第25話 たった一つの危険な橋(14)

もう、限界だ。

理性で押し止められる苦しみではない。

このような作戦を立案した己の蛮勇を、心から悔いていた。


(違う! 自分を信じて耐えるのよ!)


心の中で叫んだ。

奥歯をギリギリときしませ、とにかく口を開くことを拒否する。


「さ、てめえの後ろで糸引いてンのは誰だ? さっさとゲロっちまえよ」


愉悦に満ちたレダの声。

すでに血まみれの太ももを、ぐりぐりと抉るように踏みにじってくる。

だが、それでもリサは返答を拒んだ。


「へえ、なかなか根性あるじゃン。でもよ、どンなに頑張ったって無駄だぜ?」


悪党の賛辞など必要ない。

今はただ、この苦痛をわずかでも和らげて欲しかった。


(いや、ダメよ!)


自分の心が弱い方に傾いていることにゾッとした。

ここで心が折れたら、全てが水泡に帰す。

――いや、レダの言うように耐えても無駄なのか。

意地を張っても無意味なのか。

ここで自分は死ぬのか。


「あああああああああっ!」


叫んだ。

レダが苛立ったように頬を張るが、それでも構わず叫び続けた。


殺してやる。

この悪党どもを、ひとり残らず処刑台に送り込んでやる。

群衆の罵詈雑言と侮蔑の視線を浴びた後、紅蓮の炎で骨も残さず燃やし尽くされてしまえ。

それが、この連中に相応しい死に様だ。

今の自分よりも、もっともっと酷い苦痛と絶望を味わいながら地獄に落とされるがいい。


リサの心中を、どす黒い怒りが逆巻いていた。

だが、それでも苦痛は消えようとしない。


(ロッテ! アーシュラ樣!)


己の命運を握る、二人の顔を思い浮かべた。

自分は彼女たちに賭けたのだ。

リサは信じた。

必ずやロッテは尾行の任を果たす、と。

アーシュラはザイツと共に手勢を引き連れ、救出に向かっていると。


(それまでは! それまでは、絶対に、何があっても、耐え抜くのよ!)


誘拐師どもが欲しがっているのは情報だ。

それを手に入れたらリサに用はないだろう。

本当に奴隷市場に売り飛ばすというのであれば、問題はない。

後はただ援軍を待つだけだ。

だが、リサの素性とその意図が知られれば、その場で殺される可能性が高い。

援軍が向かっていることまで突き止めたら、間違いなく殺すだろう。

だから、白状するわけにはいかない。

時間を稼ぐのだ。

どれだけの拷問、陵辱を受けようと、絶対に口を割ってはならない。


(でも……)


叫びすぎて、喉が枯れてしまった。

内ももを、鮮血が筋となって伝っていく。

肉体を苛む痛みが、精神を恐ろしい速さで激しく蝕んでいた。

いっそ気絶してしまえば楽になれるだろう。

だが、それを許すような連中ではなかった。


「ほらよっ! ご褒美だぜ!」


野太い男の声が鼓膜を打った。

目は痛みに耐えるために先程からずっときつく瞑ったままなので、何が起きているかは全て耳頼りだ。

次の瞬間、冷たい何かが顔を襲った。


(水……!)


汚水だった。

例の噴水に溜まっていた藻だらけの汚水を、バケツで汲んできたのだろう。

悪臭が鼻を覆い、腹の底から吐き気が込み上げてきた。


「おらっ! 眠ってンじゃねえよ! さっさと吐けや!」


レダがドスの利いた声と共に、脇腹を殴りつけてきた。

もう、限界だった。

堪らず、吐いた。

吐瀉物が剥き出しになった己の太ももにぶちまけられる。

その生温かく不快な感触も、今のリサにとってはどうでもよかった。


「汚ったねえな! ゲロするもンが違うだろがよ! 舐めてンのかァ!?」


レダがようやく足をどけた。

代わりに、続けざまに脇腹を殴りつけてくる。

リサは無抵抗のまま、ひたすら吐き続けた。

目を瞑るだけの気力も残っていなかった。

涙で視界が霞む。

やがて、吐くものがなくなった。

身体に力が入らない。

肉体が自分のものではなくなってしまったかのようだ。


(もう、イヤ……。もう、もう、どうでもいい……)


取り囲む悪党どもが、ボロボロの状態になったリサを嘲笑う。


「ひでぇ有様だぜ、せっかくの美人が台無しだな」


「へへっ、ゲロまみれじゃねえかよ。臭っせえな、もうこんな女、姦る気にもならねえよ」


「全くだぜ、まぁこういうのが好きなド変態野郎もいるんだろーけどな!」


「けけけ、そりゃおめえのこったろ?」


「ま、これじゃあションベンやらクソを漏らすのも、もう時間の問題だなぁ?」


屈辱と苦痛。恐怖と絶望。

そして、無力感。

身体の震えが止まらない。

心を懸命に支えていた柱が、もはや折れかけていた。

もう、これ以上、苦しい思いをするくらいなら――。


(リサさん!)


(……アン?)


心を許したかけがえのない親友、アンの声だった。

すぐにそれが幻聴だと悟った。

彼女がここにいるはずもない。


(いや、違う……彼女は、いる……いつも、私の心の中に!)


目を閉じた。

穏やかな微笑を絶やすことのない、『東南区の守護天使』。

彼女を思い浮かべるだけで心がふっと和らぎ、温かな気持ちが沸き起こってくる。

神を信じる気持ち以上に、アンは人を愛していた。

人種・貧富・身分も何も問わず、誰に対しても分け隔てなく接する彼女だからこそ、リサも好きになった。


(アン……負けませんよ、私は!)


心に強く誓った。

その脳裏を、アンの法衣の裾にしがみつく東南諸島出身の少女・マオと、そして厳しくも温かかった父の姿がよぎる。


(そうだ……私は一人じゃない。この戦いは私だけのものではないっ!)


残虐非道な悪党どもを屠り、純粋無垢な少女を救い出すための戦いでもあるということを改めて思い出した。

自分のため、ではない。

彼女たちのために、自分は耐えなくてはならないのだ。


震えが止まった。

涙が止まり、視界がくっきりと晴れた。

空っぽになった腹が、かっかと熱くたぎっているのを感じる。

鎖に繋がれた全身に力がみなぎってくる。

拳を固く握った。大きく息を吐く。

もう、何も怖くなかった。


(続く)

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