事クリティカルヒットした。

 園田は大げさに「グッハー……陽菜ちゃん、ナイスファイティングスタイル……ついでにスタイルもグーッド……」とか言って崩れ落ち、大瀬は「まだ言うか!!」と園田を蹴り始めた。

 こいつらも本当に懲りないよなあ。毎度毎度同じようなどつき漫才をして。

 俺が素直に感心している中、グイッと襟首を掴まれた。

 浩美だ。


「もう、園田君の尊い犠牲を無駄にする気?」

「えー、単に園田が大瀬にセクハラ発言してボコられているだけだろ……本当にセクハラもしていたし」

「もうっ、周り見てみなよ! さっきから嫁嫁よめよめ園田君が連呼するから……」


 ぱっと我に返って辺りを見回すと、掃除当番の連中がモップで床を拭きつつも、くすくす笑いながらこちらに注目していた事にようやく気が付いた。

 浩美は顔を真っ赤にして、いたたまれなさそうに肩をすくませている。

 あー、厄介だ。浩美がこうなったら拗ね出すか泣き出すかのどっちかだな。

 俺は仕方なく、大げさに肩をすくめて見せた。


「あー、もう降参。分かったよ。行きゃいいんだろ。行きゃ」

「もう、最初っからそう言ってくれたら恥ずかしくなくて済んだのに……」

「行かなくていいなら行きたくねえよ」

「もーう」


 俺は仕方なく鞄を提げたまま、浩美についていった。


「ご両人―、グッドラーック」

「うっせー」


 園田が大瀬に頭を拳でぐりぐり撫でくり回されつつも、ぐっと親指を上げるのに、俺はぷいっとそっぽを向いて、教室を出た。

 既に、廊下は夕焼けで、ほんのりと赤みが差しているような気がした。


****


「失礼しまーす」


 浩美が戸を引くと、アルコールと薬品の匂いが鼻を刺し、思わず顔をしかめた。やっぱこの匂い苦手なんだよなあ。

 俺が少し唸ると、浩美は察したかのように肘で軽く小突いてきた。


「先生に失礼でしょう?」

「いや、でも俺、病院とか保健室とかの匂い苦手だし」


 俺と浩美がそう言い合っていると、パタパタとスリッパの音が響いてきた。

 保健室の九鬼先生だ。


「あらぁ、いらっしゃい。あら? 小野君久しぶりねえ。前に当番に来たのいつだったかしら?」


 先生はくすくす口元に手を当てて笑う。

 俺は先生が笑う顔を見て、思わず惚けた後、思わずそっぽを向いた。目を細めて笑う様は、たとえメガネ越しとは言えど、美人なんだよなあ……。

 と、いきなり背中が痛くなった。俺が顔をしかめて振り返ると、浩美が俺の背中を思いっきりつねっていた。


「何すんだよ?」

「駄目だよ、マサ君。先生、婚約してるんだから」

「えー、あれって園田が勝手に言ってるだけじゃねえのか?」


 浩美は俺をつねったまま、九鬼先生がにこにこ笑いながら俺達当番の分のお茶を電気ポットのお湯で作っているのを見やる。

 先生が2つカップを持って、カップをそれぞれお湯で温めている。カップを持つ左手の薬指には確かに指輪が光っていた。

 女に目ざとい園田は、「九鬼先生目当てで俺達生徒どころか、独身教師陣まで何かにかこつけて保健室に行っては言い寄っているけど、指輪見せて引かせてるんだよなあ。でも先生が式挙げるとか婚約するとか言う話は一向に出ない。ありゃきっとお相手が傭兵とか自衛隊員で、あちこち戦場を飛び回って帰って来れないから挙式できないんだろうなあ」と、嘘だかどうだかわからない話をあちこちに触れ回っていたな、確か。


「園田君みたいに大げさな話には思わないけど」


 浩美は「先生―、今日は何をすればいいですかー?」と大声で声をかけた後、ぽつりとだけ言った。


「女の人が指輪を捨てないのは、くれた人が本当に大事な人だからだよ」


 ……女ってそこまで考えてるもんなのか。理解できねえ。

 俺はそう口の中で反芻しながらぐりぐりと首を傾げていると、先生が本を数冊持ってきた。


「えっとね、音無さんと小野君。どっちか図書館に行って本を返してきてくれる? 保健室名義で借りてきた本があるんだけど」

「あっ、じゃあ私が……」

「いや、俺が行くわ。先生、俺行きます」


 俺は浩美より先に、本を受け取る。

 九鬼先生はにこにこと笑顔で言う。


「ありがとう、小野君。保健室名義の本返しに来ましたって言ってくれれば、後は図書委員の子がやってくれるから。あっ、お茶だけ飲んで行って。冷めちゃうともったいないから」

