第438話 魔王降臨➄
その日の夜。
夕食後、コウタはエルを自室に呼んだ。
黒剣を床に置き、正座をする。
エルも、コウタの正面にて正座している。
向かい合って、すでに三分ほどが経っていた。
エルは無言でコウタを見つめていた。
「……エル」
ようやくコウタは口を開いた。
「明日の朝。ボクらはこの世界から脱出する」
「……そうか」
エルは目を細めた。
「いよいよ準備が出来たんだな」
「うん」
コウタは頷く。
「ごめん。凄く待たせちゃった」
「それは構わない。けれど……」
エルは遠い目をした。
「ここに来て二年と二十五日か。本当に色々あったな」
「……うん。そうだね」
毎日の剣の修行のみならず。
エルは生まれて初めて料理にチャレンジした。
今や結構な腕前になっている。
日々、腕を磨きつつ。
春には花見を。
夏には湖で涼を取り。
秋には森の恵みを収穫し。
冬には雪景色を楽しんだ。
この世界で過ごした二人だけの時間だった。
「私にとっては掛け替えのない思い出だ。本当に楽しかった。だけど!」
そこでエルは片手を胸元に当てて、ジト目を見せた。
「一つだけ不満がある。大いなる不満だ。二年だ。二年だぞ!」
エルは、ぶすっと頬を膨らませた。
「お前はどうして一向に私に手を出さない!」
「え、えっと……」
コウタは頬を引きつらせた。
「流石にこの事態は想定していなかったぞ!」
エルはかなりご立腹だった。
――そう。二年だ。
二年もの月日を二人きりで暮らしておきながら。明確な愛情も常に見せて来たのに、結局、彼は一度たりとも、彼女に手を出さなかったのだ。
「キスさえもしてくれない! なんでだッ! ううゥ……」
じんわりと涙まで滲んでくる。
あまり考えたくないことだったが、やはり……。
「ここまで手を出されないなんて……私には魅力はないのか? それとも、コウタの好みじゃないのか?」
「そ、それは違うよ!」
コウタは慌てて否定した。
「エルは凄く魅力的だよ! その……」
コウタは困り果てた顔で頭を掻いた。
「ボクの好みかどうかって話なら……間違いなく好みだ」
「ならなんでっ!」
バンッと床を叩くエル。
すると、コウタは悩みつつも、ポツポツと想いを語り出した。
「ボクは君を大切に思ってる。凄く大切なんだ。この世界に閉じ込められても君がいたからボクは頑張れた。君はボクの救いだ。心の支えなんだ」
「…………」
少し頬を赤くしつつ、エルは耳を傾ける。
「君を離したくない。力一杯抱きしめたいという願望はボクの中に確実にあるよ。君への想いは流石にもう自覚している。けれど……」
そこで言葉を詰まらせる。
「もしかして……」
代わりにエルが口を開いた。
「コウタが私に手を出さないのは、元の世界で待っている女たちのことがあるからか? 『メルティア=アシュレイ』、『リノ=エヴァンシード』、『アヤメ=シキモリ』、『リーゼ=レイハート』……」
次々と挙がる女性の名に、コウタは「……う」と呻いた。
エルは「やれやれ」と嘆息した。
「それと『ジェシカ』に『アイリ=ラストン』だったな……」
「いや待って。アイリだけは妹みたいなものだよ?」
と、そこだけは否定を入れるコウタ。
しかし、逆に言えば、アイリ以外は肯定したということだった。
二年も考える時間があれば自分の気持ちも自覚するコウタだった。
メルティア。そしてリノとアヤメも。
ここに来る前から想いを自覚していた少女たちは無論のこと。
リーゼとジェシカ、アイリにも。
彼女たちにも、逢いたくて逢いたくて仕方がないのだ。
この想いは多分メルティアたちにも劣らない。
これが恋慕でないと言うには無理があった。
まあ、アイリに対してだけは流石に兄妹の情ではあるが。
「私に手を出さないのは、彼女たちに対して不義理だと思っているからか?」
