第387話 吠える猫③

 ぶるっ、と。

 その時、コウタは身震いした。

 どうしてか、奇妙な悪寒が奔ったのだ。

 悪意とかではない奇妙な感覚だ。


(慣れない格好で体を冷やしたのかな?)


 そんなことを思っていると、


「御子さま。どうかされましたか?」


 不意に、声を掛けられた。

 対面に座るフウカの声だ。


「あ、いえ。何でもありません」


 慌ててコウタはそう答えた。

 コウタたちは今、元々コウタたちが寝ていた部屋にいた。

 服装はそのままに、フウカから現状を聞いていたのだ。

 ちなみにアイリとサザンX。そしてフウカの息子のタツマもこの部屋にいる。

 アイリとサザンXは、コウタの隣でタツマと遊んでいた。

 サザンXが右へ左へと腕を動かして、謎のダンスを披露している。

 それを座るアイリに抱っこされたタツマが、瞳を輝かせて動きを追っている。

 時折、小さな手を伸ばして「だあ、だあ」と声を上げた。

 何とも微笑ましい光景である。


「……ふふ」


 それを見て、フウカが口元を綻ばせる。


「タツマったら、すっかり懐いたみたいね」


「はは、そうみたいですね」


 コウタも笑みを零しつつ、フウカに目をやった。

 アヤメによく似た女性。

 ただ、彼女は実姉ではなく、義理の姉妹。血縁的には従姉妹になるそうだ。

 アヤメと同時期に両親を亡くし、それを切っ掛けに義姉妹になったという話だ。


「あの、アヤちゃ……アヤメさんはどこに?」


「アヤメなら、もうじき帰ってくるはずです。御子さま」


「いや、その」


 フウカの返答に、コウタは困った顔をした。

 アヤメがじきに帰ってくることではなく、その呼び名に困惑しているのだ。


「その、『御子さま』というのは一体……」


「それに関しては、私ではなく、アヤメに聞いた方がよろしいかと思います」


 フウカは、柔らかに微笑んで答える。


「貴方さまの望みならば、いかなることにも応えるでしょう。なにせ、あの子は、御身のためにいるのですから」


「い、いや、う~ん……」


 コウタは、腕を組んで頭を悩ませた。

 こうしてフウカと話す機会は得たが、どうにも情報が掴めない。

 とりあえず入手した情報と言えば、


 ――彼女は、アヤメの義姉妹であること。

 ――ここが、アヤメの故郷であること。

 ――この屋敷が、アヤメの実家とも言える家であること。

 ――アヤメが現在、長老衆 (村長?)に帰郷の報告に行っているということ。

 ――フウカたちには敵意はなく、むしろ歓迎されていること。


 これぐらいだろうか。

 後は、タツマが可愛いぐらいか。

 アイリにも随分と懐いて、まるで姉弟のように見える。

 タツマの柔らかなほっぺを、アイリが目を細めて、つんつんとつついている。

 メルティアやリーゼがこの光景を見れば、さぞかしほっこりするに違いない。

 そこで、改めて思う。


(……う~ん、メルとリーゼか……)


 彼女たちには、さぞかし心配をかけているに違いない。

 なにせ、事実上の誘拐なのである。

 アヤメの特異な事情を、少しは伝えているリノならば冷静だと思うが、きっとメルティアはネコ化しているかも知れない。


(ジェイクやアルフが上手く宥めてくれているといいけど……)


 友人たちに期待する。

 ともあれ、心配をさせていることは確実だった。

 出来れば、早く帰りたいところだ。


(けど、それもアヤちゃんが帰って来てからかな)


 これ以上の情報収集は無理なようだ。

 フウカの言う通り、アヤメが帰ってくるのを待つしかない。


(アヤちゃんの故郷なのは分かったけど、場所までは分からないし。出来れば皇国からそう遠くないのならいいんだけど……)


 内心で唸る。

 アヤメの使った不可解な術。人間さえも転移させる術だったということは、すでに察しているが、その効果範囲までは分からない。

 一番恐ろしいのは、ここが別大陸――例えばアロン大陸であるかもしれないことだ。

 なにせ、屋敷も服も、すべてにおいてアロン風だ。

 ここが、アロン大陸である可能性は捨てきれない。

 もしそうなると、帰るのにだれだけ時間がかかることか……。


(そんなに長くメルを放置するなんてとんでもないよ)