「はい、分かりました。じゃ、行ってくるわ」


 俺は先生が机の上に置いてくれたお茶をぐっと飲んで、保健室を後にしようとしたら、先に浩美の下駄俺の提げたまんまの鞄に伸びた。


「本返しに行くだけなら、鞄いらないよね? ちゃんと置いていきなさい」

「……」

「まさか本を返した後そのまま逃げようなんて、思ってないよね?」

「……」


 うわ、ばれてら。浩美はにこにこと笑ったまま、鞄の柄を離そうとはしなかった。

 俺は仕方なく鞄をそのまま浩美に渡した。それを見ていた九鬼先生は、口元に手を当ててクスクスクスと背中を丸めて笑っていた……。


****


 渡り廊下を渡り歩いて、図書館へと辿り着く。

 うちの学校は1学科につき1棟であり、保健室は学校の敷地の1番端の体育館の中に存在している。そして、図書館はちょうど反対。校門の近くに建っている建物が、図書館だ。

 だから当然渡り廊下を渡り歩かなければ、図書館には辿り着かないのだ。


「やあっと着いた……」


 図書館のガラス扉に手をかけた時、ようやくパステルピンクの夕日が落ちている事に気が付いた

 俺は「もうこんな時間かよ……」と口の中でボソリと呟きつつ、渡り廊下側の図書館のガラス扉を開いた。

 扉を開けた途端、むわりとインクと埃の匂いがした。保健室の匂いも苦手だが、図書館の匂いも苦手だ。

 放課後のせいか、はたまた下校時刻のピークのせいか、人の気配はあんまりない。せいぜい閲覧席で自主勉強らしいカリカリとペンを走らせる音が響く位だ。

 俺は先生から渡された本を携えたまま、カウンターに回った。

 図書館の入り口のすぐそこにあるカウンターには、女子生徒が本を読みながら座っていた。今日の当番の図書委員か。


「すみません、保健委員ですけど、保健室名義で借りていた本の返却に来ました」

「……」


 返事がない。

 女子生徒が、パラリパラリと本のページをめくる音だけが響く。

 おい。無視かよ。

 俺は少しだけイラリとしながらも、ゴホンと咳払いした後、声音を強めた。


「すみませんっ、保健委員ですけどっ、保健室名義で借りていた本の返却にきましたっっ」

「……」


 ようやく女子生徒は気付いたらしい。こちらの方に顔を上げると、本をパタンと閉じた。

 あ……。

 俺はその女子生徒を呆然と見た。

 女子生徒の顔は、一言で言うならマンガみたいな顔をしていた。

 大きくはっきりとした二重まぶたの端は吊り上がり、まつ毛は書かれたかのように長い。真っ直ぐで真っ黒な髪は背中を覆っていた。

 演劇科の生徒か? そう思う位、存在感のある生徒だった。


「本……」

「えっ?」

「本、保健室から?」

「あっ……ああ。そう」


 しゃべる声色はやけにはっきりとしていて、透き通って聞こえた。


「貸しなさい」

「はっ、はい」


 俺は女子生徒に言われるがまま、カウンターにそっと本を乗せた。女子生徒は本を確認すると、がさがさと棚を漁り始めた。


「ええっと、手続きとかは?」

「生徒の分なら必要だけど、これは保健室の分だから別。必要ないわ」

「そう……」


 随分と、こう。

 高圧的な物言いだな……。

 女子生徒は俺の方を無視して、漁った棚から紙(察するに返却票か?)に判をポンポンと押していた。やたら高圧的な態度に閉口しつつ、とりあえずもう帰っていいのかなと踵を返そうとした、その時だった。


「あなた」

「はい?」

「正義の味方の定義って何だと思う?」


 ……。

 はあ……?

 俺はその言葉を聞いた瞬間、女子生徒を思わず凝視した。

 からかわれたのか? 最初はそう思った。その女子生徒は涼しげな顔で、こちらをじっと見ているだけだった。その表情にはからかいの感もなければ、冗談と言う感も読み取れない。既に手元にあったはずの返却票は棚に片付けてしまっている。

 ただ、マンガのようにやけに整った顔で、じっとこちらを見ているだけなのだ。


「……ええっと、あんたはどう思うんですか?」


 俺はじっと俺を見る目から逃れたくて、ぷいっと窓を見た。

 窓から見下ろせる中庭では、放課後らしく解放された感のある女の子たちが芝生でたむろっている姿が見受けられ、聖歌隊の発声練習らしい歌声も溢れ返るように流れていた。


「私はそこに自分の感情は入れない。ただ、疑問に思っただけ。もしかすると、私の考える正義の味方の定義と、人が考える正義の味方の定義が違うのかもしれないと。

分からないから、書いているものを読んでみたけど駄目ね。全然、私には理解ができない」

「はあ……」


 俺はちらり、と女子生徒の方へ目線を戻す。

 女子生徒は、さっきまで読んでいた本の表紙を撫でていた。

 やや分厚くて表紙の角が丸まっているそれは、童話のようだった。


『黄昏の正義の味方』


 やけに表紙の絵がきれいな本を、ずっと読んでいたらしい。


「何でそんな事考える訳?」

「世界に正義の味方は必要だから」

「はあ……」


 この女子、もしかしなくとも、美人な外面に反して頭の中身が残念なんだろうか。

俺は彼女が真顔でそう言うのに、首を捻る以外にできる反応がなかった。俺は軽く溜息をついた後、思わず漏らす。


「何で正義の味方が必要だと思ったんだ? わざわざ考える事でもないと思ったけど」

「あなた……」


 途端、女子生徒の目尻が、きゅっと吊り上がった。あっ、あれっ? 俺、何か気に障る事でも言ったか……?


「今、あなたが謳歌している普通が、まさか自分に普通に与えられているとでも。本気でそう考えている訳?」

「はっ、はあ?」


 さっきまでの同い年位とは思えない位に理知的だったしゃべり方は、高圧的な物言いに変わっていた。いや、さっきも高圧的と言えば高圧的だったが、ここまで抑えつけてくるようなしゃべり方ではなかったはずだ。


「いや、正義の味方って言うのは、フィクションだとばかり……」

「あなた馬鹿じゃないの? フィクションにしか正義の味方がいない訳がないじゃない。そもそもフィクションは現実を元に描いた物語でしょうが」

「はあ……??」


 さっきから同じ事ばかり言っているような気がするが、「はあ」以外に、女子生徒の言葉に打てる相槌が存在しなかった。

 この女……。

 相当頭がいかれてる……。

 俺は頭痛がするのを感じていた。

 俺はきょろきょろと図書館を見回した。よかった、知り合いがいなくって。知り合いが聞いたら、今の会話は電波以外の何者でもないだろと、少しだけほっとする。


「まあ、いいわ」


 何がいいんだ。

 女子生徒は勝手に1人で納得していた。


「許すわ、許します。で、あなたは正義の味方についてどう思う?」

「……」


 この頭のいかれている女は、当たり障りのない事言えば解放してくれるんだろうか。つうか、もう委員活動あるからと言えば解放してくれるんだろうか。

 でもなあ……。

 俺は女の顔を見た。

 相変わらず口調は高圧的で、表情はさっき吊り上げた目は既に元に戻って、しゃべりさえしなければずっと見てられるような美人顔に戻っていた。しゃべったら残念な事しか言わないが。