腕を組んでエルは尋ねる。
すると、コウタは「それもあるけど……」と切り出して、
「それ以上に君もメルたちと同じぐらい大切だからだよ。こんな世界で……」
双眸を細める。
「逃げ場のないこんな世界で……しかも最初にしたのは決闘なんだよ。それって言ってみればボクは力尽くで君に言うことを聞かせたのと同じことだと思うんだ。だとしたら、君が抱くボクへの好意って……」
「……それはあれか?」
エルは眉根を寄せた。
「被害者が犯罪者に好意を抱くという……」
そこまで呟いて、彼女は呆れたような表情を見せた。
「そんなはずがないだろう。そもそもコウタは私をここに攫った犯罪者でもないし、何より決闘を言い出したのは私の方だぞ」
「そうだとしてもだよ」
コウタは、エルを見つめて言う。
「この状況で君を抱くのは卑怯だ。ボクはそう思っている」
「……コウタ」
エルもまたコウタを見つめた。
「要するに、外にいる彼女たちへの不義理と、この閉じこめられた世界で私を抱くのは卑怯だと思っているから、私に手を出さなかったのか?」
「……身も蓋もない言い方をすると、うん、そう……」
コウタは躊躇いつつも頷いた。
一方、エルは嘆息する。
「一応納得はした。けれど、もう一つ確認しておくぞ」
言って、身を乗り出した。
床に両手を突き、豊かな胸元を強調しつつ、コウタの顔を覗き込む。
「コウタは私のことが好きか?」
「う、うん。好きだよ」
コウタは視線を逸らしつつ、頷いた。
「コウタは、私にエッチなことをしたいと思っているか?」
「そ、それは……」
直球すぎる問いに、コウタは顔を赤くするが、
「ボ、ボクも男だから……」
ここで否定するのはそれこそ不義理に感じて正直に伝えた。
エルは「よしよし」と満足げに頷き、姿勢を元に戻した。
「いいだろう。けど、それなら二つだけお願いがあるんだ」
「……お願い?」
コウタが眉根を寄せると、エルは人差し指を立てた。
「明日に向けてのお願いだ。一つは成功した時のこと。無事帰還できたとしても、私はこれからも『エル』として生きるつもりだ」
「……エル。それは……」
心配そうな表情を見せるコウタに、エルはかぶりを振った。
「私が決めたことだ。私の覚悟だから。ただ……」
エルはコウタに願う。
「コウタの傍にずっといたい。その気持ちだけは変わらない。だからお願いだ。私にコウタの名前をくれないか」
「ボクの名前……?」
訝し気に眉をひそめるコウタ。エルは「うむ」と頷いた。
「家名が欲しいのだ。コウタの家名が」
「……いや。それって事実上の結婚……」
そう呟くコウタに、エルは再び前屈みになって、
「……ダメか?」
と、哀し気な眼差しで問う。
この二年間で、コウタは彼女のこの眼差しにとても弱くなっていた。
「……うゥ、仕方がないなあ……」
コウタは受け入れた。
「家名がないと困るだろうし。分かったよ。今日から君は『エル=ヒラサカ』だ」
「うん!」
エルは満面の笑みを見せた。
「私の名はエル=ヒラサカだ! それともう一つ!」
エルは再び人差し指を立てた。
「仮に明日、脱出に失敗した時の話だ。コウタ」
微かに頬を染めて、彼女は告げる。
「外の彼女たちへの不義理も。私への負い目や気遣いももう不要だ。コウタ。もしもだ。もしも明日、脱出に失敗したら、その時こそ私を抱け」
「………………え?」
「明日は私を一日中抱け。それこそ朝から晩までだ。何もかも忘れるぐらいに二人で思いっきり、いっぱいエッチするぞ。コウタがずっと我慢してきた想いを全部私の中に吐き出してもいいから」
「………な」
コウタは顔を真っ赤にした。
「なに言ってるのっ!? エルっ!?」
「……明日、もし失敗したら……」
エルは神妙な顔で言う。
