第1話.絶望の延長




 カーテンを締めっきりにした薄暗い部屋。

 壁際に勉強机、床には円形のカーペット、本の入っていない本棚、姿見鏡。それ以外に、目立つ家具は置かれていない。

 女子高校生の部屋にしては殺風景過ぎるかもしれない。

 教科書や辞書、制服、雑誌や単行本は全てクローゼットの中に押し込んだ。学校を連想させる物が視界に入るのは嫌だった。でも、捨てるには忍びなかったからだ。



 枕元に置いたスマホのアラームが鳴る。

 その音に反応して、ベッドの上の布団の塊……つまり、私がモゾモゾと動き出す。

 スマホの画面を一瞥して、ボーっとその場に座ったまま、意識が完全に覚醒するのを待つ。

 やがてベッドから立ち上がると、壁にかかったカレンダーの前に立つ。カレンダーと一緒に紐で吊るした赤の油性マジックでカレンダーの日付にバツを着ける。

 引き篭もり生活が始まってからと言うもの、カレンダーのチェックが朝の恒例行事と化していた。

 だから、今日で引き篭もり生活がちょうど半年を迎えたのは、嫌でも分かる。

 


 スマホが表示する時刻は8:30。

 共働きの両親はとっくに出勤している時間だし、高校ではSHRが始まっている。

 パジャマのまま、のそのそとドアに向かう。

 ふと、ドアの隣に置いた姿見鏡に目が留まった。


「……」


 寝起きでボサボサの長髪に、うっすらと隈の出来た目元。

 痩せこけた体にねずみ色でブカブカのパジャマ。

 日光をほとんど浴びていない病的なまでに青白い肌。

 等身大の、ありのままの渋川紬が映っていた。

 なんて惨めな姿なのだろう……そう思った途端、鏡に映った紬が歪な笑みを浮かべた。



 2階の自室から、一階のリビングへ。

 誰もいないリビングのテーブルの上には、ラップがかけられた朝食が用意されている。

 すでに冷めてしまっているが、栄養バランスの考えられたメニュー。その上にメモが貼られている。

 メモを剥がして、母が書いた文字を読む。


『体調はどうですか?』


 そのメモを冷蔵庫の扉に貼り付けて、「?」の右隣に丸を一つ腑だけ書く。

 これはまあまあ元気と言う意味だ。これが私と両親の唯一の意思疎通方法。

 朝食を食べて、食器を片付ける。

 この通り両親は、私との距離を測りかねている。でも、今に始まったことじゃない。

 リビングを出るが、自分の部屋へは行かずに一階の一番奥にある部屋へ向かう。

 ここはもともと祖母の部屋だった。

 祖母の部屋は床がフローリングの洋室だ。高齢者だからといって、床の間のある和室を自室にしているとは限らないと言うことだ。書斎は窓以外、本棚が壁を埋め尽くしている。

 天井すれすれの高さがある本棚には、隙間なく本が収納されている。在りし日の祖母は本棚を見上げて、「これ以上蔵書が増えたら床が抜けちゃうわね」と上品に笑っていた。



 私は乳飲み子の時から、祖母の手で育てられた。

 幼稚園のお遊戯会、学校の授業参観、運動会、部活の試合と全て祖母が見に来てくれた。両親が着てくれた記憶はほとんどない。

 読書や芸術鑑賞が趣味の知識人で、戦前生まれの女性とは思えない非家庭的な女性だった。女性特有の感情的になる素振りは全く見せず、常に冷静で理知的。夫婦喧嘩をした母を冷静に諭すことがほとんどさった。

 かと言って、家事が出来ないわけではなく、何でも卒なくこなす天才肌……まるで、漫画やアニメのヒロインみたいだった。

 私にとって『親』は祖母であって、実の親と言う存在にいまいち理解できていない。向こうもどうやら、そう思っているらしい。

 だから直接言葉を交わさず、メモで意思疎通を取るなんて言う面倒な交流をしている。

 両親に感謝はしている。

 不登校になっても、両親は私を問い質し、責める事はなかった。私に知られない様に学校と連絡を取ったり、専門家にコソコソ相談したりしているみたいだ。

 


 祖母は、私の高校生になった姿を見る事無く、この世を去った。

 誰よりも私の新しい制服姿を楽しみにしてくれていたのに……。

 生きていてくれたら、虐めにも耐えられたかもしれない。

 でも今の私の姿を見たら、祖母はなんと言うだろう?

 こんな私は、見せたくない。それが答えだ。



 毎日の日課、その3――

 本棚から一冊の方を抜き取って、大きな書斎机の上に置く。

 文字や言葉にトラウマを持つ私が何故? 事情を知っている人がいたら、すぐさまそう思うだろう。

 祖母の残してくれた遺産とも言えるこれらの中には、活字以外が主となる本もたくさんあった。

画集と写真集、塗り絵、折り紙参考書、パッチワーク教本などなど……文字の情報はほとんどない。

 鮮やかな色と形が全てを語ってくれる。

 祖母のお気に入りだった揺り椅子に座って、一冊を一日掛けてゆっくり鑑賞する。

 祖母に抱かれ、絵本を読んでもらった幼い頃を思い出す。

 遠く懐かしい記憶の断片に涙が溢れたことも何度もあった。

 ペラリ、ペラリ……ページを捲る音と私の呼吸音だけが聞こえる。英語ではない外国語のタイトル。日本語が一切載っていない写真集、分厚いページを捲るほどに美しい外国の風景が視界いっぱいに飛び込んでくる。