 俺は仕方なく、再び小さく溜息をつくと、口を開いた。


「面倒くさいって思うよ」

「面倒くさい?」

「ああ、そうだよ。わざわざ世のため人のために、己を捨てて行動するのが信じられないって思う。俺は、ああはなりたくないよ」

「……そう」


 女は一瞬だけ、すっと目を細めたが、すぐに元に戻した。

 いったい何なんだ。本当にさっきから。

 まあいっか。答えたし、もう帰っていいだろ。

 俺は踵を返して図書館を後にしようとしたが、そうは問屋が卸さなかった。


「あなた、名前は?」

「はあ? ……人に名乗る時は、まず自分からだろうが」


 俺は思わず立ち止まって、振り返ってしまった。

 女は涼しげな顔で、滑らかに口を滑らせる。

「姫川広、高等部1年普通科Bクラス。これで満足?」

「な……」


 姫川と名乗るこの女は、また俺をじっと観察するような目で見てきた。

これは……答えないと、また変な事言って絡まれるか? でもなあ……。さっきからの問答(と言ってもいいのかも分からねえ会話だったけど)を思い出すと、名前を教えたら校内放送で呼び出しを食らいかねない、と考えると躊躇する。

 と、姫川の手がいきなり俺の胸までカウンター越しに伸びた。


「ちょっ……!」


 ジャケットの胸ポケットに突っ込んでいた生徒手帳を、止める間もなく抜き取られたのだ。


「返せよ」

「……小野正義。「正義の味方」のマサヨシなのね」


 姫川は淡々と、生徒手帳をめくって名前欄を読み上げた。


「おい、だから返せって」

「小野正義」


 いきなり名前を呼ばれて、俺はビクリと背中を震わせた。

 さっきからの上から見下ろすような高圧的だった口調が、さらに強くなる。その声音は、有無を言わせない強さがある。まるで……放課後のリラックスした空気が、一気に試験前のピリピリした空気に変わったような、そんな気がした。

 気のせいか、俺の心臓がバクバクと高鳴っている。


「……んだよ」

「あなた」


 空気が、ピリピリと肌を刺すように痛い。


「正義の味方になりなさい」

「……は?」


 試験前のような空気が、一気にしらけたような気がした。


「聞こえなかった? 正義の味方になりなさい」

「お前、さっきから何言ってんだよ……。第一、正義の味方って何だよ」

「正義の味方は正義の味方よ。他の言い方を知らないから、1番分かりやすい言葉で言っているだけで。他の言い方を考えてもいいけど、私は残念ながらあなたの語彙がどこまでかは知らないわ」

「だから……」


 あー、もう。本当にこの電波女は何なんだよ、全く!

 俺はもう、この女を無視して帰ろうと、踵を返し直した瞬間だった。

 試験前のような空気が、急に試験中の張り詰めた空気に引き締まったような気がした。

 放課後にしては、辺りがやけに静かな事に気が付いたのだ。


「な……何だ?」

「まずいわね。思っていたより早かったわ」


 姫川は冷静に呟く。まるでこうなる事を分かっていたような素振りだ。


「見なさい、小野正義」

「はあ?」


 姫川はカウンターから出ると、そのまま図書館の大きな窓から、中庭を指差した。俺は仕方なく、姫川の指差す方向を見て――絶句した。


 影、影、かげカゲ。

 影影影影影影影影。

 影影影影影影影影影影影影影影影影影。


 指差した方向が、真っ黒に染まっていたのだ。


「いやぁぁぁ、何コレー!?」


 その黒く染まった場所で、走っている女子生徒がいる。

 やがてその黒く染まった場所から、何かが出てきた。その出てきた何かは、まるで蛇やミミズのように、シュルシュルと細くなり、地面を這いずり回り、女子の足元まで這って来た。


「ヒィ……!」


 女子は叫ぶ。


「やだ! 何コレ何コレ何コレ! 誰か! 誰か助けて!」


 女子の声は、明らかに脅えて震えている。走っていたが、足がもつれたのだろう、とうとうこけて芝生に沈んだ。何とか立ち上がって逃げようとしているが、腰が完全に抜けてしまい、立ち上がりたくても震えて立てないようだ。

