心霊実況警察

つばきとよたろう

第1話 包丁

 幽霊にも休む暇があるのだろうか。当然ながら日中よりも、深夜の方が一層活発になるはずだ。たとえそれが見間違いだったとしても、そう言った類いの通報は自ずと多く舞い込んで来た。

 深夜二時を回った頃、戸外で悲鳴を聞いたと言う、近所の住人から通報を受け、待機中の警官、小松、中原の両名がパトカーで駆け付けた。夜暗に紛れた閑静な住宅地は、この時ばかりは異様な空気に包まれていた。近くの住人だろうか、パトカーの到着を知って、パジャマ姿で驚いて外に飛び出して来た五十代くらいの女性が、こちらへ不審そうな顔を見せ、近づいて来た。――女の叫び声を聞いたとか、男女の言い争いを耳にしたとか、始終興奮気味に訴えた。しかし、警官が到着したときには、既に悲鳴も男女の姿も深い闇の中へ消えてしまったふうに、どこにも認められなかった。

 なだらかな丘に位置するその住宅地は、無数に枝分かれした小道に沿って、たくさんの家屋と森林とが複雑にひしめき合い、夜の闇の所為もあってか、まるで一度足を踏み入れたなら二度と帰ることのできない真夜中の迷宮のようだった。こんな時間帯にも拘わらず、どの家も煌々と明かりを点し、近隣の住民は皆恐ろしい悲鳴に目を覚まさせられ、眠れないでいるのだろう。電灯を点している家々を一軒一軒、回ってみる。変わった出来事は起きていないか。不審な人声や物音、人物を目撃しなかったか。しかし、全ての家が快く応対してくれるとは限らない。ほとんどが返事すらせずに、家の奥に閉じこもって、その玄関扉を固く閉ざしたままだった。部屋に明かりが見えるのだから、家の住人は在宅なのは間違いない。深夜の訪問者を警戒してのことか、あるいは何か恐ろしい出来事に遭遇し、事件とは関わりを持ちたくないと言っているのかも知れなかった。

 小松、中原両巡査の顔にも、次第に焦りの色が濃くなっていた。ここまで来て、今のところ何の手掛かりも見いだせていない。悲鳴の正体も、男女の行方も全く掴めないまま、闇雲に歩き回っていては、無駄に時間だけを浪費してしまう。唯でさえ、目撃証言の乏しい夜分遅い時間帯に、通報を受けてからかなりの時間が経過している。深夜の捜索は、既に難航の兆しを見せていた。――狭く入り組んだ路地のような所へ出て、道なりに深緑の生け垣や、苔のむしたようなブロック塀を横目にしながら、しばらく徒歩で捜索を続ける。外灯のまるで存在しない、懐中電灯の眩い白色光だけを頼りにして、真っ暗な小路を進むと、突然とコンクリート製の階段が現れた。その急勾配の階段状の小道をゆっくりと上がって行くと、石垣の上から頻りに犬の吠え立てるのが、それとは対照的な寒々とした夜空に、うるさいほど響いていた。

 暗がりの階段は、どこまでも上がって行くようだった。眩い懐中電灯の明かりに、コンクリートの階段とその道沿いの樹木が白く光って、真夜中のスクリーンへ奇妙に浮かんで映った。迂闊にそこへ足を踏み入れてしまったなら、たちまち奈落の底へ引きずり込まれる気さえした。そこに、現実とは懸け離れた世界が広がっているふうに見えた。

 その時だ。中原巡査が、女の声を聞いたと言った。随分と遠くの方からで、この闇の中では、はっきりとした確証は得られない。確かにその不審な声は、階段を上がった先の真っ暗闇からだった。二人の間に、徒ならぬ緊張が走った。

「こっち? 上の方からだった?」

 中原は上方を指差し、手だけで小松巡査に答えた。その間も、再び同じ声がしたときに備え、聞き漏らさないようにと耳を澄ませ、声一つ立てないでいたのだ。

「あっ、こっちの方ね」

 彼らは慎重に確かめ合いながら、できるだけ先を急いだ。これは普通の事件では無い。いつもとは、どこかが違っていた。小松は、そう感じていた。彼の長年の経験が、直感的にそう感じ取ったのかも知れなかった。

 ちょうど階段を上り切った所で、何かを見つけた。白地に花柄のパジャマ姿の女が、物陰からこちらを窺っている。しかし、どうも様子がおかしい。両巡査が話し掛けようと近づくや否や、一瞬で姿を消した。信じられない速さに、目を疑った。中原が慌てて走りだした。それを追い掛ける格好で、小松も息を切らせた。

