第61話 命の代償(7)

最後の交渉を終えてバドの元へ戻ると、興奮した傭兵たちが好き勝手に野次を飛ばす中、弟子は意外にも落ち着いた佇まいでリサを待っていた。

雑音など耳に入らない、集中した状態だと一目で分かる。

帝都の裏社会に名を馳せる『人斬り』グイード。

彼と立ち合うということの意味を、バドも十分に承知しているのだろう。


「バド、私の杖を使いなさい」


「えっ……でも……」


「私も、貴方と共に戦います。さ、受け取りなさい」


差し出した杖を、バドは神妙な面持ちでしっかりと掴んだ。

腫れ上がったひどい顔だが、目には強く純粋な光が宿っている。

乾坤一擲の戦いに挑む者の姿勢だ。


「稽古の時と同じです。上段に構えて、ただ一心に振り抜きなさい」


技はおろか、防御の構えすらまだ伝授していない。

バドに教えたのは、上段から真直ぐ振り下ろす『一の型』だけだ。

だが、今さら小手先だけのものを教えても、あのグイードには到底通用しない。

かえって身の破滅を招くだけだ。


「相手の気に呑まれないよう、丹田……へその下にぐっと力を入れなさい。ですが、身体を硬くしてはダメですよ。肩の力を抜いて構えるのです」


焼け石に水、彼我の実力を鑑みれば無意味なことかもしれない。

しかし、どのような切羽詰まった局面に置かれても常に己の全力を尽くすのがリサの信条であり、武人として最低限の心構えだ。

それを弟子に伝えないわけにはいかない。

バドは力強く頷くと――胸に詰まった思いを吐き出すように言葉を発した。


「師匠……その、俺……弟子にしてもらえて、本当に、本当に良かったです! 短い間だったけど、俺、出来の悪い弟子だったけど……でも……嬉しいです……」


瞳には涙が浮かんでいた。

まるで永遠の別離を告げるような言葉に、リサは思わず唇を噛みしめた。

グイードの力量は信じているが、万が一ということはあり得る。

相手方に譲歩を引き出させたとはいえ、自分ではなくバドを戦わせてしまう結果となったことをリサは悔やんだ。

この男を、自分の弟子をこんな所で死なせたくない――。

胸の奥から湧き上がる愛おしさを、リサは深く呼吸することで堪えた。

今、ここでするべきことは泣くことではない。

バドの戦いを、しっかりと最後まで見届けることだ。


「貴方の気持ち、私も嬉しいですよ」


「師匠……」


「貴方には、まだまだ沢山のことを教えなければなりません。逆に私も、貴方から学ぶことは多いはずです。共に修行に励みましょう。この戦いは、貴方の人生における修行の通過点に過ぎません。いいですか、ここで終わりではありませんよ」


「はいっ!」


涙を拭い答えたバドの表情には一片の迷いも恐れも無かった。


「行きなさい、バド」


弟子の肩を叩き、戦いへ送り出す。

打つべき手は全て打った。

後はもう、二人の立ち合いを見守るだけだった。


「……いい顔になったな、バド」


愛刀を腰に差し、一歩前に出たグイードには強者特有の余裕が感じられた。

静かな呼吸と程よく力の抜けた構えだ。

仮に周囲の誰かが不意打ちを仕掛けたとしても、一瞬で斬り伏せてしまうだろう。


「……グイードさん、最初に謝っておくぜ」


「おっ、何だい?」


「あんたは、臆病者でも卑怯者でもない。あんたをよく知りもしないでそんな事を言っちまったこと、すまないと思ってる」


彼らしからぬ神妙な口ぶりに、周囲の者たちがざわめく。

だが、相変わらずの無表情なモニカとヤン、それにディノには動揺するそぶりも無かった。

リサは静かに頷いた。


「ははっ、気にすんなって。俺もガキの時分には調子に乗って色々とやらかしたもんさ。下手すりゃとっくに殺されてただろうよ」


「だけど、この立ち合いは別だ。潔くあんたに斬られるつもりはねえ」


「そりゃそうだ。俺だって、お前におとなしくぶっ叩かれるわけにはいかねえからよ。もしそうなったら、跡目を譲ってリサの弟子にでもなるさ」


そんなことになれば、東南区はおろか帝都中を騒がす大事件になるだろうが、


(その……私に弟子入りを拒む権利はないのでしょうかね……)


そんなことを思い、一瞬だけ頬が緩みそうになってしまった。

この二人、出会い方さえ違っていたらきっと相性が良かったことだろう。

あるいは、バドがグイードの頼れる子分となる未来があったかもしれない。

だが、そうはならなかった。


(バドは私の大切な弟子です!)