 が。


「明日の朝練、何時からだっけ?」

「明日は早いよ、6時から。だから5時起き?」

「何それ、ありえない」


 まるで、その女子はいないように、中庭にいる誰1人として、黒いものに襲われる女子を助けようとする奴らはいない。

 何でだよ、あんなに泣き叫んでいるのに。彼女の泣き叫ぶ声は、誰にも届いていないようなのだ。それどころか。

 あんなに真っ黒な場所に見向きもしない。まるで……全く見えていないみたいなのだ。


「何だよ、これは……」

「影よ」

「影って……あの子を襲っている黒いのの事か?」

「正確な名前はあるけど、あなたには発音しにくいと思うから、1番分かりやすい言葉を当てはめているのよ」

「…………」


 俺達がしゃべっている間も、女子は「影」って呼ばれているものに徐々に取り囲まれていった。


「ヤダァァァァァァ、何コレェェェェェ! 助けて! 助けてぇぇぇぇ!!」


 黒いものは徐々に、女子に絡みつき、縛り始めていった……。女子の泣き叫ぶ声は、枯れ始めていた……。

 やばいだろ、これは。

 俺がギリリ、と歯を噛んだ瞬間、姫川はぽつり、と呟いた。


「私が力をあなたに与えれば、彼女は助かる。

 見殺しにする? 助ける? 好きな方を選びなさい」


 ……。

 俺は、髪をガシガシと掻き毟った。

 放課後ののんきな空気を周りはエンジョイしているのに、あの子は泣きながら助けを求めている。で、何故かあの子が襲われているのに、俺達しか気付いていない。

 選択肢なんて、あってないようなもんじゃねえか。

 俺は、髪を掻き毟った手をジャケットでゴシゴシと擦ってから、姫川の面に向かった。


「……分かったよ。それが、正義の味方になるって事なんだろ?」

「そうよ」

「……力、出せよ」

「……手」

「手?」

「手、出しなさい」

「えっ? こうか?」

「手、広げて」

「?」


 俺は言われるがままに、右手を広げて姫川の前に恐る恐ると差し出した。

 姫川は、俺の差し出した手に、自分の手を重ねた。

 途端、姫川の髪が、風もないのにぶわりと広がる。

 途端に、姫川の手と重ねた俺の手が、急に白く見えた。いや、白く見えたんじゃない。光が溢れてきて、それが手を白く見せたのだ。


 コウ……。

 光光光光光。

 光光光光光光光光光光。


 何かが、手の平から身体に入っていくのが分かる。熱? いや、熱くはない。

 血が沸き上がる、と言うイメージが入ってきた。手の平から入ってきた何かが、身体全体を血に乗って巡っていくような気がしたのだ。身体中が、熱をもらった訳でもないのに、温かくなるのが分かる。

 これが、姫川の言っていた力、なのか……?

 やがて、光は消え、姫川も手を下ろした。さっきまで身体中を巡っていた熱のイメージも、気付けば薄れていた。


「あなたを正義の味方と認めます」

「ああ、そりゃどうも」


 姫川の広がった髪は、気付けば元通り背中を覆っていた。

 俺は自由になった手をグーチョキパーと広げたり握ったりした。

 別に何も変わっていないようには見えるけど……。


「今から救出に向かうわ。行きましょう」


 姫川は、そのまま窓を開けて、窓縁に手を掛けた。


「って、ここからか!?」

「時間がないわ。ここから降りた方が早い」

「早いって、確かに早いけど……」

「行くわよ」


 そのまま姫川は、スカートがまくり上がるのも気にせずに飛び降りた。

 芝生に降り立った彼女の事を、誰1人として気付く者はいなく、驚くのは、影に縛られている女子生徒だけだ。

 ……畜生、やるしかねえのかよ。

 俺は、ぐっと窓縁を掴むと、そのまま窓縁に体重をかけて飛び降りた。

 身体が、何故か軽い。大の男の体重そのまま窓縁にかけているのに、窓縁はギシリとも音を放たなかった。まるで俺自身が空気みたいに軽くふわふわと浮いているみたいだ。

 そのまま、真っ黒のど真ん中目掛けて着地した。

 姫川は俺を一瞥すると、そのまま影の方に向き直す。


「で、これ、どうやって倒せばいいんだよ?」

「殴ればいいわ、あなたが」

「……お前はしないのかよ」

「私にそんな力はない。私は力を与える事はできても、私自身は戦えない」

「何じゃそりゃ」


 まあ、女に戦わせるって言うのも変な話か。

 そうこうしている内に、女子生徒を縛っていた影が、こちらに気が付いた。

 目が付いている訳でもない、耳が付いている訳でもないのに、こちらを睨んでいるような気がした。まるで、蛇と対峙しているような、肌が粟立つような感覚が襲う。

 俺は、握り拳を作った。


「信じていいのか?」

「信じるか信じないかはあなたが決めたら」

「……へいへい」


 そのまま、力をぐっと込める。

 気のせいか、さっき姫川に流し込まれた光が、手の中に溢れたような気がした。

 影は、しゅるしゅると地面を這い、やがて、蜘蛛が脚を拡げて獲物を捕食するように、襲い掛かってきた。

 俺はそのまま肩に力を入れ、拳を振り上げた。

 振り上げた瞬間、俺の拳が光の粒子を撒き散らし、それが影に当たる。

 触れた影は、ぶにょり、とした気味の悪い感触だったが、すぐにそれは消えた。

 影は、パーンッッと、膨らんだ風船が破裂したように拡散して消えたのだ。


「な……」


 俺は拳を見ながら呆然とする。


「次、来るわ」


 姫川は俺の気持ちを知ってか知らずか、淡々とした様子で告げる。

 まだ来るのかよ。まあいい。

 蛇のように、しゅるしゅる。しゅるしゅる。

 それは牙を剥くように俺達に襲い掛かってきた。

 それを、拳で思いっきり殴りつけた。

 身体に弾みを利かせて、拳をぶつける。

 影はパンッパンッパンッとリズミカルに音を立てながら、次々と消えていく。

 パンッッ。

 最後の影を消した瞬間、辺りがピンク色なのに気が付いた。俺は思わず辺りを見回した。

 何て事はない。空は夕焼け。淡いパステルピンクの空が、影が姿を消した事で現れただけだった。


「な……何だったの、今の……」


 振り返ると、さっきまで腰を抜かしていた女子生徒が、ようやく起き上がる所だった。顔は青ざめていて、目線を彷徨わせて、辺りにもう影がないかと探しているようだった。


「おい、あんた。大丈夫だった……」


 か。

 言い終える前に、女子生徒は俺の横をすり抜ける。

 女子生徒はスカートについた芝をパンパンと叩いて掃うと、そのまま怪訝な顔をしたまま立ち去ってしまった。

 何だ、これは。

 まるでさっきの子は、俺に全く気付いていないようだった。


「何だよ、礼の1つもなしかよ」


 俺は聞こえないような声でボソリと呟く。


「正義の味方はそういうものよ。誰からも感謝されない。でも危機とは戦えるし、失敗したら後がない。そういうものよ」

「……随分、損な生き物だな、そりゃ」

「あなた、委員会の仕事はまだ?」

「あっ」


 俺はその一言で携帯を確認しようとしたが、携帯は浩美に取り上げられた鞄の中だと思い出す。

 仕方なく、中庭からでも見られる時計塔に目をやった。うちの学校は、基本的に教室に時計は存在しないので、自分で腕時計を持つか、時計塔を見るかしか、時間を知る術はないのだ。

 時計版は、もうそろそろ委員活動終了時刻を指そうとしていた。

 やばい。絶対浩美が「どこでさぼってた」と怒り出す。あいつ、1度怒ったらしつこいんだよな……。


「悪い、そろそろ行かないと。あ、生徒手帳返せ」

「……」


 姫川が黙って差し出した生徒手帳を胸ポケットに仕舞おうとしたが、ズボンのポケットに突っ込む事にした。帰ったら鞄にでも入れよう。もう姫川みたいな変な奴に勝手に引き抜かれるのも嫌だし。


「じゃ、俺行くわ」

「そう。じゃあ後で」


 一瞬、嫌な言葉を聞いたような気がしたが、それは無視する事にした。

 そのまま俺は、全速力で保健室へと駆け出していた。


****


 ゼエゼエ。

 体力テスト以来の全力疾走は、疲れて仕方がねえ。

 保健室の前に辿り着いた俺は、肩で息をしていた。

 さっきまでは、やけに身体が軽かったような気もしたけど、やっぱ気のせいだったのか?

