幕間二 その男、不運につき

第315話 その男、不運につき

 ――諸兄は憶えているであろうか?

 かつて、リノの副官であった彼のことを。

 確かな実力を持ちながら、常に不運に愛され、上司と同僚(?)に、記憶の彼方へと葬り去られた彼のことを。

 ――そう。不運王ゲイルのことを。


『……………は?』


 その時、ゲイルは茫然としていた。

 凄まじいまでの腹痛に苦しめられた彼だったが、その後、ごっそりと減った体重を犠牲にどうにか持ち直していた。

 しかし、復帰した直後に、ホオヅキ支部長から聞かされたのが、


『……姫が退職なされた』


 という一言だった。

 その時のゲイルの青ざめようは、血の気が引くなどのレベルではなかった。

 明らかに、魂がどこかへと逝きかけていた。

 流石に憐れんだホオヅキ支部長が、


『全責任は吾輩にある。ヌシが気に病む必要はない。無論、咎められることもない』


 と、フォローを入れたぐらいだ。

 おかげで、どこかに逝くこともなく、再びトイレの住人にもならずに済んだのだが、ゲイルは途方に暮れた。

 ただの慰安旅行の付き添いのはずが、気付けば上司が退職していたのだ。

 これから一体どうすればいいのか、分からなかった。

 そのため、流石に数時間ほどは茫然自失となって部屋に籠っていたゲイルだったが、彼は今回の案件をよい転機であると考えた。


 ようやく、あの暴虐で我儘でえげつないお嬢さまから解放されたのだ。

 しかも、自分は一切の責任を問われないらしい。


 ならば、これからのことを考えるべきだった。

 幸いにもこの場には、ゲイルが敬愛するホオヅキ支部長や、人徳者で知られるグレッグ支部長もいる。社内アンケートで上司にしたい支部長の上位二名だ。

 ちなみに、ゲイルとしては心底不満なのだが、リノが第一位だったりする。

 彼女の美しさに魅了された男は、社内でも圧倒的に多いのだ。


 閑話休題。

 ともあれ、ここで二人の支部長に自分の有能さをアピール出来れば、引き抜きという可能性も有り得る。ゲイルの出世街道は、ここから始まるのだ。


『よし! 俺はやるぞ!』


 ゲイルは意気揚々に、早速動き出そうとした時だった。

 ばったりと。

 部屋を出たゲイルは、その人物と出会ってしまった。


『ん? ああ、お前はリノ嬢ちゃんの……そうか。お前がいたんだな』


 三人目の支部長。

 レオス=ボーダー支部長だった。

 上司にしたくない支部長で、長年第一位に君臨する人物である。

《黒陽社》は仲間意識の強い組織だ。

 その点においてはどの支部長も例外でなく、ボーダー支部長も敵には残虐だが、部下には友好的な態度をとる。人物像だけではそこまで酷くはない相手だ。


 しかし、この支部長は、とんでもない悪癖があるのである。

 それは、部下に望む仕事水準が、恐ろしく高いということだった。

 直属の部下である同期の話だと、ボーダー支部長は自分を恐ろしく過小評価しているらしく、自分に出来ることなら、他人にも出来ると思っている節があるらしい。

 そのため、かなり無茶な要望を平然としてくるそうだ。


 ゲイルは嫌な予感が止まらなかった。


『ボ、ボーダー支部長……』


 乾いた声で支部長の名を呼ぶ。と、


『そうだな。お前でいいか。リノ嬢ちゃんがいなくて暇だろう。少し手伝え』


『え? わ、私がですか?』


『ああ。お前のことは、リノ嬢ちゃんから聞いている。我慢強く、耐久力があり、優秀な男らしいな』


『い、いえ、そ、そんなことは……』


 ――いらない。

 そんな売り込みはいらないからな。お嬢さまよ。

 ゲイルは心の中で、かつての上司に抗議した。


『謙遜するな』


 しかし、時すでに遅かった。

 ボーダー支部長は、ポンとゲイルの肩を叩いて告げた。


『リノ嬢ちゃんの眼力は俺やボルドも一目置くほどだ。お前の実力は本物だ』


 支部長の高評価に、ゲイルは何も言えない。

 否定すれば、支部長たちの眼力まで否定することになるからだ。


『大丈夫だ。手伝うと言っても大したことではない』


 レオスは、ごく自然な様子で告げた。


『誰にでも出来る簡単な仕事だからな』





「――くそったれが!」


 ――ドスンッ!

