第43話 暴れ熊の馴らし方(5)

大抵の人間には、『生活のリズム』というものがある。

早朝に起きて仕事を始める者もいれば、逆に朝まで働いて昼過ぎに目を覚ます生活を送る者もいる。

リサの周囲にいる人間で例えれば、前者は親友である尼僧のアン、後者はリサの常宿で働く娼婦たちが分かりやすい例だろう。


だが、この生活のリズムが「常に不規則なタイプ」もいる。

いつ急患が運び込まれるか分からないグウェンがそうであるし、他ならぬリサ自身、傭兵という職業柄、一定のペースで生活を送ることはなかなか難しい。

とはいえ、リサも依頼がなければ特に何もすることがないので――父の仇を討ってしまった今となってはなおさらだ――平穏な日々を過ごしている。


(張り合いがない、というわけではないですけれど……)


傭兵に、真面目に勤めて上の地位を目指す、というような明確な目標はない。

コツコツと金を貯めて、というのは目標としては分かりやすい。

だが、リサにはそれほど財産に対する執着心はなかった。

無一文ではさすがに困るが、慎ましやかな日常を送るのに十分な蓄えはある。

仕立て屋に流行の服を作らせたいとは思わないし、宝石や装飾物を収集するような趣味もなければ、血眼になって博打にのめり込むこともないので、当分は仕事を請けずともやっていけそうな状態だった。

ただ鍛錬を繰り返し、夜は仲間とダラダラ過ごすだけの日常――。


(……もしかして、私ってつまらない人間なのでしょうか……?)


時々、そんなことを思ったりもする。

リサを『面白い奴』と言う決して少なくない。

直近でいえばグウェン、アーシュラ、それに東北区の元締ザイツには初対面ですぐにそのような評価を受けた。

ありがたい事ではあるが、彼らは良く言えば大物、悪く言えば失礼ながら世間一般の基準とは大幅にずれた面々でもある。

普通の人々からすれば、仕事と鍛錬ばかりの自分は『つまらない女』なのではないだろうか――。


大した悩みではない。

日常のふとした合間に忍び込む、かすかな不安だ。

自分の生き方を変えようとまでは考えない。


(考えたところで、ではどうするのか? という話ですしね)


誰かにこの小さな悩みを話したりはしない。

話しても笑われるのがオチだろうし、かといって真剣に心配されても困るからだ。


ともかく、今のリサは何もすることのない、いわばフリーの状態だった。

といって、自堕落な生活を送ったりはしない。

身体と心に『贅肉』がつけば、いざという時に命の危険に晒されることになる。

傭兵にとって、己の『身体』は一番の武器だ。

それを磨くことを怠るわけにはいかなかった。


(そう、暇だからこんなことで悩むのですよ。身体を動かしましょう)


ということで、診療所の一件以来、リサは鍛錬に励んでいた。

先日の連中が報復に来るかもしれないので、やはり仕事がなくて暇なモニカに相談し、交替で診療所の周辺を警戒するようにしている。


(うん、清々しい朝ね)


この日のリサは、まだ陽もわずかにしか姿を見せぬ早朝から、川沿いの道を走っていた。

時間が時間だけに、すれ違う人もほとんどいない。

曙光を浴びた水面が輝き、時折チャポンと魚が跳ねる音がする。

一定の歩幅、速度で走る。額にはびっしりと汗が浮いていた。


しばらく走り続け、身体が温まったところで少しずつ速度を緩める。

首をゆっくりと巡らしながら、道を離れて河岸に向かって草むらを歩いていくと、ほどなくして開けた場所に出た。

草が刈られ、石もほとんど落ちていない。

ここがリサの稽古場だった。


まずは、杖を両手で上段に構え――そのまま前に踏み込んで思い切り振る。

下までは振りきらず、腰の手前でぐっと止める。

そのまま上段に戻し、同じように振る。

紫電流杖術を学ぶ者が最初に習う基本中の基本、『一の型』だ。


素人目には、ただ上から杖を振り下ろしているようにしか映らないだろう。

だが実際には、この素振りにも気を払わなければならない点が沢山ある。

上段に振りかぶった際の杖の角度、肘の位置、目線、足。

余計な力が入ってはいけないし、力を抜き過ぎてもいけない。


それから、振り下ろす時の杖の速度と軌道。

踏み込みの際に爪先に力を入れること、歩幅、体重移動――。

これら全てを、最初は意識しつつ行わなければいけない。

やみくも雲に杖を振るだけでは、さして意味はないのだ。


(それでも、腕と肩、背中の力をつけるには十分ですけれどね)


