第442話 魔王降臨⑨
「…………」
その光景に彼女は言葉を失っていた。
目を大きく見開き、空を見上げる。
そこには、光の騎士を両断した真紅の魔竜の姿があった。
まさしく伝説にある《悪竜》の姿そのものだ。
彼女――ホランはその姿に魅入っていた。
彼女が罵声を浴びせた神の使い。
それを瞬く間に打ち倒してしまった。
女神の信徒である彼女としては憤るべきだろう。
けれど、彼女にはその感情が湧かなかった。
――いや、それどころか。
(……嗚呼)
ボロボロと涙が零れ落ちる。
怒りや哀しみではない。
それは歓喜に近い感情だった。
ホランは肩にかけたシーツを強く掴み、崩れ落ちるように両膝をついた。
涙が止まらなかった。
その瞳で、光の十翼を持つ真紅の魔竜を見つめる。
(なんという存在だ……)
奇跡さえもねじ伏せる存在。
あまりにも理不尽で巨大なモノ。
それに比べて自分はなんと矮小なことか。
(……私は)
グッと唇を噛む。
と、その時、
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!
真紅の魔竜が勝利の咆哮を上げた。
ホランはハッとして顔を上げた。
その声は、彼女の全身を打ち付けるようだった。
瞬間、彼女は悟った。
この大いなる存在を前にして自分が何を願っているかを。
(……そうか。私は……)
そうして彼女は知らずの内に祈りの姿勢を取っていた。
自分はすでに穢れ切っている。
純潔の乙女ではない。
けれど、
「……嗚呼。《悪竜》さま……」
彼女は心から願った。
「どうか私を御身の贄に。卑しき私のすべてをどうか喰らい尽くしてください。この私をどうか御身の牙で殺してください」
その祈りは、風と共に森の中へと消えた。
◆
「…………」
片膝をつき、エルは無言で彼の首筋に手を当てた。
地面に横たわる相手はガンダルフだ。
かなり弱っているが脈はある。
こうして触れても司教に反応はない。気絶しているようだ。
(……ガンダルフ司教)
エルは眉をひそめた。
黄金の髪は元の色に戻っている。
だが、容姿は一気に老化したかのようだった。
もはや八十代の老人にも見えるほどだ。
(一体、何があったんだ?)
疑問は残るが、とりあえず一命は取り留めたようだ。
ホッと安堵する。と、
「どう? エル?」
後ろに立つコウタがそう尋ねてくる。
彼のさらの後ろには両膝をつく《ディノス》の姿もあった。
決着がついた後、彼らはガンダルフの容態を確認するために降りたのだ。
「大丈夫だ。コウタ」
エルは振り向いて微笑んだ。
「ありがとう。司教を助けてくれて」
「気にしないで。けど、本当に良かったよ」
コウタは後ろに目をやった。
「その人の力の核だけを斬り裂く。今なら多分できるとは思ってたけど、失敗しなくてホッとしているよ」
「すまない。我儘を言った」
エルは司教を見つめて呟く。
「けど、司教にはどうしても死んで欲しくなかったんだ」
「分かっているよ。エル」
コウタは微笑む。
「もう付き合いも長いしね。エルが優しい子だってことはよく知っているよ」
「ありがとう。コウタ」
エルは立ち上がってコウタと向き合った。
それから、彼女は周囲の森や夜空を見やり、
「……戻ってきたんだな。私たちは」
「……うん」
コウタも空を見上げた。
「ここはボクらの故郷だ」
確信をもってそう告げる。
二人は沈黙した。互いに抱くのは郷愁だ。
その感情でしばし心を満たした。
が、ややあって、
「……ふふ」
エルが笑みを零した。
「こうして帰還が叶うと、少し惜しかったな」
「え? 何が?」
コウタはキョトンとした。
するとエルは、
「どうせならもう少しコウタと二人きりで過ごすのも悪くなかった。というより」
そこでムスッとした表情を見せた。
「一回ぐらい失敗しても良かったのに。エッチしてから帰還でも良かったのに」
「……いや。あのね、エル」
と、コウタが頬を強張らせた時だった。
「――コウタあッ!」
唐突に。
その声は背後から響いた。
コウタは電撃に撃たれたように硬直した。
それは幾度となく聞きたいと願った声だった。
コウタは目を見開いて後ろに振り返った。
そこには、
「コウタぁ……」
涙目のメルティアがいた。
着装型鎧機兵も着ていない。素のままの彼女だ。
急いで走って来たのか、少しばかり服が汚れているように見える。
(……メル……)
コウタの胸に先程の郷愁さえも比較にならない想いが溢れ出て来た。
変わっていない。
二年離れても全く変わっていない幼馴染の姿がそこにあった。
彼女の金色の瞳は涙で潤んでいた。
その眼差しに胸が強く締め付けられる。
――抱きしめたい!
衝動を抑えきれずコウタが飛び出そうとした――が、
「……ああ。お前がメルティア=アシュレイなんだな」
その前にエルが動き出していた。
面識もない人間に名を呼ばれて「え?」と目を瞬かせるメルティアを前にして、いきなりコウタの首に抱きついて来たのだ。
「エ、エル!?」
狼狽するコウタ。
「コウタ!」「コウタさまっ!」
メルティアに遅れてリノとリーゼが到着したのはその時だった。
(リノ! リーゼ!)
彼女たちの姿にも圧倒的な愛しさが込み上げてくるが、コウタは今、半ばエルに羽交い絞めされていた。主にその大きな胸でだ。
柔らかな弾力で無理やり顔を抑えつけられているのである。
(しゃ、しゃべれない!?)
どうやら意図的にエルがコウタの口を封じているようだ。
そんな中、少女たちは対峙する。
エルはリノとリーゼにも目をやった。
「リノ=エヴァンシード。リーゼ=レイハートだな」
「……何じゃ? お主は?」
リノが語気を強めにそう尋ねる。と、
「ああ。名乗って無かったな。すまない。初めまして。私の名はエル=
この時のために得ておいた名前を告げて、エルは不敵に笑ってこう続けた。
「コウタの妻だ。以後よろしく頼む」
「「「……………は?」」」
メルティアたちが目を丸くする。
対して、コウタの顔色は蒼くなっていた。
かくして遥か遠い地に出張中の一名を除き、この森にて《悪竜》の花嫁たちが揃ったことになるのだが、それに気付く者は誰もいなかった。
まあ、当の《悪竜》の少年がこの修羅場の前にして完全に凍りついてしまっているので仕方がないと言えば仕方がないのだが。
「……コウタ。これはどういうことですか?」
底冷えするような声で尋ねてくるメルティア。
声には出さないが、冷淡な眼差しを向けてくるリノとリーゼ。
エルは、ニコニコ笑ってコウタを抱きしめていた。
離してくれるような様子はない。
世界さえも斬り裂いた少年の胃がキリキリと痛んだ。
しかし、《悪竜》の花嫁たちは容赦などしてくれないようだ。
「……コウタ」「……コウタさま」「……コウタよ」
三人がコウタの名を呼ぶ。
ますますもってコウタは青ざめていった。
少女たちは近づいてくる。
彼女たちの目は一切笑っていなかった。
「~~~~ッッ!」
コウタは未だしゃべることも出来ない。
果たして。
少年の運命はいかに――。
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