拾伍の章 小野家と土御門家

 思わぬ訪問者に、楓は一瞬呆然としてしまったが、

「遠い所をお出で下さり、ありがとうございます」

と頭を下げた。そして、

「お疲れでしょう、どうぞ、奥でお休み下さい」

 すると、晴栄はそれを手で制するようにして、

「いえ、火急の用があり参った次第ですので、申し訳ありませぬが、楓様とお話を致したく存じます」

 楓も耀斎も亮斎も、どう見ても十歳前後の晴栄の言葉に吃驚びっくりした。


 晴栄が小野宗家を訪れた事は、洞窟の中で呪符を作っていた晴信にもわかった。

「晴栄様……」

 土御門宗家の当主である晴栄が小野宗家を訪れたのは、晴信にとって衝撃的だった。

(晴栄様は、私のお味方ではないというのか?)

 晴信は、書き始めていた呪符を思わずギュッと握り潰してしまった。

「だが、私は退かぬ。全てはこれ、土御門一門のため」

 晴信は握り潰した呪符を放り、新しい紙で呪符を作り始める。

(小野宗家を滅ぼさば、他の神道の者共は私を恐れ、ひざまずく。さすればまた、土御門一門が、朝廷の祭事を取り仕切る事になる)

 その考えが、すでに明治の世に通用しない事を晴信は知らない。


 楓は当主の間に晴栄を通し、話を聞いた。晴栄の話は、楓にとって驚くべき事だった。

「父上が、そのような事を?」

 楓は、自分の父である栄斎が、土御門家を訪れた際、晴信を追放した方が良いと語った事を聞いた。

「はい。晴信が小野宗家様に恨みがあるとすれば、その話を盗み聞きしたのではないかと思われます」

「そうでございましたか……」

 楓は、恨みとは恨む側の都合のみで成立するものである事を思い知った。

「しかし、それはまさに逆恨みです。晴信は、栄斎様のお話を最後まで聞いていなかったのではないかと」

 晴栄の言葉に、楓はキョトンとした。

「それは如何なる事でしょうか?」

 晴栄は楓を見て、

「栄斎様は、晴信を追放した方が良いと仰いましたが、それは全て晴信のためを思うてのお言葉」

「はい」

 楓は尚も不思議そうに晴栄を見ている。晴栄は微笑んで、

「魔の気を宿す晴信は、陰陽道や神道などに関わらず、一人の人間として生きて行く方が良い、とのお言葉でした」

 楓はようやく合点が行った。父栄斎は、その歯に衣着せぬ物言いで、朝廷や幕府にも敵が多かったと聞いた事があるが、晴信との事も、栄斎の言葉が強過ぎたせいで誤解が生じたのであろうと。

「であればこそ」

 晴栄は突然畳に手を着き、頭を下げる。楓は面食らって、

「晴栄様、あの……」

 晴栄は畳に頭を擦り付けるようにして、

「この通りにございます。晴信は、全て我が父晴雄のためと動いておる様子ですが、あの者のなそうとしておる事は、間違っております。何卒、楓様のお力で、晴信をお止め下され」

「晴栄様……」

 楓は涙ぐんで晴栄を見ていた。彼女の後ろに控えている耀斎と亮斎は、晴信の思いに心を打たれ、目頭を熱くしている。

「明治の世は、陰陽道を葬り去ろうとしておる気配が致します。それは時の流れ故、私は受け入れるつもりです」

 晴栄は頭を上げ、楓を見た。楓はそれに微かに頷いて応じた。

「晴信は、その時の流れに逆らおうとしておるのです。それはできぬ事。してはならぬ事。私はそう考えております」

 楓は、晴栄が土御門家の将来を憂えているのではなく、これから日本という国が進もうとしている新たな歴史の海に何かを見たのではないかと感じていた。

「承知致しました、晴栄様。私の力がどこまで及ぶかわかりませぬが、尽力致します」

 楓は晴栄に近づき、彼の手を取った。

かたじけなく存じます、楓様」

 晴栄も目を潤ませていた。楓は微笑んで、

「では、夕餉の支度を致します故、お待ち下され」

「はい」

 晴栄は微笑み返して頷いた。その顔は、大役を果たし、ようやく子供らしいものになっていた。


 土御門晴栄が東京に現れた事は、復古神道の者達も知っていた。

「当主自らが参るとは、如何なる事であろうか?」

 衣冠束帯の老人が言った。

「只ならぬ心積もりがあるという事でしょう」

 白装束の壮年の男が答える。

「いずれにしても、あと数年で陰陽道は消えてなくなります。大事ないかと」

 巫女姿の老女がニヤリとして言う。そこにいた一同は、皆愉快そうに笑みを浮かべた。


 晴栄は、長旅の疲れと緊張のほぐれもあってか、夕餉をすませ、楓が用意した床に着くと、たちまち寝入ってしまった。

「まだ、あの時の亮斎と同じくらいであるのに、ご立派でした」

 晴栄の寝顔に幼き頃の亮斎と享斎を思い浮かべる。そして、そっと部屋を出た。

「耀斎様」

 そこに控えていた耀斎に驚き、楓はもう少しで悲鳴をあげるところだった。

「如何なさいましたか?」

 楓は呼吸を整え、耀斎に尋ねた。

「晴栄様は?」

「お眠りになっています」

 楓は耀斎の意図がわからず、ジッと顔を見た。

「あ、いや、別に用があった訳ではありませぬ。ちと、その、気になったもので」

「は?」

 楓はますます不思議そうに耀斎を見る。

「あ、そうだ、風呂に入ろう」

 バツが悪くなったのか、耀斎は楓に背を向けると廊下を歩いて行く。

「おかしな耀斎様」

 楓はクスッと笑い、歩き出した。


 草木も眠る丑三つ時(現在の午前三時から三時半)。楓は只ならぬ気配に目を覚ました。

「何事?」

 彼女は素早く着替えをすませ、部屋を出て、雨戸を押し開く。

「何と!」

 遥か彼方に火の手が上がっている。それも一つだけではなく、いくつも。

「これは如何なる事か?」

 楓は唖然とした。そこへ耀斎と亮斎が寝間着のままで現れた。

「ああ!」

 二人も、火の手に気づき、顔色を変えた。楓は玄関へと走る。

「楓様!」

 耀斎が慌てて追いかける。亮斎も続いた。

「何事かが起こったようですね?」

 晴栄も着替えをすませ、玄関に来ていた。

「晴信の気を感じました」

 晴栄は悲しそうに呟いた。楓もそれを感じていたので、晴栄の心がわかり、辛くなった。

(あの人は、晴栄様のお気持ちがわからぬのか!?)

 楓は、かつてない程の怒りを晴信に抱いた。

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