 まあ、さっきのありえないようなマンガ顔の女も、影も、白昼夢みたいにありえない奴だったけどさ。

 俺はどうにか呼吸を整えると、音を立てないように、そろー……と保健室の戸を引こうとしたが、それより早く戸が開いた。

 浩美だ。ものすごくいい笑顔で、俺をみつめる。


「随分遅かったね。もう委員活動終了時刻だよ?」

「あっ、ははははは……その、人助けしてて、遅れて……」

「また適当な事ばっかり言って! またどっかでさぼってたんでしょ!?」

「悪かったってば!」

「もう!」


 俺は仕方なく浩美にペコペコと謝った。

 ……何で俺は悪くもないのに謝ってるんだ? いや、いつも謝るだけの事はやっているとは思う。多分。

 浩美がひとしきりまくし立てていると、クスクスと言う笑い声と共に、九鬼先生が浩美の後ろから出てきた。


「まあ、こんな廊下で喧嘩はやめなさいな」

「喧嘩じゃありません、先生。お説教です」

「似たようなものよ? まあ、今日はもう部活時間も終わるから、これ以上怪我する子もいないと思うし、ちょっとだけ早いけど終わりましょうか。お茶でも飲んでから帰りなさいな」

「はーい」

「はい」


 俺と浩美はほぼ同時に返事をした。

 浩美はむっとした顔で俺を見やる。俺はえーっと言う顔で浩美を見返した。

 それを見て、九鬼先生はやっぱり口元に手を当てて笑っていた。

 何だかなあ……。


****


 時計塔の鐘が、最終下校時刻を告げる。

 その音が遠くに聴こえる中、俺と浩美は帰路を歩いていた。

 うっすらと暗くなり始めた道に、ランタンの形をした外灯がぽつりぽつりと点り始めている。

 この街辺り一帯は、フランスだかイタリアだかの建築デザイナーが設計したとかで、やたらと日本離れしたような石畳やら建物やらが続く。この辺りは市の制定した外観保護区になっているから、辺り一帯がそう言う外観で統一されていた。

 元々はうちの学校がその建築デザイナーにデザインを頼んだのがきっかけで、そう言う外観の街になったらしい。そのせいか辺りはうちの学校の生徒狙いのちょっと洒落たカフェテリアやら、雑貨屋と判別できない本屋やらが並んで建っていた。まあ今は下校ピークをとっくに過ぎているから人はまばらだし、今ここを歩いているのは委員活動していたり、部活で遅くまで練習していたような連中だけど。

 まあ、洒落た店の並びのせいで、男だけで歩くのがかなり気まずい場所だ。ふつうに考えて、ドラマやCM撮影に使われるような場所を男子高校生が歩いていたら「何恰好つけてるんだ」と言う気恥ずかしさがある。例えるなら、坊主頭の野球部員が男物のファッション誌を買うような気恥ずかしさだ。

