第6話 眠れない一日の始まり(4)
『カモメの歌声亭』は、港湾で働く男たちが主に集う安酒場だ。
主のバッツは引退した老傭兵で、荒くれ男たちから一目置かれていた。
陽が沈む頃から店を開け、昼間まで営業している。
この辺りの酒場では一番客足の多い店で、店内は昼でも薄暗く、安酒の匂いと潮の香りが充満していた。
今日はまだ早朝ということもあり、ちょうど客層が入れ替わる頃合いだった。
昨晩から飲んだくれていた連中がおぼつかない足取りで店を出て、入れ替わりに朝一番の仕事を終えた漁師や荷役夫たちが一杯引っ掛けにやってくる。
二人は一番奥のテーブルに陣取り、白葡萄酒を注文した。こんな暑い日には冷えたビールで暑気払いというのが定石だが、空きっ腹にビールを流し込むのはリサの流儀ではない。
(まあ、食前酒ということにしておきましょうか)
心は依然として、アルバおばさんのパスタに捕らわれたままだ。空腹は最良のソース、という格言に従い、ここは軽く舌を湿らせる程度にしておくべきだろう。
「はい、これが約束の後金ね」
「えへへへ、毎度あり~」
ロッテが鼻歌交じりで銀貨を数え、手早く懐に仕舞い込む。
情報の売買は、その場で一括払いが通例であるが、リサとロッテの間では、「情報を提供する段階で前金、その情報が役に立ったら後金」という約束が交わされてあった。
感覚としては、後金は礼の意味を込めた報奨というところだ。明確にいくら払うとは決めていないが、金額に不満な顔をされた事もないので、おおむね満足しているのだろう。
「えへへ、それじゃあさっそくですけど、今朝の最新情報はいかがです?」
「何か面白いことでもあったの?」
リサが河原でヒューイたちが動くのを待っていた間にも、世間は動いている。
こと彼女の生きる裏社会は、昼よりも夜に活発な動きを示すものだ。
情報は新鮮なうちに耳に入れておきたい。それがこの世界で生きる知恵の一つだ。
「それはまあ、いつものようにリサお姉さまのお心がけ次第でして」
渡す額に相応の情報、ということだ。
リサは少考した後、至るところ傷だらけのテーブルの上に銀貨を数枚並べる。
それを見て、ロッテもこれまでとうって変わって真剣な表情になった。
普段はおちゃらけていても、いざ仕事となれば瞬時に切り替えられる。
そんな彼女だからこそ、常に危険と隣り合わせの情報屋稼業も務まるのだ。
ロッテが銀貨を素早く懐に入れ、身をぐっと乗り出してきた。
売り物としての情報であるから、当然ながら他人には聞かせない。
この辺りの配慮も彼女は徹底している。
「グイードの元締、最近はどうも、本当に苦しいみたいですよ」
周囲に油断なく目を配りつつ、手の平で口元を巧みに隠してそっと囁いてきた。
裏社会には、唇の動きを読んで会話の内容を知ろうとする者もいるからだ。リサもそれに倣った。
「そうらしいわね。景気が悪い、とは本人もぼやいていたわ。何が原因なの?」
「ええ、それなんですがね。賭場の客入りがここのところ振るわないようなんですよ。で、これがどうやら、隠れて賭場を開いている連中がいるみたいでして」
地域を束ねる元締にとって、賭場の経営は重要な資金源だ。
無断で賭場を開帳するというのは、言ってみれば畑の収穫物をこっそり盗むような行為であり、表沙汰になれば、殺されても文句は言えない。
「それはまた、随分と命知らずな連中ね。ひょっとして、アーシュラ樣が絡んでいるの?」
アーシュラとは、東南区を縄張りとするもう一人の元締だ。
女性ながら娼館街を中心に辣腕を振るっている。
グイードとはかつて敵対していたが、リサが帝都にやって来た一年前には停戦状態となっていた。それ以来、表立っての抗争には発展していない。
だが、グイードの言う通り「何が起きるか分からない」のがこの世界だ。ましてや、元から火種があるのだから、いつ血生臭い争いになるか予測はできない。
「いえ、そこまでは掴めていません。後ろで糸を引いているという線はあるかもしれませんが」
「ふうん。でも、お互い抗争は避けたいはずでしょ?」
「ええ、正面からやりあったら他区の元締たちも動いてくるでしょうし、保安隊も黙ってはいませんからね。モーリーン隊長なんて、待ってましたとばかりに乗り込んできますよ」
力が物を言う世界であるが、ある程度以上の力を持つ者同士は争いを極力避けるものだ。楽に勝てる相手であれば話は別だが、グイードとアーシュラの力は拮抗している。また、憎みながらも互いの力量は認め合っているともいう。
リサはアーシュラからも、この一年間で何度か仕事を引き受けたことがあった。 冷酷非情な一面もあるが、リサが知る限りでは無分別な人物ではない。
(となると、第三の勢力がこの東南区を狙っているのかもしれないわね)
帝都港湾地域の裏社会。ここを傘下に収めることで得られる利益は莫大なものだ。
「なるほどね。道理で最近、保安隊の方々がピリピリしていると思ったわ」
街の治安を守る保安隊は、現在の帝政下において、全ての主要都市に配置されている。上層部の大半は貴族・騎士が務めているが、現場の隊員は平民出身だ。