改めて気を引き締め、その背に熱い視線を送る。


両者の気が高まっていった。

戦いの始まりを察した周囲が一斉に押し黙る。

夜風がグイード邸の木々を揺らし、葉擦れの音だけが辺りを包み込んだ。

バドがすっと杖を上段に構えた。

リサが教えた通りの、理想的な構えだった。

まだ修行を始めたばかりで稽古では不十分だったことが、この生きるか死ぬかの実戦において体現できている。

天性の勘、とでも言うべきだろうか。


一方のグイードも、それに呼応して腰を落とした。

鞘に手をかけ、バドの動きを静かに注視する。

その眼光の鋭さに、誰もが息を呑んだ。


(これが……『人斬りグイード』!)


静寂の中に秘めた圧倒的な闘気に、リサは戦慄した。

素人なら、もはや得物を構えることもこの場から逃げ出すこともできないだろう。

いや、戦い慣れた傭兵たちですら十二分に己の力を発揮できなくなるはずだ。

一種の妖気、とすら言えよう。

だが、リサには見届け人という役目がある。

何より、弟子の生死をかけた戦いなのだ。

拳を固く握り、息を深く吐くとリサは鋭い声で宣言した。


「始めっ!」


戦いの開始を告げられても、対峙する両者の様子に大きな変化は無かった。

バドの肩が上下している。

恐らく、あのグイードの気を真正面から受けているだけでも相当な重圧を感じているに違いない。

彼が今まで戦ってきた誰よりも強く、誰よりも実戦を経験し、そして誰よりも人を殺めてきた武人だ。

尋常の武の秤では推し量ることすらできない。


対するグイードは、まるで時が止まってしまったかのように微動だにしなかった。

瞬きすらせず、ただじっと構えているだけだ。

彼ならば、バドとの力の差はとうに看破しきっていることだろう。

リサの合図と同時に、一太刀で斬ることも可能だったはずだ。

だが、グイードは動かなかった。

無力な敵を精神的に追い詰めて嬲るような人物とは思えないし、何か迷いがあるようにも見受けられない。


(……たとえどんな相手であっても、常に全力を尽くすということですか……)


リサは改めて、自分が口にし、ヤンも引用した言葉を思い返した。


傷ついた武名は武をもって取り戻す――。


そう、グイードはこの決闘でバドのみならず、リサを含むこの場に居合わせた者たち、ひいては帝都全域にまで己の武を示そうとしているのだ。

武人としてだけではなく、裏社会を束ねる元締としても生きる彼らしい姿勢だ。

この器量の大きさこそ、彼をこの東南区の元締たらしめているのであろう。


(バド……)


弟子の広い背が、急に縮んで見えてきた。

中心を支えるべき魂魄が、完全にグイードに呑まれてしまっている。

息遣いが徐々に荒くなり、巨躯が小刻みに揺れ始めた。

このままの状態が続けば、消耗しきってその場に崩れ折れかねない。

彼の背を守りたい、何とかして支えてあげたい――せめて言葉だけでも――切なる願いがリサを衝き動かしたが、理性が押し止めた。

真剣勝負に水を差すような真似だけは絶対にできない。


戦局が動いたのは、次の瞬間だった。


「おおおおおおっ!」


ついに緊張の糸が切れたのか、あるいはこのままでは対峙することすら困難になると判断したのか、バドが雄たけびをあげた。

恐怖を振り切るかのように叫ぶと、大股で踏み込む。


「あっ……」


バドの足が前に出るより一瞬早く、まるでその決断を読み切っていたかのようにグイードが動いた。

リサが思わず呟いた時には、全て終わっていた。


鞘から放たれた光芒――そのあまりにも速い太刀筋を、リサの目は捉えることができなかった。

しかし、初太刀でバドを斬った直後の、返しの横薙ぎの一撃はそれよりもずっと遅く、軌道もグイードの表情もしっかりと見届けることができた。

まるで邪気も闘気もない、含み笑いを浮かべた顔からは、


(まだまだだな、バド)