「きっとコウタはショックを受けるだろう? 今までの努力が届かなかったのだから気力だって確実に落ちる。だから」
大きく息を吐いて。
「これからも一緒に生きるため。次の日からまた頑張るために契るのだ」
エルは微笑んで告げた。
「私はすべての意味でコウタの救いになりたい。名実ともに本当の支えになるから」
「……エル」
未だ顔が赤かったが、コウタは彼女の覚悟には圧倒されていた。
コウタは心底悩みつつも、
「……うん。分かったよ」
彼女の意志と覚悟を受け入れた。
「けど、それは失敗した時だからね。ボクは確信している。この剣は」
床に置いた黒剣の柄に触れる。
「きっと、ボクたちをここから救い出してくれる」
「うん」エルは頷いた。
「分かっている。でもまあ、その時は元の世界で一日中エッチするから」
「それは約束と違うよっ!?」
思わずコウタはツッコんだ。
エルは「あはは!」と笑った。
そうして、彼らはその世界での最後の夜を過ごした。
――翌朝。
「よいしょ」
エルは《ザフィーリスⅡ》を使って、木箱をコンテナの中に積み込んだ。
幼児が丸まったぐらいのサイズのこれは、初代 《ザフィーリス》の《星導石》を詰め込んだ木箱だった。
今日でこの城ともお別れだ。
だからこそ、必要なモノだけを積み込んでいるのだ。
エルの姿もここに来た時の騎士服だ。しかし甲冑は外している。操縦席ではあの鎧はかさ張るため――というより、あれで二人乗りするとコウタが痛がる――コンテナの隅に固定して置かれていた。他にも想定外が起きた時のための二ヶ月分ほどの二人の食料。幾つかの衣類。彼女のお気に入りであるエルサガの民族衣装も納めている。
『用意は出来た?』
ズシン、ズシンと。
重い足音が響く。振り向くと、そこには一機の鎧機兵がいた。
コウタの愛機・《ディノス》だ。
その手には、黄金の炎の紋を刻まれた黒き大剣が握られていた。
「ああ。丁度いま終わった」
言って、《ザフィーリスⅡ》はコンテナの蓋を閉じた。
エルは、ポンと《ザフィーリスⅡ》の操縦シートを叩いた。
いざ別れとなると、この不出来な機体も愛しくなってくる。
しかし、流石に鎧機兵一機を持ってはいけない。
『エル』
コウタが彼女の名を呼び、《ディノス》が胸部装甲を開いた。
コウタが身を乗り出して、手を差し伸べてくる。
エルはその手を取り、《ザフィーリスⅡ》の操縦席から彼の元へと移動した。
その勢いで、コウタに正面から抱き着く。
「コウタ」
コウタの背中にしがみつき、エルは告げる。
「必ず帰ろう。二人で」
「うん。エル」
コウタも、彼女を強く抱きしめた。
「二人で。必ずステラクラウンへ」
そうして二人は《ディノス》の操縦シートに座った。
エルは背後に向くと、壁の中から金色のティアラを取り出した。
彼女はそれを自分の額に装着する。その様子を、絶対に持ち帰らなければならない機体であるサザンXが、沈黙を以て見守っていた。
「準備は完了だ。コウタ」
「うん。分かった」
コウタは頷くと、コンテナを《ディノス》に担がせた。
「じゃあお願いするよ。エル」
「うん。任せろ」
エルは満面の笑みで応えた。
途端、《ディノス》が黄金の光に包まれた。
――光の《
これこそが、エルが乗った時の特性だった。
そして、その能力とは――。
刀剣のごとき、黄金の光翼が十枚広がった。
ゆっくりと《ディノ=バロウス》の巨躯が浮かび上がる。
「行こう! エル!」
「うん! コウタ!」
一気に飛翔する。
そして大空にて《ディノ=バロウス》が、黒剣を振り上げた。
その切っ先は『世界』という概念に向く。
かくして剣は振り下ろされた。
果たして、二人の異邦人たちの行方は――。
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