一人称は主人公視点と言うけれど

『一人称の範囲とは?』という事を考え続けた時期がありまして。実は未だに納得のいく答えに到達していません。


 一人称での地の文というのは、「わたしはなんたらかんたら~」と、視点人物の語りという体裁で書かれていますよね。アレの基準はどうなっているんだろう、と気になって仕方なくなった時期がありました。今は落ち着いてますが。


 一人称は主人公の視点から語られる物語だ、と簡単に言ってしまいますが、それが実際にはどういう縛りになるのか、厳密なトコは割とどの指南書にも書かれていません。これが気になって気になって。


 視点をカメラだと捉えるならば「主人公の目に映る限りのものは何をどう描写しても構わない」という事になると思います。けれど、本当にそうなんでしょうか。


●視点主から見えるものは何でも描いていい、

●視点主が意識しているものなら何でも描いていい、


 大きな違いがありますよね。


 視点から見えるモノというのが、視点主の主観で左右されるとなれば話が変わります。主人公の「脳みそ」を通して言葉を選択しなければならないのだとしたら?


 そもそも視点から見えるものを全て逐一描き出すわけにはいきません。一挙手一投足を余さず書くことなどしないはずです。その場面場面で必要な絵だけを切り取って文章にしているわけで、例えば朝のシーンでは、目を覚まして着替えて階段を下りて食堂まで歩き、といった事柄を描写したりはしないわけです。いきなり食事のシーンから始めたりして、さらに、いちいち食堂の様子をつぶさに書いたりはしませんよね。


 では、描く事柄と省く事柄との選択は『誰が』決めているのでしょうか。一人称は視点が固定されることから一人称と言われるわけで、この誰かは当然、視点主であるはずでしょう。つまり、視点主の脳みそが判断するはずなのです。


 視点がカメラではない場合、たとえ視点主の視界に映っているものであっても、なんでも書いていい事にはならないですよね。いわゆる『見知った天井』というものは、一人称では


 脳みそが判断して、意識に上せたものだけを描き出すのが一人称という事になるわけですから、朝のシーンで目覚めて着替えて階段を下りてを省く理由にはなります。しかし同時に、なんてことはない天気をいちいち注視するのもおかしい、という事態が起きます。


 通い慣れたはずの学校やご近所や自宅を丁寧に思考するのはおかしい。見慣れたはずの我がの顔や、プロフィールを逐一思い返すのもおかしい。


 鈍感とされてる視点主がヒロインの微妙な表情の変化に気づいたり、頭が悪いとされてる視点主が難しい社会情勢を解析してのけるのは、やっぱりおかしい。


 それを書くと、視点主は誰かに語りかけている事になり、話して聞かせている相手が想定されてしまうわけです。そうすると、一人称は視点主の独白だという事が言えなくなります。


 三人称一視点と同じという事になります。誰かに話しているという時点で、視点であるからです。


 三人称一視点と区分されている以上やはり両者は違うはずですから、つまり、厳密には一人称では視点主の脳みそを通して物事は語られねばならない、という縛りになると思うのです。


 鈍感な視点は作品世界の多くの違和感や些細な変化を見落とすでしょうし、馬鹿な視点は作品世界のほとんどの謎を解明できない。


 まぁ、そこまで徹底して書いてある作品はプロでも少ないと感じますんで、あまり気に病むことでもないのかも知れません。



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