とでも言いたげな余裕が感じられた。


バドの巨体がゆらゆらと揺らめき、膝を折って前のめりに芝生へ倒れこむ。

すぐさま駆け寄ったリサとディノが、両脇から彼を支えた。

長い呪縛から放たれた一同が、遅れてどよめきの声を上げる。

その頃にはもう、グイードは愛刀の刃に懐紙で拭いをかけていた。


「バド!」


「おい、しっかりしろや、兄ちゃンよお!」


グイードの初太刀は、バドの左肩口から右脇腹までを鮮やかに切り裂いていた。

そして二太刀目は、こめかみの下から真横に入り鼻の骨を断ち割って、反対側まで綺麗に抜けている。

顔からは派手に血が噴き出ているが、いずれも傷口そのものは浅いことをリサは確認した。


「あ、ああ……あああ……」


衝撃の凄まじさに、バドは己の身に何が起きたのかすら把握できない様子だった。

身体が震え、そのたびに大量の血が噴き出て芝生を赤く染める。


「おいボンクラども、はしゃいでないでリサを手伝え」


モニカの冷めた声に、傭兵たちがぞろぞろと集まってくる。

傷口に布を巻いてきつく縛り、意識が混濁して立つこともできないバドを皆で抱え上げた。

顔を上げると、ヤンはすでに部下に馬車を用意させていた。

グウェンの診療所まで、飛ばせば数分で辿り着けるだろう。

彼女の腕前なら、バドはきっと助かるはずだ。

傭兵たちが馬車に巨体を押し込む中、リサはグイードとヤンの元に向かった。


「元締、ヤン様……ありがとう、ございます……」


「おいおい、礼なんか言うなよ。俺はお前さんの弟子を斬ったんだぜ?」


グイードは苦笑し、腰の鞘に収まった愛刀を軽く叩いた。

だが彼も、リサの真意は十分に理解しているはずだ。

だからこそ、致命傷にならない程度に――予断は許さないが――斬ったのだろう。


「いい気合だったぜ、バドは。あの歳で俺相手に向かってくるだけでも大したもんさ。さすがはリサの弟子ってところかな。ま、傷が癒えたらいつでも屋敷に遊びに来いって言っといてくれ」


言葉通りに受け取るならば、もう遺恨はない、ということだろう。

あとはお前たちが俺をどう思うかだけだ、という意味だ。

もちろんリサに、彼と敵対する意向は無かった。


(少なくとも、今は、ですね)


未来のことは分からない。

彼の武人としての強さも元締としての度量も承知の上で、それでも戦わねばならない時が訪れるかもしれない。

だがそれは、今ではなかった。


「ああ、リサさん。これですけどね」


ヤンが懐から取り出したのは、借金の証文だった。

右下の血判は恐らくバドのものだろう。

リサが目を通したのを確認すると、ヤンは無造作にそれを破り捨てた。


「ヤン様……」


「今回の件は無かったことにしましょう。御承諾、頂けますか?」


「おいおい、随分と気前のいい高利貸しだな?」


「いえいえ、元締ほどではありませんよ。それに、今宵は実に面白いものを拝見させていただけましたからね」


ヤンの言う『面白いもの』とは、今しがたの決闘のことだけではないだろう。

彼の知らないリサ――理知を捨てて修羅場に飛び込むリサのことも含んでいるに違いない。

彼にとっては、それこそ銀貨十枚では安いぐらいの収穫だったのかもしれない。


何か一言口にすべきかと思ったが、顔を見合わせて笑う二人の姿にリサは沈黙せざるを得なかった。

一筋縄でいかぬ彼らとの付き合いは、これからも続く。

ここは相手方の裁量に素直に甘えてもいいのではないかと判断した。


(それに、そんな笑顔で言われてしまっては……もう何も申し上げられませんよ)


絆、信頼。

そんなありきたりの言葉では言い尽くせない関係――リサには到底踏み入れられない深い領域が、確実に二人にはあった。


(私の方こそ、実に貴重なものを拝見させていただけましたよ)


改めて礼を告げると、


「リサ! 馬車が出るぜ!」


ディノの野太い声に促され、リサは邸宅を後にした。

爽快な夜風の冷たさが、初秋の到来を告げているかのようだった。


(続く)

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