特に帝都の保安隊は、入隊には厳しい試験が課され、合格後も徹底的に鍛え抜かれた上で配属される精鋭部隊である。
壮健な肉体と鋼のような精神を濃紺の制服に包み、柄頭に獅子の紋様が施された細剣と六尺棒を装備した彼らは、傭兵にとって最も注意すべき存在だった。
(……あの時も、問答無用でいきなり取調室に連れ込まれましからね……)
この帝都に渡った一年前、東方諸島と帝都を結ぶ連絡船を降りてものの数分で出会ったのが、現在も東南区で隊長を務めるモーリーン・ダウニーだった。
東南区保安隊にいる十二名の隊長の中でも、女性ながらナンバー3と目されている。
「いえ、それもありますけど、ピリピリしている原因はもう一つの件ですね」
「というと?」
「ここ最近、誘拐師どもが帝都で仕事をしているようなんですよ」
ロッテが眉をしかめると、リサも唇をぐっと噛み締めた。
誘拐師とは子どもを浚い、奴隷市場に売り飛ばすことを生業とする連中だ。
先代の皇帝によって奴隷の売買は禁止されていたが、闇の世界ではいまだに取引が行われている。一部の商人などが、己の歪んだ性癖を満たすために密かに購入しているのだ。
金に糸目をつけない連中との商売だけに利益は計り知れないが、裏社会でも忌み嫌われる連中だ。グイードもアーシュラも、リサの知る限りでは奴隷商売は行っていない。
「連中、以前は辺境の村や集落を襲っていましたが、ここのところ帝都内で商品を手に入れているみたいです」
奴隷市場では、中央人よりも辺境の異民族の子供の方が物珍しさもあって高額で取引されるらしい。リサの故郷である東方諸島でも襲われた村がいくつもあり、自警団を組織して警戒にあたっていた。
「わざわざ辺境まで大勢で赴くのは費用もかさみますからね。それよりも帝都や大きな街で浚って、そのまま売ってしまえば効率が良い、ということなんでしょう」
「なるほど、去年から出稼ぎや移民の数も増えているしね」
帝都の住民の大半が中央人、というのはもう昔の話だ。
年々地方から出稼ぎにくる異民族の数は増加している。それに伴った治安の悪化を恐れる空気も、旧来の住民たちの間では広がっているようだ。
しかしこれも世の流れ。今後はもっと、地方から移り住む者が増えるのは間違いない。
「ええ。まだ帝都に不慣れな子どもを浚って、という手口のようです」
他地域から来たばかりの内は、まず確実に広大な帝都の空気に呑み込まれてしまう。リサも当初は、あまりにも故郷の町とは勝手が違いすぎて困り果てたものだった。早い段階でロッテと知り合えたおかげで、すぐに帝都での「生き方」を学べたわけだが。
「東南区でも連中が動いているの?」
「いえ、今のところは東区、東北区だけのようですね。海沿いの地域が狙われていますから、恐らく東南区も危ないとは思いますが」
「そう……。また何か新しい動きがあったら教えてね」
「もちろん! どんな情報も、いの一番にリサお姉さまにお伝えしてるんですからねっ!」
誇らしげに胸を張る。張るほどの立派な胸は無いわね、と思ったが、ロッテはその点だけはひどく気にしているので自重した。
(それにしても誘拐師、ですか)
裏社会でも忌み嫌われる外道中の外道ども。奴らの足取りを掴む、あるいは構成員を捕らえることができれば保安隊に一つ借りを作ることができるかもしれない。
潔癖な人間からは不謹慎と見られるだろうが、リサにとって事件は飯の種だ。
ましてや誘拐師のような連中であれば、何も気兼ねする必要は無い。
もちろん、同じ傭兵仲間も同じことを考えるだろう。そうなれば早い者勝ちだ。彼らを出し抜くためにも、今後も気に留めておかなければ。
「後は……。うーん、そうですね、リオネルさんは相変わらず商売順調なご様子ですね」
「それは結構なことね。去年の冬頃までは、結構苦しかったって話だけれど」
リサが荷駄の護衛を引き受けた時分に比べると、だいぶ景気が良くなったという話は、以前にロッテから聞いていた。
もっとも、その影響でリサに仕事の依頼が舞い込んできたりはしていないのが残念な話であるが。
「内地の商売はあまりふるってないようですけれどね。東南諸島との交易が上手くいっているんだとかいう話です。うん、やっぱり狙うならリオネルさんをオススメしますよ!」
「もうその話はいいわよ……。ところで、例の件はどう?」
「すいません……お役に立てなくて」
「いいのよ、これからも続けてお願いするわ」
いつになく消沈した面持ちのロッテに微笑みかける。
首に双頭の蛇の入れ墨。この一年間、リサはその男を捜し求めていた。
だが、ロッテの情報網をもってしてもその足取りを掴むことはまだできていない。
(やはり帝都にはいないのかも……いえ、まだ諦める段階ではないわ)
帝都以外の街まで足を伸ばし、探すという方法ももちろんあるだろう。
だが、それは本当にあてもない旅になる。人口百万を超えるといわれる巨大な帝都に留まり、情報を集める方が早いはずだ。リサは自分の判断を信じることにした。
残っていた白葡萄酒を飲み干し、リサは席を立った。
(続く)
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