 こういう時だけは浩美の存在に感謝したりもする。……別に付き合っている訳でもないけど、女趣味の場所を1人で歩く勇気は、流石にない。


「もう、マサ君がいない間、本当に大変だったんだから」

「だから、悪かったって、本当」

「反省してない」


 浩美は頬を膨らませてそう言う。

 浩美曰く、今日はバスケ部の交流試合があって、それで怪我人がバンバン出たらしい。まあ、珍しいっちゃ珍しいか。そんなにバンバン怪我人出るような試合なんて。

 おれはそうと。説教モードに入った浩美の機嫌の悪さは半端ない。石畳をガッツンガッツン音を鳴らして歩くときは、大抵機嫌が悪いんだ。

 俺は少しげんなりしながら、鞄を提げていない方の手で髪を掻き毟る。


「ああ、もう。分かったよ。分かった。1週間は真面目に委員活動するから」

「……いつも当番こなすのが普通だと思うけど?」

「うー、なら。1週間真面目にしなかったら、浩美の弁当を食わない。これでどうだ!?」

「……お弁当、食べないの?」


 浩美は、唇をポンポン触りながら考え込み始めた。

 分からん。さぼらないのは当然なのに、浩美に手間のかかる弁当を2つ作る方がいいなんて。

 俺は内心そうぼやきつつも、ぐるぐると考え込む浩美の横顔を眺めていたら、やがて浩美は顔を上げて頷いた。


「分かった。なら1週間ちゃんと真面目にしたら、マサ君の好物の唐揚げ、1週間お弁当に入れてあげる」

「ワーイ、嬉シイナア」

「もうちょっと嬉しそうにしてよ」

「いや、俺はお前が少し心配になっただけだよ。こんなやっすい報酬で俺が逃げないと思っているのに」

「失礼ねえ。私、他に払える報酬ないよ?」

「いやいやいやいや」


 浩美はすぐ怒る割には、落ち込むポイントが人とずれているのが、腐れ縁ながら時々心配になるんだよなあ……。

 そうこうしている間に、気付けば石畳が途切れ、替わりにアスファルトの道が始まった。外観保護区を抜け出し、一般的な日本の街並みに出たのだ。

 外観保護区を抜け出した区画が、ちょうど俺や浩美が住んでいる町内だ。

 そろそろ俺の家も見えるはず……。

 が。


「遅かったわね。待ちくたびれたわ」


 ……俺の家の前を、非日常が皮を被って立っていた。

 俺は思わず「ゲッ」と言う声を上げる。

 浩美は訳が分からないと言う顔で、俺と姫川を見比べた。


「えっと、うちの学校の人……ですよね? どちら様でしょうか?」

「姫川広。高等部1年普通科Bクラス」

「あっ、お隣のクラスの。Aクラスの音無浩美です」

「音無さん?」

「はい」

「って、何でうちの前で井戸端会議やってるんだよ! ちょっとお前、来い!」

「私?」


 俺は普通に姫川に挨拶していた浩美に向かって「ちょっと借りる」と姫川の襟首を引っ掴んで、少し歩いた先のどん詰まりまで連れて行った。

 姫川は相変わらずの涼しげな、と言うよりもふてぶてしい顔で、首を傾げて俺を見ていた。

 俺はきょろきょろとご近所さんがいない事を確認してから、ようやく姫川を離した。

 よくも悪くも近所付き合いは厄介だ。そこから浩美や母さん達の耳に入るとも限らないし。何よりも、姫川は、今日、それも数時間前にしゃべっただけ、変なものと戦っただけなのに、変な誤解をされたら叶わない。

 いや、誤解されるような事なんて何1つしちゃいないけど、女はフィルター通してしか物事を見ないから厄介なんだよ。

 俺はすうっと息を吸うと、一気にまくし立てた。


「何で、うちの前に立ってるんだよ! そもそも何でうちの家知ってるんだ、さっき会ったばっかりだろうがよ、お前ストーカーか何かか!?」

「……ああ、そんな事」


 俺が息を荒げているのを理解してかしないでか、姫川は目を細めて俺を見た。その涼しげな態度が、ひどく神経を逆撫でしてきて不愉快だ。これが女じゃなかったら一発殴っている所だ。


「ああって、お前なあ。それが肝心なんだろうが」

「小野正義。あなたは正義の味方よ? 私はあなたに力を与えた以上、あなたを監視する義務がある。権利を主張するなら義務を果たしてからにしなさい。

 それに建前としてはあなたが図書館に返していない本の返却請求に来たのだから、何の問題もないでしょう?」

「はあ? 俺は自慢じゃないが、本は全く読まないね!」

「本当に自慢になってはいないわね、小野正義。……まあいいわ。あなたの鞄の中を見なさい?」

「はあ? ……あ?」


 言われるがままに鞄の中を漁ると、見覚えのない文庫本が出てきた。

 その本に貼ってある背表紙のテープや、内表紙の印鑑は、確かにうちの学校の名前が入っていた。


「ちょっと待て。俺は図書館には鞄を持っていってないはずだけど……?」

「建前があればそれでいいのでしょう? 人は厄介な生き物ね」

「お前が言うのかよ」


 まるで自分が人じゃないみたいな言い方するな、この女。

 言っている間にも、姫川は勝手に歩き出す。

 ……何故かうちの家の方向に。


「って、どこ行く気だよ!?」


 思わず俺は姫川の肩を掴むが、姫川はパンッと俺の手をはらいのけた。


「今日からあなたの家に住むからに決まっているでしょう?」

「なっ……!」


 横暴以前の問題だ。


「何でだよ!?」

「さっき言った事聞いていなかったの? 私はあなたを監視する義務があるのよ?」

「訳分かんねえよ!!」

「あなたに訳が分からなくても関係ないわ」

「関係ない訳ないだろ!!」


 俺の言葉など、姫川は全く聞いていないかのようにして歩いて行った。

 俺は髪をガシガシと掻き毟りながら、仕方なく姫川に続く。

 どん詰まりから出た先には、浩美が途方に暮れた顔で立っていた。……まさか、さっきの話、聞いてなかったよな? 俺は思わずタラリと汗を掻く。

 姫川は浩美の事を無視して通り過ぎ、浩美は困った顔で通り過ぎる姫川の背中を見ていた。姫川の背中を見ながら、浩美は俺に声をかけてくる。


「えっと、マサ君……姫川さん……だっけ? あの人と、何かあったの?」

「ああ? あー……」


 まさか放課後、うっかり正義の味方にされましたなんて言っても、信じてもらえないだろうし(俺だったら真っ先に「病院に行け」と言うしな)。


「図書館の本返せって追ってきただけだよ。あいつ、図書委員なんだよ」

「そうなんだ……」


 嘘は言っていない。それでも、浩美は釈然としないような顔をしていたが。

 姫川は我関せずと言った調子で、うちの家の門を開けて敷地に踏み込んでいった。

 って、何勝手にうちに入ろうとしているんだよ!? 親に何て言えばいいんだよ!!


「わりぃ、そろそろ帰るわっ!」

「えっ? うん……また明日」

「じゃあな!」

「……」


 俺は慌てて姫川を追って走っていった。

 浩美の怪訝な顔と視線が、背中に刺さって痛かった。


****


 姫川は、まるで勝手知ったる我が家と言った調子で、簡単に家のドアを開ける。待てよおい。鍵閉まってるはずなのにどうやって開けたよ!?