 色が網膜に焼きつく。

 『綺麗』と呟きたかったが、半年間、誰とも会話していなかった私の口は上手く開かないし、舌も回らない。

 紙の上の世界旅行から視線を外す。椅子の背もたれに頭を預けて天井を見上げる。

 目を閉じても、私の口はため息しか吐き出せなかった。



 揺り椅子に揺られ、ウツウツと夢見心地。

 まどろんでいた意識が、耳障りな電子音で無理やり起こされた。

 玄関のインターホンが鳴っている。

 揺り椅子から立ち上がって、恐る恐る玄関を確認に行く。

 一定の間隔をおいて、3度目のインターホンが鳴る。

 隣の叔母さん? 保健のセールス? 宅急便?

 どれも違う気がする。

 いつもなら、居留守でやり過ごすのだけれど……。

 5度目のインターホンが響いた時、私は玄関の前に立っていた。


「渋川紬さん、ですね」


  ドアの向こうには、パンツスーツ姿の女性。その後ろにも黒いスーツ姿の男性が2人、さらにその後ろには、閑静な住宅街には似合わないガラス全面にスモークが貼られた厳ついワゴン車が1台、ハザードとたいて路駐されている。

 表情一つ変えず、挨拶もなしに、微動だにせず、私に問いかけてくる。

 第一印象は、『ミスを許さない仕事人間の見本』。

 思わず、女性の雰囲気に押されて「はい」と言いそうになったが、うまく言葉が出てこなかった。

 少しだけ開けたドアの隙間から、彼らの様子を窺いながら首を縦に振る。

 記憶を辿ってみてもこの3人組を「知らない」と言う回答にしか行き当たらない。

 しかし、相手は私の名前を知っている。どう言うことなのだろうか?


「私、、人材育成課課長の橘と申します」

「……?」


 私が目を瞬かせると、女性は名刺を差し出した。

 一応、受け取るも余計に不信感が増す。

 ……悪性、新生物対策機構?

 聞いたこともない企業名だ。それとも独立法人なのだろうか?

 そんな所の課長クラスの人が、私に何の用なのだろうか?

 橘と名乗った女性は、私の返事も待たずに次の話を始めた。


「これから話すことを良く聞いて下さい。貴方には、人類の敵と戦って頂きます」

「……」


 意図せず、口が半開きになる。

 この橘さんは、自分が言っている事が、どれだけ滑稽かつ馬鹿げているのか、分かっているのだろうか? 

 人類の敵と戦う……特撮映画や少年漫画じゃあるまいし。

 その『人類の敵』とやらが仮にと仮定しても、戦うのは自衛隊の仕事であって、不登校の女子高校生が出る幕も隙もない。

 テレビのドッキリ企画か? 

 クラスメイトが新たな虐めの手段として、私の住所や個人情報をテレビ局に送ったとか?

 まさか、両親が苦肉の策で考えた荒治療? 両親の常識と良識を疑うレベルの酷さだ。


「何を言っているのか、分からない……と言う顔ですね。簡単に言えば、我々の行った調査の結果、貴方には戦う為の潜在能力があると判明しました」

「……ッ」

「拒否権はありません。我々と本部まで同行してもらいます。抵抗も無意味です」


 これは……誘拐だ。もしくは、拉致だ。

 こんなことが、この日本で許されて良いはずがない。


「……な、りょ」

「ああ、両親の承諾もなしに同行しろ。なんて誘拐か、拉致ではないか? と言いたいのでしょう? 予めご両親には許可を取っています」

「……え?」


 私の心を見透かす橘の冷たい視線。

 それよりこの人は、今なんと言った? 薄っすらと明けていたドアを勢い良く全開にした。

 聞き違いだと思いたかったが、さらに橘が追い討ちをかける。


「お二人とも快く了承してくれましたよ。この通り、証書もあります」


 渋川の判子と父親の名前。

 偽装ではないかと突き出された証書を目を見開いて何度も確認した。

 何度見ても、癖の強い父親の筆跡で間違いなかった。

 全身の力が一気に抜けて、玄関にへたり込んだ。

 私は両親に見放された。つまり、捨てられたのだ。

 ならば、どうして朝食のメモで体調の良し悪しなんて聞いたのか?

 謎の企業だか、団体だか、組織だかに引き渡す娘への良心の呵責だったのか? 

 2人にとって、私は「産んだだけ」の子供で、お荷物だったのか。

 いや、それについては幼い頃から薄々感じてはいたが……。

 


 絶望で目の前が真っ暗になる。

 橘の指示で、背後に待機していた男達が近づいてくる。

 立ち上がる気力も抵抗する度胸もなかった。

 ただ、これから自分は何処へ連れて行かれるのだろう? 

 どうなってしまうのだろう?

 そればかりが脳裏をチラついた。



 この時の私は、重大なことを見落としていた。

 私の喉は、音を発することを完全に忘れてしまった。

 皮肉なことに、私がこの重大な事実に気づくのはもう少し先になる。

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