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向日葵は普通の学食よりも少し値段が高い。だから、ほとんどの学生はお金に余裕のある時しかいかない。値段設定もあってか利用する客の半分は教授や大学職員の人だ。特に今日みたいに学生が少ない日は大人ばかりのいる空間になる。
ただ単に学食の値段が高い互換というわけでなく、学食にはないメニューを多く扱っている。パスタやシチュー、天津飯やチャーハンなどは学食にはないが向日葵にはある。外で食べるよりは安いし、夜も20時までやっているため、一度目のゼミの懇親会はここだった。向日葵を利用するのはそれ以来かもしれない。親からの食費援助は断っているため、私もお金がないのだ。
研究室から徒歩3分ほどの距離にある向日葵の扉を先輩が開く。やはり今日も学生ではなさそうな人の方が多い。店内は混んでなかったため、すぐに席に通される。学食と違ってほとんどの場合、満席にならないのが便利だ。
座った席は入口から一番遠い二人掛けの席。わずかに開いているブラインドから日の光が少し眩しい程度に差し込んでくる。
先輩がメニューをこちらに向けて差し出す。先に見てもいいという事らしい。
「お腹空いてるとなんでもおいしそうに見えて迷っちゃうよね。」
「わかります。それで頼んでから、あれでもよかったかなとか思ってきちゃったりして。」
「そうそう。今度来たときはこれにしようとか思ってても、結局次も違うもの頼んじゃったりしてさ。」
そう話している間に、私は食べるものを決めた。こういう時の決断は早くすることにしている。
「私は決めたので先輩どうぞ。」
メニューを先輩の方に向ける。
先輩は少し驚いたような表情を見せた。
「前に一緒に食べた時も思ったけど決めるの早いよね。そういう決断力があったらなんでも素早く進みそうだね。」
「決断早いのはこういう時だけですよ。」
先輩は話しながらもメニューをじっと見て、時折うなりながら悩んでいる様子だ。ここのメニューは普通のレストランや学食よりは少ないのでそこまで悩めるものでもない気もするが、末永先輩は何事にも真剣なのだろう。
「決めた。もう注文していいかな。」
「大丈夫です。」
呼び鈴がないので先輩が店員を呼ぶ。返事が聞こえて店員さんがやってきた。
「注文していいですか。『本日のパスタB』を1つ。りーちゃんはなににするの。」
「私は『麻婆茄子セット』を1つ。」
「確認させていただきます。『本日のパスタB』と『麻婆茄子セット』それぞれ1つずつでよろしいでしょうか。」
私たちの様子を伺って続ける。
「ありがとうございます。」
一礼をして去る店員。
ふと先輩の方を見るとまだ悩んでいるような表情を見せていた。
「どうしたんですか。」
「いや、何でもないよ。ただ、Aの方も良かったかなって思ってただけだよ。それにしても、りーちゃんってすごく人の表情を読み取るのがうまいんだね。」
「えっ、そうですか。」
思ってもない方向からの返しが飛んできて言葉に詰まってしまう。先輩と話していると全く予想してなかったことを言われることは多いが、このタイミングで言われると上手く反応ができない。
「これも前から少し思ってたんだけどね。りーちゃんって他人の表情とか仕草とかをよく見てて、その違いで様子を読み取ってるんだろうなって考えてたわけ。」
「自分ではあまりそういうこと意識してないんですけどね。」
そんな息苦しくなりそうな生き方はしていない。探偵でもあるまいし、観察しながら人と話しているなんてことはない。ただ単に先輩がわかりやすいだけだ。
先輩からすればそんなことは違いなんて関係なくて、細かいところに気づかれているという感覚なのだろう。無意識にしていることのわかりやすさなんて本人には認識できないものだろうし、この人に限ってわざとというわけでもないだろう。
「先輩ってよく向日葵に来るんですか。」
話の方向を変えるためにあたり障りのない質問をする。
「うーん、そうだね。最近はよく来るかな。M2になってから食堂に行く時間ももったいなくなって、あらかじめ何か持ってきてない時は向日葵に来るようになったかな。まあ、それでも週2くらいだけど。」
「いや、それでもって結構多いですよ。私なんか月1来るか来ないかくらいですし。院生ってやっぱり忙しいんですね。」
「人によるかな。やっぱり就活しながら修論書いてる人は特に忙しいように思うかな。私は博士進むからそれはそれで忙しい方だけどバイトもTAだしお金はまだ余裕のある方だと思うな。」
いつもよりも間延びしたようなトーンで話す末永先輩。
「先輩、進学するんですね。」
「うん。というか、私は元々5年間一貫コースみたいなものに申し込んでるから最初から後期課程までいくことが決まってたしね。」
「そこは迷わなかったんですか。」
柔らかく微笑みながら問いかける。
「そう言われたらそうだね。でも、不思議と何も迷う事なんてなかったよ。」
さきほどまでのふわりとした声とは異なる、自信を持った声で返される。そして、またほどけて柔らかくなった表情で続ける。
「りーちゃんもそろそろ富士川先生とか守井先生とかから5年コース勧められるかもしれないよ。成績良い子に後期課程まで進んでほしいみたい。」
博士課程に進むことは全く考えていなかったため少し戸惑う。いや、まだ勧められたわけではないのだが、末永先輩がそう言うとだいたい本当にそうなるのだろう。それだけ先輩と私の状況は似ているのだろう。
「でも、さすがにドクターには興味ないですね。ニュースでポスドクの問題とか聞いてると特に自分が博士課程に進学する気がなくなっちゃいますね。」
ポスドク、ポストドクター。博士号をとった後に任期付きの職に就いている人のことだ。最近は大学院の修了後も助手や助教の職に就けない人が増えていて、一時的な職であるポスドクから上がれない人が多くいるらしい。
そんな話を聞いているとさすがにお金が欲しい私としては進学する気にも慣れない。それに後期課程は3年なので27歳まで学生をやるというのは親に迷惑ではないかと考えてしまう。うちの親はそうは絶対に言わないだろうが私が気にする。
「まあ、そうだね。私もそこは不安だよ。でも、りーちゃんくらい優秀でこの学問が好きなら修士で終わるのはもったいない気がするよ。」
また、真面目な声だ。
その声で言われると私が悪いみたいじゃないか。
「お待たせいたしました。『麻婆茄子セット』の方。」
「私です。」
博士に行かない理由をもう1つ説明しようと思ったその時、頼んでいた料理が届けられ、話が中断する。
「それと、こちらが『本日のパスタB』です。」
「ありがとうございます。」
店員さんはまた一礼して、伝票を置いてから去っていく。
「じゃあ、食べようか。いただきます。」
「いただきます。」
末永先輩は食事中ほとんど話さないので続きは食後だ。いや、食後に続くことはないかもしれない。
おいしそうにパスタを食べるこの先輩はきっとまた別の話題を食後は話すのだろう。そんな人だ。
こちらの視線に気づいた先輩は顔を上げて軽く微笑み、またパスタを食べることに戻る。そして、時折、「Aにしておけばよかったかな」などと言うのだ。
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