「おい、お前何してるんだよ!?」

「何って……家に帰っているんだけど?」

「はあ!? ここは俺ん家だし。お前ん家じゃねえし」


 姫川は俺の言葉などスルーして、玄関に入ってしまった。

 玄関に入ると、廊下から台所からのいい匂いが流れてくるのが分かる。

 味噌汁の匂いと、パチパチと油の爆ぜる音がする。そう言えば、今日の晩ご飯はから揚げだって言ってたっけ。

 って、俺が匂い嗅いで晩ご飯予想している間にも、姫川は普通に靴を脱いで揃えて、そのまま台所に入ろうとするし。

 俺は慌てて姫川の肩を掴んだ。姫川は目を細めて振り返った。


「何するの?」

「逆に言うけどな、何でお前は人ん家に勝手に入った挙句、勝手に台所に入ろうとしてるんだ!?」

「決まっているじゃない。栄養を定期的に摂らないと人は生きられないのでしょう? なら私もそうなんじゃないかしら」

「要は「腹減った、飯よこせ」ってか!? いきなり赤の他人が台所に入ってきて飯をたかったら、普通は警察に通報する所だろうが!!」

「あら、そんな事ないわ。おばさん、食事下さい」

「だから、お前は何言って――……」

「あら、マサ?」


 俺達がギャンギャン廊下でしゃべっているのを見て、母さんが台所から顔を出した。

 やばいっ。俺は思わず姫川の襟首をつかんで玄関へ押し戻そうとするが、母さんと姫川の目が合う方が早かった。


「あら……」

「あー、母さん違うんだ。こいつは別に俺の彼女ではないただの不法侵入者だから、俺はこいつをすぐ警察にしょっ引いてくから安心して……」

「マサ、何馬鹿な事言ってるの。広ちゃんでしょう? 従妹の」

「はあ……?」


 何言ってんだ。

 そもそも母さんも父さんも一人っ子だから、従妹なんている訳ねえだろうが。母さんまさかその年でボケたのか? いや……。

 俺は我関せずと言う顔で、俺の後ろからペコリと母さんに頭を下げる姫川を見た。

 さっき借りてもいない本が俺の鞄の中に入っていたのと言い、母さんがおかしい事言っているのと言い、そもそも放課後に俺に変な力を入れたのと言い……。

 こいつ、本当に何者なんだ?

 今まで1番当たり前に思わないといけない疑問がようやく出てきた事に、俺はまだ知り合って半日も立っていないこいつに相当毒されていると、笑う事しかできなかった。


****


 電気を消した部屋は、自分の心臓の音と息遣いしか耳に入ってこない。

 俺は、床に紙布団を敷いて、何も見ないよう布団を被って寝転がっていた。

 ベッドからは、軋む音が聴こえる。

 ああ、何で自分の部屋なのに、俺はこんなに肩身が狭い思いをしないといけないんだ? 俺は自分のベッドに思いを馳せて、音もなく溜息をついた。

 俺のベッドは、姫川に取られてしまった。


「従妹の広ちゃんの部屋、まだ用意してないんだから、あんたちょっとベッド貸してあげなさい。やましい事したら承知しないからね!?」


 母さんの横暴な意見によるものだ。

 いやいやいや、おかしいだろ。

 何で物理的にいるはずもない従妹が何の説明もなしにうちに住む事になって、普通にうちの家でくつろぐだけくつろいだ挙句、「正義と一緒じゃないと寝ない」とか訳の分からない事言って、大の男の部屋に勝手に押しかけて寝てるんだよ。しかも全く宿題もしてないのに「明日の朝は早いから、早く寝なさい」って言って勝手に電気消して眠りこけてるんだよ。訳が分かんねえにも程があるだろ!?

 普段だったら宿題したり携帯をいじったりしている時間だから(もっとも、普段から宿題は家で滅多にせず、浩美の分を写させてもらっているけど)、寝よう寝ようと無理やり目を瞑ろうとすればするほどに、余計に目が冴えてきた。

 俺は布団からすこーしだけ顔を出してみる。

 出した途端、カーテン越しの外灯でもくっきりと浮かび上がる、白い脚が見えて、思わずまた布団を被った。

 母さんが姫川に出したパジャマ替わりは、母さんが庭仕事用に使っているハーフパンツと着崩れて薄くなったTシャツだった。姫川の身体は棒っきれのように細っこくて、そんなよれよれのハーフパンツとTシャツ以外に何とか身につけていられるものがなかったのだ。それ以外はずれ落ちてしまうから。そのハーフパンツさえも寝転がって、太ももが見えるまでまくり上がっていだのだ。

 おまけに姫川は布団を被らず、抱き枕のように抱き締めて眠っていたのだ。

 抱き締める布団から覗いている姫川の体は、驚くほど凹凸がない。脚なんかは棒か何かじゃないかと思う位に細い。こいつ、本当に生きてるのか? とさえ思ってしまう。


「おい」

「……」


 ベッドが軋む音がする。姫川が寝返りを打って、こっちに振り返ったのだ。


「……何? まだ眠れないの?」

「いや、おかしいだろ。まだ健全な高校生は起きている時間だし」

「明日も影と戦うのに……夜更かしは禁物よ?」


 姫川の物言いは相変わらず高圧的だったが、今は本当に眠いらしく、紡ぐ言葉はあくび混じりで力がない。夕方のしゃべり方を知っている人間にしてみれば驚くほどに。


「いや、俺はまだ全然、お前から何の説明も受けてないからな?」

「何?」

「……そもそも。お前誰だよ」

「姫川広、高等部1年普通科……」

「あー、それは夕方聞いた。でもおかしいだろ。何で従妹でも何でもないお前が、普通に母さんや父さんを騙くらかしてるんだよ」

「……ああ」


 姫川はようやく納得いったような声を上げた。

 ……まさか、今まで何の疑問も持ってなかったんじゃねえよな?

 姫川は一際大きなあくびをした後、目を擦りながら話し始めた。


「世界の強制力よ」

「はあ? 強制力?」

「世界を守るために必要だと判断した事には、強制力が働くの。あなたを監視しないといけないと私が判断したから、世界がそれに答えて強制力を行使した。それだけよ」

「……ちょっと待て。何だよそれ。俺の家の住所が分かったのも、俺の鞄に図書館の本が勝手に入っていたのも、母さんや父さんがおかしい事に全く疑問を持っていないのも……」

「世界の強制力よ」

「…………。あのな。何でお前が、そんな権限持ってるんだよ。普通おかしいだろ。人に何でも言う事聞かせられるなんて……」

「あなたの言う普通って言うのが何なのか分からないけど、おかしくはないわ。それに、何でもじゃない。世界を守るための事にしか、強制力は働かないもの。私は世界の管理者だから」