 コウタは、本気で困っていた。

 正直なところ、自分の現状には、そこまで不安を抱いていない。

 アヤメが、自分やアイリを傷つけないことを確信しているのを別にしても。

 自分とアイリだけならば守り通せる。《ディノス》の召喚器もある。その上、サザンXまでいるのだから、ここから脱出すること自体は、恐らく不可能ではない。

 やはり、心配なのは、帰還するまでどれぐらいかかるかだ。

 遠ければ遠いほど。

 離れている期間が長ければ長いほど、コウタの幼馴染は衰弱するに違いない。

 それが、どうしようもなく不安だった。


(そこだけは、ちゃんと、アヤちゃんをお説教しないと)


 たとえ、どんな理由があったとしても、実質的には誘拐だ。

 友人としても、騎士候補生としても、こんな暴挙を許す訳にはいかなかった。

 もしアヤメが本気で落ち込んだら、思わず許してしまいそうになるかも知れないが、ここは心を鬼にしてはっきりと告げようと、コウタは心に決めた。

 まあ、その前に、同じ術で帰還できるか聞くのが先になるかも知れないが。


(メルのことは、とりあえず、ジェイクとアルフに任せよう)


 もしかしたら、リノもフォローしてくれているかも知れない。

 落ち着けば、リーゼも頼りになるし、あの場には、メルティアと親しいアンジェリカもいた。メルティアのフォローは彼女たちにも期待できる。

 メルティアのケアに関しては、彼らを信じるしかない。


(うん。気持ちを切り替えよう)


 そう判断し、再びフウカに目をやった時だった。


「……奥さま」


 不意に襖の奥から声がした。

 この屋敷の使用人の声だった。

 コウタたちが襖の方に振り向くと、声はこう続けた。


「アヤメさまが、お戻りになられました」


「まあ、そうなの」


 フウカが言う。


「では、この部屋に?」


「はい。まずは湯浴みをされ、今は自室にてお召し替えをされておられます」


「え? アヤメが?」


 フウカが目を丸くした。それから立ち上がり、襖を開けて廊下に出て使用人――小柄なお婆さんだった――に小声で聞く。


「え? なんで? 何かあったの?」


「帰宅を急がれたため、少々汗をかかれたそうで」


「いや、汗ぐらい、あの子は全然気にしないでしょう?」


「わたくしの目から見ても、ほぼ汗はおかきにはなられていなかったと思われますが、アヤメさまは、迷わず浴場へと向かわれました……」


「え? ホント? あの不精な子が?」


 そんなやり取りをしている。


「……あの、フウカさん?」


 コウタが声を掛けると、フウカはハッと顔を上げた。


「も、申し訳ありません。御子さま」


 そう声をかけて、三つ指をつく。


「今、アヤメは、御子さまにお会いするために用意しているようです。もう少し、お待ちください」


 そう告げた。

 そうしてフウカが再び部屋に戻ってから十分後。


「……お待たせしました」


 ようやく、アヤメが現れた。


(ア、アヤメ……?)


 部屋に入って来た義妹に、フウカは目を瞬かせた。

 楚々たる仕草で歩を進めるアヤメ。

 彼女は今、見事なまでに着飾っていた。

 身に纏うのは花弁の刺繍が施された、深い紺色の着物。

 黒い髪には花の髪飾りを付け、唇にはうっすらと紅も引いている。


 あのアヤメが。

 汗を掻いたからという理由で、他の人間の目を一切気にすることもなく、肌を晒して服で扇いでいた義妹が。

 ここまで清楚な姿へと化けるとは。


 里に帰還した時、手紙から予想はしていたとはいえ、あまりにも成長したスタイルにもかなり驚いたが、これは、その時の以上の衝撃だった。

 義妹は、外見以上に、内面こそが大きく変わっていたのだ。


「うわあ、凄く綺麗だよ。アヤちゃん」


 隣でアイリが、ムッとすることにも気付かず。

 コウタは、素直な想いでそう告げた。


(うわ)


 その傍らで、フウカが息を呑む、


(御子さま。直球だわ)


 ここまで直球で褒める人も珍しい。

 どうやら、彼はとても素直な少年のようだ。

 自分の夫も、これぐらい素直な時があってもいいとも思う。

 ただ、義妹は、何と言うか、少しひねくれた性格の娘だった。

 ここまで直球で言われると、勘ぐるように不機嫌になることも多かった。

 だから、少し心配してアヤメの方を見やると、


「………………」


 彼女は、無言のまま少し俯いていた。

 そして、おもむろに顔を上げて、


(……え)


 その時、フウカは軽く目を見開いた。

 そう。長い付き合いのフウカでさえ見たことのない笑顔で。


「ありがとうなのです。コウタ君」


 彼女の義妹は、そう答えるのだった。

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