第六章 災厄の萌芽
第316話 災厄の萌芽①
とある廃館にて。
ギイイィ、と古いドアが音を立てて開いた。
続けて、暗い屋敷内に、足音が響く。
軋むような足音と、がしゅん、がしゅんという足音だ。
一人の少女と、一機のゴーレムの足音だった。
一人と一機は、長い廊下を歩く。
そうして幾つかの部屋の中を覗いてみるが、すべて無人だった。
「……ふむ」
彼女――リノは、眉をひそめた。
「やはりここも無人か」
「……ウム。ネツゲンモ、ナイ」
次いで、ゴーレム――サザンⅩが顔を上げて告げた。
「……ココニモ、レオス、イナカッタ」
「うむ、そうじゃの……」
リノは腕を組んだ。
「一通り目ぼしい場所はあたったが、どこも外れじゃったのう……」
ここ数日。
リノは市街区、廃墟地域も含めてレオスの居場所を探っていた。
しかし、結局どこも外れ。
レオスがいたという痕跡さえもなった。
(コウタのために少しでも情報を仕入れておきたかったのだが……)
リノは嘆息した。
レオス=ボーダーがこの国にいる。
となれば、当然コウタとの激突は避けられない。
相手はかつての同僚。しかも子供の頃から知っている顔見知り。
しかし、今やリノはコウタの正妻なのである。
夫のために、少しでも役に立とうと密かに奮戦していたのだが……。
「やはり人生経験では敵わんな」
相手は、リノの五倍以上も生きている老獪な怪物だ。
その上、他の《九妖星》や切れ者のカテリーナもいる。痕跡を残してくれるようなことはないだろう。やはり、尻尾などやすやすと掴ませてはくれないようだ。
「……ドウスル? ヒメ」
サザンⅩが聞いてくる。リノは渋面を浮かべた。
「どうするもこうするもない。これ以上の調査は意味がなかろう」
無念ではあるが、もう捜索の当てもない。
リノとしては、手詰まりだった。
「じゃが、そろそろレオスが動くのは確実なはず。わらわとしてはコウタの傍にいて警戒するしかないじゃろうな」
「……ケド、コウタハ、レオスセン、デハ、メルサマヲ、ノセルトイッテタ」
サザンⅩがそう告げると、リノはムムっと表情をしかめた。
「それはわらわにとって不満ではある。しかし、コウタの決めたことじゃ。夫の意志を無視するつもりはわらわにはない」
サザンⅩは「……オオ」と拍手をした。
「……イガイト、ヒメハ、オットヲ、タテル」
「妻としては当然じゃ。というよりも、コウタに『ダメかな……?』と言われると思わず許してしまうのが実情なのじゃが」
そこで少し頬を赤くしてコホンと喉を鳴らしつつ。
「ともかくじゃ。レオスが、ギンネコ娘がいる時に襲ってくるとは限らん。その場にギンネコ娘がいないのなら、わらわが乗るしかないじゃろう」
と、リノは言う。
それは、メルティアも含めた全員の意見だった。
そのためにも、今日の午後からは、ほぼ付きっ切りのメルティアに加え、リノ、リーゼ、アイリの誰かは、常にコウタの傍にいることになっている。
「レオスは正真正銘の怪物じゃ。いかな手を打ってくるのか想像も出来んが……」
リノは眉をひそめた。
「恐らく、相当厄介な手を打ってくることだけは確実じゃからな」
リノはその場で身を翻し、出口に向かう。
「早くコウタの所に戻らねば」
どうにも嫌な予感がする。
リノは、少し早足になるのだった。
◆
――同時刻。
市街区のとある大通りにて。
その男は一人、ふらふらと歩いていた。
歳は若い。恐らく二十代の半ばぐらいだろう。
体格もよく、がっしりとした筋肉質な男だ。
しかし、今は足元がおぼつかない。
時折、通行人にぶつかって不快感を与えたり、または「……おい、大丈夫か?」と心配の声をかけられたりするが、男は無反応だ。
よく見れば、瞳の焦点が合っていなかった。
あまりに異様な雰囲気に、通行人達も足を止めて男の様子を窺っていた。
「………ディ、キャン……」
異様な雰囲気の男は、うわ言を呟きながら、周辺を見渡していた。
ぐらんぐらん、と頭を揺らす。
やはり異様な光景だ。
「……おい。誰か騎士呼んでこいよ」
「……ああ。こりゃあ、多分ヤべェな」
そんな声がし、数人の男女が走り出した。
第三騎士団の詰所か、巡回している騎士を探しにいったのだろう。
「………ディ、………ディ、キャン……、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ……」
男のうわ言はますますもって意味不明のものになっていく。
目は虚ろのままギョロギョロと左右に動き、両腕は何かを探すように前へ伸ばし、自分の尾を追う狂った獣のように動き続けている。
時折、血が滲むほど喉を掻きむしり、奇声を上げていた。
「ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ディディ、ディ、ディ、ディ、ディ、ンディイイイイィイイィイイィィィィィッッ!」
尋常でない様子は明らかだ。
ここに至って、通行人達も表情を変えた。
「……おい、こいつは……」
「……おう。ちょっと構えた方がいいか」
通行人の中でも体格のよい数人が神妙な顔で頷き合う。
次いで、その中の一人が、近くにいた青ざめる男性にこう告げた。
「おい。そこのあんた。こりゃあ、本気でヤバい雰囲気だ。騎士さんも間に合わねえかもしんねえ。ここに近づかないように付近の人間に伝えてくれ」
「あ、ああ。分かったよ」
通勤途中の様子だった男性は非常事態を感じ取って、怯えながらも頷いた。
男性は走り出し、「こっちに近づくな! 危ないぞ!」と叫んでいた。彼に倣って他の通行人も同じように叫んで警告する。
「騎士は……まだ来る様子はねえな」
体格のいい男性が、周囲の様子を窺って呟く。
「……ああ。そうだな。いざとなったら俺らで止めるしかねえか」
一目で、これから土木作業に行くことが分かる格好の男性が首肯した。
彼の近くには同僚なのか、同じ格好をした三人の男性がいた。
彼らも、互いの顔を見合わせて頷く。
幸いというべきか、挙動不審の男は武器の類は持っていない。
巨漢と呼べる五人がかりなら、押さえつけることぐらいは可能だろう。
彼らはそう考えていたが、唐突にギョッとした。
何故なら、突然挙動不審の男の頬が大きく膨れ上がったからだ。
男は目を見開いて、口を開いた。
――ドボン、と。
大量の液体が地面に吐き出される。バケツに入れるような量だ。
それは、信じがたいことに男の唾液だった。
「お、おい!? あんた!?」
「う、うわっ!?」「キモッ!?」
「だ、大丈夫なのかよ!? それ!?」
勇敢で精悍な男達も、流石に腰が引けるような異常事態だ。
しかし、唾液を吐き出した男は、何も答えない。
ただ、真っ直ぐ顔を上げた。
そして涎も拭わず、ゲラゲラと笑い出す。
五人の男達は青ざめるが、笑う男の視線は別の所に向いていた。
彼の視線の先にいるのは――。
「え? 何の騒ぎ?」
渋滞となった通行人の間。
キョトンとした様子の、蜂蜜色の髪の少女だった。
男は突如、走り出した。
まるで獣のように両腕まで使って走る。
そうして、唾液をまき散らして、こう叫ぶのだった。
「キャン、ディイィィィィィィィィィィィィィィィィィイィッッ!」
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