 間も無くして、小松の視界から中原の後ろ姿が消えた。前方の闇を、がむしゃらに突き進むような乾いた力強い足音が響いてくる。まださほど離されていないようだ。足音を頼りに、小松は暗い中を急いだ。真夜中の追跡劇は、想像以上に困難を要した。

 中原がどれほど急いでも、全く女との距離が縮まらない。こちらが遅いのか、それとも女の方が速すぎるのか。まるで野生の獣を追っているようだった。その上、暗い夜道は走りにくく、ときどき粗野な地面に足を取られそうになった。それでも、中原は懸命に走り続けた。

 若く体力のある新人の中原に比べると、ベテランで五十代の小松に取っては、この追跡劇は少々骨身に染みる。はあはあ言って、苦悶の表情を浮かべながら、何とか走り続けているが、今にも足がもつれ、その場に倒れ込んでしまいそうだった。どこまで追い掛ければいいのだろう。既に地図の上では、どの辺りに位置しているのか確認できなくなっていた。このままでは、かえって危険に曝される恐れがある。狭く暗い小路のちょうど三つ叉の角を曲がった辺りで、二人はようやく足を止めた。

「どっち行った? こっち? どっち……」

「えっ、分からない!」

 どうやら女を見失ったようだ。中原巡査は、しばらく地面にへたれ込んで、荒い呼吸を整え、苦笑いを見せた。現職の警官が全力で走っても、まるで追い付けなかった。こちらはこの辺りに不慣れだとして、向こうは確かに土地勘がある。それでも、この闇である。全く明かりを点さずに、あれほど俊敏に闇の中を迷わず、走り続けられるものだろうか。

「えっ、刃物持っていた?」

 遅れてどうにかやって来た小松巡査が鋭い眼差しを向け、中原に確認した。中原は苦しいながらも、目だけで頷いた。女はこんな夜分に、何の目的で刃物を手にしていたのだろう。それを持ち歩く適当な理由は見当たらない。両巡査は一度、パトカーを止めておいた場所まで引き返し、本部の指示を仰ぐことにした。どちらにしても我々だけで、これ以上捜索を続けるのは困難だった。すぐ側には、一際闇の濃くなった険しい森林が迫っていたのだった。

 やっとの思いで、パトカーまで戻って来たときだ。さっきの女だ。思わず二人は駆け寄った。近くに来てみれば、ここに到着して最初にパジャマ姿で現れた、五十代くらいの女性だと分かった。先ほどとは、まるで別人だった。目付きが違っている。手には、やはり包丁を握っている。刃渡り十五センチ以上はあるものだ。始終うつむき加減で、こちらと全く目を合わせようとしない。むしろどちらかと言えば、こちらの視線を避けて顔を背け、それが窪地を探って蛇行を繰り返す、雨水に似て捕らえどころが無い。絶えずゆらゆらと動き回るように見えた。

 取り分け暴れる素振りも見せず、すんなり包丁を取り上げることができた。しかし、女はこちらの問い掛けに対し、全く要領を得ず、同じ言葉を繰り返すばかりであった。

「シラナイ、シラナイ、シラナイ」

 女は酩酊している訳では無いが、ろれつが全く回らない。顔色が妙に白々として、それが化粧なのか、素肌なのかはっきりとしなかった。当然ながら、身元を確かめることはできなかった。幸い近所の人の話では、この近くで家族と一緒に暮らす女性だと分かった。連絡先を聞いて、家族に電話をしてみるも、まるで連絡が取れない。近所の人は、女をたまに見掛けるものの、彼女の家族はしばらく目にしていないと言う。それで、ひとまず女の保護を決めた。

 パトカーに乗せようとしたとき、一度物凄い力で抵抗し、恐ろしいわめき声を立てた。二人がかりで何とか取り押さえると、女はたちまち大人しくなった。後は後部座席で、まるで気の抜けたふうに、どこを見詰めているのか分からない様子で座ると、身動き一つしなかった。――女が手にしていたのは、わずか百円で買えるような安物の包丁であった。それでも、人に向けて振りかざせば、その生命をも奪いかねない。女はその包丁をなぜ持ち歩いていたのか。どこで手に入れたのか。彼女自身で買い求めたのか。依然分かっていない。

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