まずは型をしっかりと身につける。

その上で、無意識の内にできるようにならなければならない。

そうでなければ、実戦では物の役に立たないからだ。

だからひたすら繰り返す。

リサは『免可』を得てもなお、弛むことなく繰り返し続けてきた。


精神を研ぎ澄ませ、素振りを続けた。

回数を声に出して数えたりはしない。

己自身の心と身体が『納得』するまで続けよ、というのが亡き父の教えであり、紫電流の根幹を成す思想だった。


しばらくの間、早朝の川岸に杖の風を切るだけが鳴っていたが――。


(誰か……来るようですね)


額にびっしりと汗を浮かべたリサは、遥か後方に人の気配を感じ取っていた。

いくら稽古に集中していても、いや、集中しているからこそ僅かな違和も察知できなければならない。


(一人ですね……男性、それもかなり大柄な……殺気は感じられません。むしろちょっと無頓着な感じ……危険はなさそうですね)


近づいてくる足音の大きさとリズムだけで、おおよその見当は付けていた。

該当する知人といえば、一人か二人ぐらいしか思いつかない。


「よっ、姐さん!」


背後から脳天気な声がかけられた。

稽古の手を止めてゆっくりと振り返る。


(ああ、やっぱり……嫌な予感って、どうしてこうも当たるものでしょうか)


例の若者バドが、楽しい遊びを見つけた子どものように目を輝かせて立っていた。

診療所で寝ていたままの姿だ。

微風に乗って、膏薬の匂いが漂ってくる。


「おはよう、バド。傷はもう大丈夫なのですか?」


快癒しているはずがない、と解ってはいたが一応尋ねてみる。


「ん、ああ、平気、平気! グウェン先生はさ、まだ動くなって言ってたんだけどね、じっと寝っ転がってるだけなんて、退屈で退屈でさぁ……」


予想通りだった。今頃グウェンは怒り心頭だろう。

口の悪い先生だが、実際には誰よりも患者のことを心配しているのだ。


(仕方のない人ですね……退屈なのは分かりますが)


彼のような暴れ者からすれば、ただ寝て療養するだけの日々は耐え難い拷問にも等しいだろう。

もちろん、医師の言いつけを破るのは問題だが。

とはいえ、包み隠さず話すバドには若干だが好感が持てたのも事実だった。

少なくとも彼は、取り繕うような嘘を吐く人間ではないのだ――ただ根が単純なだけなのかもしれないが。


「後でちゃんと先生の所に戻るのですよ? それで、今日は一体何の用でここまで来たのですか?」


散歩の途中で偶然通りかかった、というわけではないだろう。

わざわざこんな所まで、リサに会いに来たのだ。


「いや、実は姐さんにどうしても会いたくてさ、へへ……」


バツが悪そうに下を向き、指で頬をしきりに掻いている。

まるで初心な少年のような態度だ。


(……あらあら、これはまさか……恋の告白でしょうか?)


頬を朱に染めた彼の表情を窺いつつ、リサは小さく息をついた。

この様子には覚えがあった。

今までで合計四回、経験がある。

故郷の草壁島で二回、帝都に渡ってから二回。

いずれも年下の女子からであったから、男性はこれが初めてになる。


(さて……どうしたものでしょう?)


