拾(じゅう)の章 黄泉の井戸

 楓は、建内宿禰が黄泉醜女を融合させた式神を遂に全て切り倒した。

「くっ……」

 楓はふらつき、片膝を着いてしまった。

『楓よ、我は離れる。すぐに建内宿禰を追うのだ』

 倭の女王はそう告げると、楓の身体から離れ、天に帰った。

「……」

 楓はそのお陰で身体が楽になったが、それと引き換えに力を失うのも感じていた。

(あの魔物、私だけの力ではとても倒せない……。如何にすれば……)

彼女の美しい顔を汗が伝った。


 その頃、根の堅州国を通り、大幅な時間短縮をした土御門晴信は、嘔吐で汚れた口の周りを拭い、小野宗家の邸の門の前に立っていた。

(恐るべきは黄泉路古神道。これほど早くここまで来られようとは……)

 根の堅州国には、時間と空間の概念はない。どこから入ろうとも、行きたい場所に出られる。但し、それは術者の力量によるところが大きいが。そのため、楓と戦った小野源斎は、一度で目的の地である出雲大社までいけなかったのだ。それに比べると、すでに宗家の前にいる晴信は、源斎より実力的に上という事になろう。

『宗家が京より移りし時、この邸の裏に勧請した井戸があるのじゃ。それこそが黄泉の井戸。我と現世をつなぐもの』

 建内宿禰の声が晴信に囁く。

『早う井戸を封ずる結界を解き、我を現世に戻してくれ、晴信』

「わかり申した」

 黄泉路古神道の凄まじさを理解した晴信は、建内宿禰に従う事を決意した。利用されているとしても、今はそれでいい。そこまで考えていたのだ。


 楓は疲労が蓄積している身体を奮い立たせ、天の鳥船の神の術で飛翔していた。

(建内宿禰が目指したのは、紛れもなく宗家。そして、そこで為そうとしているのは、黄泉の井戸の解放……)

「急がねば……」

 楓は焦りを感じていた。

(根の堅州国を通れば、一瞬で宗家に着いてしまう。如何にすれば……)

 急ぐしかない。楓はそう考え、飛翔速度を増した。


 一方、宗家に戻り始めた耀斎と亮斎は、傾き始めた日に照らされながら、東京を目指していた。

「もどかしいですね」

 亮斎が呟く。耀斎も必死に足を動かしながら、

「私もできれば、楓様のように空を飛びたいものです」

「ええ」

 二人の「楓信者」は、悔しそうに歩を速めた。


 そしてまた、同じく自分をもどかしいと思っている者がいた。土御門宗家の当主である土御門晴栄。彼もまた、先を急いでいたが、まだ船が待つ伊勢にも着いていなかった。

(晴信、早まるでないぞ)

 晴栄は只、晴信の身を案じていた。

「土御門家の役目は終わったのだ、晴信。それならそれで良いのだ」

 晴栄は手綱を握りしめ、前を見据えた。

「時代の流れが早過ぎる。我らにはついて行けぬ」

 悔しさがないと言えば嘘になる。父晴雄が急逝し、何もできぬ間に蚊帳の外へと追いやられたという思いは拭い切れない。しかし、晴栄は決して、それがために他の宗派を怨むような事はしなかった。

(口さがない者共は、父上は殺められたと言う。だが、それはあり得ぬ。そもそも、父上を殺めて得をする者はおらぬ)

 十一歳とは思えぬ程、晴栄は論理的な判断ができる人物であった。

「だからこそ、晴信、滅多な事は致すな」

 晴栄は心に強く念じた。


 晴信は宗家の門に近づいた。

「むっ?」

 彼は邸の周囲を強力な結界が守っている事に気づいた。

「児戯にも等しい……」

 彼はフッと笑い、呪府をたもとから一枚取り出した。

臨兵闘者皆陣列前行りんぴょうとうしゃかいじんれつぜんぎょう!」

 呪府が結界の中に溶け込み、晴信の九字によって結界が内部から崩壊して行く。

「他愛もなし」

 晴信はニヤリとし、門をくぐった。楓の言いつけで使用人達は全て邸を出たため、今は中には誰もいない。

「こちらか?」

 彼は迷う事なく、黄泉の井戸がある方へと歩き出す。

「なるほど。これは凄まじきもの」

 晴信は井戸から漏れて来る微かな妖気を感じ取った。

(これが本来の建内宿禰の妖気なのか……。まさに恐るべきものよ)

 晴信は歩を進め、神社の本殿の前に来た。本殿の放つ荘厳な気が、一瞬彼をたじろがせる。

「……」

 晴信は、建内宿禰の妖気の凄まじさにも脅威を感じたが、晴信の侵入を悟ったかのように勢いを増した本殿の神気も、彼に恐怖を感じさせた。

「この裏手か」

 それでも彼は歩を進める。本殿の脇を通り、裏に出る。そこには、注連縄に囲まれ、大きな蓋をされた井戸があった。

「これが、黄泉の井戸か……」

 晴信は身体がすくみ、震えているのを感じた。

「ここにも結界か」

 晴信は袂から呪府を取り出した。しかし、取り出した呪符を貼ると、途端に燃えてしまった。

「何と!」

 晴信は仰天していた。

『晴信よ、その井戸の結界は、一門の術者が幾人も結界を仕掛けておる。生半可な呪符では太刀打ちできぬぞ』

 建内宿禰の声が言う。晴信はフッと笑い、

「大事ありませぬ、建内宿禰様」

と言うと、今度は懐から別の呪符を取り出した。

「この呪符は、如何様な結界でも破りまする」

 晴信はその呪符を注連縄に貼った。瞬間、激しい抵抗のような輝きがあったが、バチンと大きな音がして、結界が破れた。

「ぬ?」

 晴信はギョッとした。破った結界の下に更に結界があったのだ。

『先程申した通り、幾人かの術者が仕掛けておるのだ。一つや二つの結界ではないぞ、晴信』

 建内宿禰が言う。すると晴信はニヤリとして、

「それでも大事ありませぬ、建内宿禰様。ここの結界、私の呪符を防げる程のものはございませぬ」

と自信満々に言い放った。


 楓はようやくその視界に宗家を捉えていた。

「すでに井戸に……!」

 楓は怒りに震えた。

「そのような事を為さば、この世がどのような事になるか、わかっておるのか、晴信殿!」

 楓はそう叫び、宗家を目指した。

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