第八章 枝葉と新芽
第519話 枝葉と新芽①
ザーラレット=レガシィ。
十二歳だった頃、彼女は戦争孤児だった。
戦争に負けた国の小さな街。復興もロクにされなかった廃墟のような街の一角を根城にして生き抜く子供だった。
あの日。そんな街にその男はやって来た。
黒いスーツに灰色のコート。口には安物の煙草。
年齢は四十代半ばか。灰色の髪に、頬まで覆う顎髭。精悍な顔立ちの男だった。
灰色の男は散策でもするように――いや、実際に散策していたのかもしれない—―廃墟の街を一人で歩いていた。
ザーラたちは徒党を組んでいた。
上は十五。下は八歳からの子供だけの徒党だ。
大人は卑劣だ。自分たちから何もかも奪っていく。
だから、子供だけで徒党を組んだ。
ザーラたちは無力で慈悲を請う哀れな子供を演じて男の前に立った。
囮役。十二歳以下の年少組の役目だ。
そうして、背後から武器を持って年長組が襲い掛かった。
しかし、
『くだらんな』
男は恐ろしい存在だった。
瞬く間に年長組を叩き伏せる。子供であっても一切の容赦もなく、倒れたところに腕を踏み砕かれた者もいた。絶叫と悲鳴が廃墟に響く。
『牙を剥くのならば、ガキだろうが容赦はせんぞ』
紫煙を吐きつつ、そう告げる。
ザーラの仲間は逃げ出した。
けれど、ザーラだけはそこに残った。
双眸に涙を滲ませて男を睨む。
――悔しかった。
ここまで踏みにじられた人生を、さらに踏みにじる男が憎かった。
だから彼女は跳びかかった。
完全な特攻だ。灰色の男も少し驚くほどに無防備に跳んだ。
ガリガリの腕で男にしがみつき、そして歯を肩に突き立ててやった。
そのまま食い千切ってやりたかったが、コートを噛むだけで精一杯だった。
『面白い小僧だな』
灰色の男はくつくつと笑った。
『「牙を剥く」とは言ったが、本当に噛みつかれるとは思わなかったぞ』
そう言って、男はポンと彼女の頭を叩いた。
『よい覇気だ。思いの外、面白い芽を見つけたかも知れん。気に入ったぞ。たまに散策に興じるのも良いものだな』
そうして、首筋に軽い衝撃を感じて、ザーラは意識を失った。
次に目を覚ました時、ザーラは水の中にいた。
パニックを起こして水面から顔を出すと、そこは浴場だった。
目の前には灰色の男がいた。
『小僧。歳は幾つだ?』
そう尋ねる男に、ザーラは警戒しつつも『……十二』と答えた。
『そうか』男は双眸を細めた。『この国でも十六で成人らしいな。ならば十六までは服も飯もくれてやる。金もだ。近くには街もある。この屋敷も好きに使え』
『……どういうこと?』
『お前に興味が出た。ここで牙を磨け。お前の才がどう萌芽するのか。たまには俺自身が水遣りに興じるのも悪くない』
灰色の男はそう言った。
そうして、ザーラと男との奇妙な生活が始まった。
男は週に一、二度この屋敷に来た。時折、数日いることもあった。
時折、黒いスーツの人物も数人訪れた。どうやらあの男の部下のようだった。
あの男の正体は分からない。それは今でもだ。
ザーラはその屋敷で男から座学や体術、鎧機兵の扱いを習うことになった。
森の中にあるこの屋敷にいるのはザーラ一人だけだった。男の言う通り、近くには街もあった。逃げようと思えばいつでも逃げられた。
けれど、ザーラは逃げなかった。
生きるための術を磨くのにここ以上の環境はないからだ。
ザーラは男の名を知らなかった。なので男を
ザーラは順調に成長していった。
そして十六歳の日を迎えた。
『さて。ザーラ』
屋敷の一室。ソファーに腰を掛けて男は問うた。
『お前はいかなる萌芽を見せる? この屋敷を出て世界を見て回るのもいいかもな。それとも俺の部下にでもなるか?』
皮肉気な笑みを見せる男。
対するザーラは腰に片手を当てて不敵な笑みを見せた。
その問いかけには、ザーラはずっと前から回答を決めていた。
『あたしはこの屋敷を出るよ。世界を見て回るんだ。ただし、あんたの部下としてだ。そんでさ――』
ザーラは男の膝の上に乗って、首筋に両手を絡めた。
そして微かに頬を朱に染めて、
『これが一番の願い。あんたの女にして。ダメ?』
『……俺は外道だぞ?』
『何言ってんの。そんなの知ってるさね』
ザーラはニカっと笑った。
男は嘆息した。そしてザーラのうなじに片手を当てた。
『やれやれ。そういったことは教えてなかったのだがな』
『……うん。だから一から全部教えて……』
そうして二人は体を重ねた。
その夜。ザーラは初めて彼の名前を知った。
しかし、男は意外と過保護だった。ザーラの今の実力では部下としてはまだ早いということで、さらに二年間の訓練の延長を命じたのだ。
ザーラは不満だったが、これも愛しい男との未来のためと真面目に取り組んだ。
訓練は今まで以上に厳しかったが、代わりに夜は存分に甘えた。
ただ、情事の際、男は必ずザーラにある薬を飲ませていた。
あまり見たことのない薬だったが、恐らくは避妊薬だとザーラは思っていた。
密かな想いとして、ザーラは彼との子供が欲しいと考えていた。
だからこそ、ある日、彼に黙ってその薬を服用しなかった。
そうしてその夜。
その運命の夜に、何があったのかはザーラには分からない。
その夜の記憶だけ一切ないのだ。
翌朝。目覚めたザーラはかつて感じたことがないほどに不調だった。指先は酷く震えて歩くだけで吐き気や眩暈がするぐらいだ。
何度も床に倒れてしまった。しかし、屋敷の中を探しても彼の姿はなく、机の上に処方された大量の錠剤、山積みされた
『一ヶ月間、朝夕に二錠ずつ錠剤を服用しろ。必ずだ。その後は自由だ。どこに行って構わん。金も好きに使え』
手紙にはそう書かれていた。
ザーラは言いつけ通り錠剤を服用した。
すると、徐々にだが、体調が復調していった。
そうして一ヶ月経ったが、男が屋敷に戻って来ることはなかった。
さらに二年近くも待ち続けてもだ。
ザーラは思った。
自分は捨てられたのだと。
彼に認められる水準の力量にまで届かないと判断されたのだ。
自分が弱かったから捨てられたのである。
そのことに恨みもない。憎しみもない。
そもそも、彼に拾ってもらわなければとうに死んでいた人生だ。
今も彼には恩しか感じていなかった。
――ただ、逢いたかった。
捨てられたとしても、また逢いたかった。
だから、ザーラは強くなると決めた。
さらに体を鍛える。技を磨く。
自分の力だけで足りないのなら強力な自分の兵団も創る。
そうして強くなった時。
彼ともう一度、逢えると信じていた。
(……だから)
ギリと歯を軋ませる。
全身に力を。
拳は鋼のごとく。
心は獅子のように。
ザーラは獰猛に笑った。
「あたしは負けられねえんだよ!」
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