 と、大量の荷物を詰め込んだサックを廊下に降ろしてゲイルは呻いた。


「あのお嬢さま! 辞めてからも俺を追い込むのかよ!?」


 ボーダー支部長から、依頼された仕事。

 やはりと言うべきか、それはお手軽な仕事とはとても言えなかった。

 むしろ神経をすり減らす上に、この上ない重労働である。

 今も遠い市街区から、これだけの荷物を屋敷に運んできたばかりだった。

 それも、たった一人で。

 そんな重労働が、もう九日目になるのである。

 世間では何やら大きな催し物があったらしく、周りは騒々しいぐらいに浮かれているというのに、自分だけは無縁の世界にいた。


「ああ、くそッ!」


 ゲイルは、その場に腰を下ろして胡坐をかいた。

 違う。自分がアピールしたいのはあの支部長じゃない。

 そう思っていても、口には出せるはずもない。

 そしてそんな不満を抱きつつも、着実に仕事をこなすゲイルの姿に、ボーダー支部長の評価はうなぎ上りだった。


「い、嫌だ。小悪魔の次は、悪魔に仕えるのか……」


 無制限に水準が高くなっていく仕事に忙殺される日々を思い浮かべて、ゲイルは青ざめていった。

 と、その時だった。


「随分とお疲れのようですね。ゲイル殿」


「――あン?」


 背後から聞こえてきた声に、ゲイルは剣呑な表情で振り向いた。

 そこには、黒いスーツを着たカテリーナ=ハリスがいた。


「……ハリスか」


 グレッグ支部長の秘書を務める女。

 ゲイルにとっては、五期ほど下の後輩になる。


「そりゃあ疲れるさ」


 ゲイルは嘆息した。


「ボーダー支部長、無茶苦茶言うしよ。まだお姫さまの方がマシだ」


 ――大昔の言葉にこんな格言がある。


 おっさんと美少女。仕えるのなら美少女を選ぶのは当然であろう。


 とある古の王国にて、王女の反旗に加担した重臣が王に言い放った台詞らしい。

 同じレベルの過酷さなら、美少女の方がいいというのは、ゲイルも同意見だった。

 まあ、ボーダー支部長は、見た目は少年。中身は老人なのだが。


「ふふ。噂通りの不運っぷりですわね」


「おい待て。何だ、その噂通りってのは――ん?」


 聞き捨てならない噂を問い質そうとしたゲイルだったが、ふと気付く。

 どうも、カテリーナの雰囲気が変わっているような気がした。

 よく見ると、いつもの赤い眼鏡をかけていないこともあるが、それ以上に仕草一つ一つに艶めいたものを感じた。

 何よりも、存在感が増したような印象を抱く。


「ハリス? お前、何かあったのか?」


 率直にそう尋ねると、カテリーナは微笑んだ。


「いえ。何も」


「……そうか?」


 ゲイルは眉根を寄せるが、すぐにその疑問は吹き飛んだ。

 突然、獣のような呻き声が屋敷内に響いたのだ。

 ゲイルは「チィ」と舌打ちする。


「もう切れやがったか」


 言ってサックを肩に担ぎ、立ちあがる。


「頑張ってください。ゲイル殿」


 カテリーナがゲイルに声援を贈る。

 対し、ゲイルは渋面を浮かべた。


「声援より手伝ってくれよ。マジでしんどいんだよ。あいつらの面倒」


「私にはボルドさまの補佐がありますので。それより早くいかれた方がよいのでは?」


 獣のような声は徐々に大きく、さらに数が増えている。


「ああ、くそッ! あの欲しがりどもが!」


 ゲイルは、仕方がなく廊下の奥へと走っていった。

 大荷物を抱えているのに、その姿は瞬く間に見えなくなった。

 ゲイルの姿が完全に消えたのを確認してから、カテリーナは呟く。


「何だかんだで使える男ですね」


 あれならば、第5支部に引き抜いてもいいかもしれない。

 カテリーナは双眸を細めた。


「今は私がいれば充分ですが、いずれは、私もボルドさまを補佐できない期間に入ることになるでしょうし」


 言って、彼女は左手を頭上に掲げた。

 彼女の左手の薬指。そこには銀色の指輪が輝いていた。

 カテリーナは幸せそうに口元を綻ばせた。


「私には、ボルドさまの補佐以外にも大切な仕事が出来ました。ボルドさまとの愛の結晶を育むという重要な使命が」


 すっと手を下ろす。


「そのため、職場を離れなければならない時期が必ず来ます。その時、あの男は役に立つかもしれませんね。ボルドさまに部署移動を進言しておきましょう」


 そう呟いて、カテリーナは背を向けて歩き出した。

 その時、今までの中でも一際大きい獣の声が響いた。

 まるで、歓喜に震えているような声だ。


「準備は順調に進んでいるようですね。レオス=ボーダー支部長」


 ――蛹から蝶と成り。

 一夜ごとに女としての格を上げているカテリーナは、妖艶に笑う。


「最古の《妖星》。ボルドさまが一目置かれた実力。拝見させていただきますわ」

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