「はあ……?」


 正義の味方よりもなお、突飛な言葉が出てきたな。

 俺は半眼で姫川を見上げた。ちょうどカーテンを背中にしているせいか、影が落ちて姫川の表情までは読み取れなかったが、少なくとも俺をからかっている様相はないように思えた。


「……その、世界の管理者って何だよ」

「あなた訊いてばっかりね……」

「うっせえ。人に変な力渡しておいて何言ってるんだ」

「望んだのはあなただと思っていたけど」

「他に選択肢なんてなかったじゃねえか」

「見捨てるって選択肢もあったんじゃないかしら」

「…………」


 口調が全くもって上からの口調で(実際ベッドの上から見下ろされている訳だけどさ)、やっぱりからかわれてるんじゃあ、と言う気がしてきたが、姫川にいちいち突っ込みを入れていたら、こっちの身が持たないと思ったので、突っ込みは後から入れる事にした。


「で、話を逸らすな。世界の管理者って何だよ」

「世界の管理者は世界の管理者よ。言葉通り、世界を管理している」

「世界の管理……?」

「まあ、世界が世界を守るための防衛本能ね。必要な時に生まれて、世界を管理するだけの能力を与えられる」

「何だそりゃ……」


 まるで自分を道具か物のように言う姫川に、俺は少し絶句した。

 でも、それと同時に姫川の意味の分からない言動にも筋が通っているようにも聞こえる。……いかんなあ、俺、完全に姫川に毒されてる……。

 俺は頭痛がするのを感じながら、考えながら口に出す。


「……じゃあ、正義の味方って何だよ? 世界の管理者ではないのか?」

「違うわ」


 姫川は眠たそうだが、きっぱりとした口調で否定した。


「世界の管理者には、世界を管理する力は与えられても、世界の秩序を乱すものと戦う能力は与えられないもの。

 だって、世界の管理者は、常に世界の生命に対して平等ではないといけないのに、世界が生んだ生命と戦える訳ないでしょう?」


 俺は放課後に殴った影を思い浮かべた。

 確かに、あの時も「私自身は戦えない」とか言ってたなあ……。


「じゃあ、正義の味方って何だよ?」

「放課後、あなたも見たでしょう? 影」

「見たけど……」


 蛇みたいにうとうと蠢く黒いのを思い出して、俺は思わずげんなりとした顔になる。


「世界にたまに増殖する事があるのね。影は異空間を作って、そこに人を引きずり込む事がある。元々は世界が生命が増え過ぎないようにするための防衛本能なんだけど、エラーで必要以上に発生する事があるのよ」

「防衛本能って……あの子を縛りつけてたのが?」

「人の話だとそうね……。神隠しって聞いた事がない? あれは、ただの人には異空間に干渉する事ができないから、人が影に異空間に引きずり込まれても誰も気付かない。気付かないから、人が突然消えたように見える。また、そこから無事に脱出できたとしても、異空間での出来事は、ただの人には認識ができない。認識できないから覚えられずに、すぐに忘れてしまう」


 姫川の淡々とした(眠たそうな)説明を聞きながら、女子生徒が泣き叫んでいる光景を瞼の裏に思い描いた。

 あれが防衛本能って言われてもな……。それって、完全に間引きじゃねえか。

 でも、理解はできた。何であの子が泣き叫んでいるのに誰も気付いていなかったのかは。

 俺が助けたのも、認識できないから覚えていないって事で、いいんだよな。神隠しの原理で。


「だから、正義の味方は影と戦わないといけない。影が増え過ぎないように。世界の秩序を守るためには、必要な存在なのよ」

「はあ……」

「分かった? だから明日も朝から影の掃除をしないといけないの」

「納得はしてねえよ。まあ、理解はできたけど」


 泣き叫んでいる子の声をずっと聞くのは、やっぱり聞いてて気持ちのいいものじゃねえし。恰好つけている訳でもねえけど。


「あらそう。なら。明日も早いわ、おやすみなさい……」

「あっ、あと1つだけ」

「……何?」


 姫川の口調に、明らかに不機嫌さが混じる。

 いったいどれだけ早く寝たいんだ。

 でも、1番肝心な質問だから、寝られたら困る。俺は急いで口を開いた。


「何で、俺が正義の味方だったんだよ。まさか、俺の名前が「正義」だからとか、その場にいたとかじゃねえだろうな?」

「……」


 姫川の返事はない。おい、何故黙るよ。

 途端、ベッドはギシッ……と軋んだ。

 姫川は寝返りを打って、こっちに背を向けたのだ。

 って、何でなんだよ!?


「おい、何だよ、何で黙るんだよ。そんな訊いちゃ駄目な事だっ……」

「あなたなら」

「えっ?」


 その声は、さっきまで横柄な態度だった姫川にしては、やけにか細い声だった。

「あなたなら、大丈夫だと思ったから」

 その言葉だけを、はっきりと言ったのだ。


「……はあ?」

「……」


 俺は返事を促すが、姫川からは返事が返って来ない。

 その替わり、姫川の息遣いが変わった。

 ……明らかに、すうすうと言う寝息に。

 何だそりゃ。何で「あなたなら、大丈夫だと思ったから」なんだ?

 その場に俺がいたからとか、そんな単純な事を言われるなら「ふざけるな」とキレる準備をしていた俺にとって、その不可解な回答は、頭をごちゃごちゃとかき混ぜるだけだ。

 だからと言って、「あなたは選ばれたのよ」とか言われても「ふざけるな」とキレていたとは思うけどさ。

 ああ、もう。

 俺は頭をガシガシと掻き毟った後、布団に頭を突っ込み直した。

 ああ、もう知らん。

 できれば、今日1日。

 いや、できれば放課後以降から全部。今から寝て起きたら夢だったらいいのに。

 俺は小学生みたいな願いを唱えながら、一生懸命眠りにつく事ばかり考え始めた。

 カーテン越しに、まだ外灯の光が見え、カーテンのわずかな隙間から部屋に入ってくる。

 まだ、夜が来たばかりなのだ。

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