どうするもこうするも、気の毒だがお断りするだけだ。

だが、このような場面における社交辞令ぐらいはリサも心得ている。


「それは嬉しいですね。でも、どうやってここが分かったのですか?」


リサの稽古場所については、仲間内でも数人にしか教えていない。

別に秘密にしているわけではないが、万が一どこかで敵対者の耳に入り待ち伏せでもされれば面倒なことになるからだ。


「いやあ、それがさ……とりあえずこの前の酒場に寄ってみたんだよね。そしたらあのおっさん……じゃない、ディノ兄さん。あの人が教えてくれてね」


これまた想定していた通りの答えだった。

モニカであれば、まず間違いなく教えなかっただろうし、この時間まで『カモメの歌声亭』にたむろしている連中で、稽古場について知っているのは彼ぐらいだ。

大問題という程ではないが、後で嫌みの一つも言っておこうと決めた。


「結構離れていたでしょう? あそこで待っていれば昼にでも会えたでしょうに」


「いや、すぐにでも会いたかったからさ。それに二人きりで話したかったし……」


最後の方は彼らしくもなくゴニョゴニョと口ごもっていて、聞き取れなかった。

顔を少しうつむかせ、瞬きを何度もしながら上目遣いにリサを見つめている。

あからさまに様子がおかしい。

いよいよもって、恋の告白という線が濃厚になってきたようだ。


(参りましたね、これは。モテる女も考えものです)


だが、ここまで情熱的に迫られるのは正直悪い気分ではない。

嫌われる、あるいは誰にも好意を抱かれないよりはずっとマシだ。

もっとも、バドがリサの理想には程遠いというのが、お互いにとって残念な話ではあるのだが。


「それでさ、その……あ、えっと、この間は守ってくれて……あ、それと、刺された時も姐さんのおかげで……その、あ、ありがとう」


舌をもつれさせながらも礼の言葉を口にし、ぎこちなく頭を下げてきた。

後方で束ねた長い黒髪が、川からの風に流されて揺れている。

リサは微笑んで小さく頷いた。


「気にすることはありませんよ。喧嘩なんてあの辺りではよくあることですし。それに先日は、貴方だけじゃなくてグウェン先生も危なかったのですからね」


「そ、そう……で、その、実は……もう一つ、今日は言いたいことがあって……」


すでに耳まで真っ赤になっている。

筋骨逞しい大柄な身体が一回り縮んでしまったかのように思えた。

これでは暴れ熊どころか、熊の大きすぎるぬいぐるみだ。

よほど緊張しているのか、次の言葉がなかなか言い出せないように見える。

ここに至ってリサは、彼の告白をきっぱりと断ることができるかどうか、少しだけ自信が無くなってしまった。


(どうやってお断りしましょうか……冷たく断るのは少し可哀想ですね……)

(といって返事を一旦保留、なんて思わせぶりな答えで勘違いさせてしまっても困りますし、かえって彼も気の毒です……)

(もちろん彼の告白を受け入れるのは論外ですが……)


杖を小脇に抱えたまま、リサは思い悩んでしまった。

この純朴な青年の心を傷つけたくはない。

といってまさか、一時の同情で付き合うわけにもいかない。

だからやはり断るしかないのだが、その断り方がどうにも難しいのだ。

一方で、可能性は万に一つもないだろうが、ここで彼が強引に押し倒しにくるような状況も頭の隅に置いていた。

もちろんその時はお仕置きをして、淑女に対する適切な接し方を身をもって教えるつもりだ。

いくら彼が熱い情熱を燃やそうと、操を捧げる気は毛頭ない。


「あ、あの……その、お、俺……」


意を決したように、バドが顔を上げた。

ひたむきな目を真直ぐリサに向けてくる。

ついにリサも覚悟を決め、大きく息をついた。

彼の眼差しを正面から受け止める。


(これは……そう、『真剣勝負』ですね!)


少々大袈裟かもしれないが、彼にとっては人生を賭けた大勝負なのだ。

彼の強い想いに、自分も真摯に応えなければならない。


バドが両拳を固く握りしめ、叫ぶように言葉を放った。


「俺を……姐さんの弟子にしてくれっ!」


「……えっ?」


川岸を、朝の爽やかな風が吹き抜けていく。

リサはしばしの間、茫然とその場に立ち尽くしてしまった。

バドの『告白』は完全な不意討ちだった。


(続く)

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