第150話 新徒祭始まる④
がやがや、と。
随分と騒がしい街並みを、その少女は二階の窓辺から見下ろしていた。
そこは、王都パドロの一角。
王都の中心から少し外れたホテルの二階に、彼女はいた。
アイボリーの髪と緋色の瞳を持つへの字娘――アイシャである。
「……何だが騒がしい雰囲気だな。祭りでもしてんのか?」
アイシャはへの字口のまま、小首を傾げた。
彼女がこの分不相応にしか思えない高級なホテルに入ったのは今朝早くのことだった。現雇用者である腐れ伯爵に命じられ、二日もかけて王都にやって来たのだ。
同行者は伯爵当人と執事長の爺さん。そして馬車の片隅に鎮座していた、古めかしくも珍しい逸品だった。あれは本当に奇妙な光景だった。貴族の館では調度品として置かれてあっても不思議ではないが、馬車にあったそれは明らかに調度品ではない。まるでこれから実戦にでも使用するかのように手入れされていた。
どうしてこんな場違いなものが馬車の中にあるのか、道中アイシャはずっと疑問に思っていたが、結局、その理由を知る機会はなかった。
「まあ、いいか。どうせオレには関係のないことだし」
そう言って、アイシャは窓際から離れた。
一応はサザン伯爵家のメイドであるはずの彼女だが、今はメイド服ではなかった。黒系統のシャツにズボンといった男物の服を着込んでいた。
出立時、腐れ伯爵から服装は自由で構わないと言われたので、彼女唯一の私物であるこの一張羅を選んだのだ。胸の辺りがかなり窮屈で苦しいが、正直メイド服なんぞよりよっぽど落ち着く格好だ。
しかし、
「けど、あのメイド服を着る機会も、もうねえんだよな……」
ほんの少しだけ名残惜しそうに呟きつつ、アイシャは、トスンと柔らかすぎるベッドの上に腰を下ろした……が、その時、
「……う」
勢いよく座ったせいか、下腹部辺りに痛みが走った。
アイシャは片手で自分の下腹部を押さえて眉をしかめた。三日経ったおかげで大分マシになってきたが、まだ完全には痛みも消えてくれないようだ。
「……くそったれが」
思わずそう吐き捨てる。この痛みは言わば裏切りの烙印。
少しだけ信頼し始めていたあの男が自分を裏切ったその証である。
「……ちくしょう。あの裏切りモンの腐れ伯爵め」
さらなる怒りの言葉が唇から零れ落ちる。
――三日前の夜。
アイシャは雇い主であるサザン伯爵に手籠めにされてしまった。
だが、そのこと自体は想定していた範疇だ。
そもそも自分は娼婦である。しかも娼館のオーナーやこれまで指名してきた貴族の男達の話では、額と胸の傷さえなければ見栄えもいいらしい。だから、あの男に身受けされた時からいつかはこうなる結末は予測していた。
ただ、想定外だったのは……。
「くそ。結局それだけが目的なら優しくなんかすんなよ」
アイシャはポフっとベッドに倒れ込み、右腕で視線を覆った。
最初の頃、伯爵の狙いは露骨なものだった。
恐らくアイシャの貞操だけではなく、心まで奪おうとでも考えていたのだろう。不快に思ったアイシャはいずれ逃げ出してやろうと考えていた。
しかし、それは別に自分の貞操を守ろうといった考えではない。
極端に言えば、貞操を失っても死ぬ訳ではない。むしろ高値でいつ売るかをいつも考えていた。貧民街で育ったアイシャにとっては自然な発想だった。
生きることが最も重要だと思っているからこそ、娼館で働いていたのだ。
とは言え、温室育ちの貴族におもちゃ扱いされれば苛立ちを感じるのも事実だ。
まるで人形のようにメイド服を着せられ。
不慣れなメイドの仕事を無理やり押しつけられ。
挙句、貞操どころか心まで弄ぼうとするクズ野郎。
アイシャはあの人生を舐めきったお坊ちゃんに一泡吹かせようと企んでいた。
――だがしかし、しばらくしてアイシャは困惑することになる。
時間が経つほどに、アイシャはあの男から悪意を感じなくなっていたのだ。
貧民街で培ってきたアイシャの悪意に対するセンサーは敏感だ。そのセンサーが何故か伯爵に対して一切反応しなくなったのである。
アイシャは動揺した。こんなことは初めてだった。
よもや自分の勘が鈍ってしまったのか。もしそうならば、これからの人生で非常にまずいことになる。アイシャは警戒しつつ、この状況を見極めようと考えた。
だが、それが致命的な判断ミスであった。この事態を探ることを優先させたばかりに、彼女は逃げ出す機会をみすみす失ってしまったのだ。
そうして招いたのが、三日前の大失態だ。
結局、アイシャはあの男の思惑通り、貞操を奪われてしまった。
「けど考えてみれば、これって遅かれ早かれなんだよな」
どこか自嘲じみた様子で、アイシャはごろりとベッドの上で転がった。
――失態は失態だ。反省はしよう。
しかし、思い返せば、あの男はとても優しくしてくれた。
あの夜は熱病にでもかかったように何度も何度もあの男の名を呼んだ気がする。最後の方では所々記憶も飛んでいるが、娼婦仲間の話では初めてを乱暴に扱い、悦に入る最低な男もいるそうだ。それに比べれば自分は幸運な方なのかも知れない。
「うん。そうだよな」
アイシャはうんうんと頷いた。
「これはむしろ前向きに考えるべきだよな」
そう言って、彼女は男物の服では窮屈であると懸命に主張する双丘を揺らして上半身を起こすと、ベッドから立ち上がった。
いずれにせよ娼婦をしていれば必ず初めては失うものだ。
その初めてをさほどの痛みもなく迎えられたのだから良しとしよう。
これから自分がどの娼館に行くかは分からないが、きっとこれから自分を抱く男には酷い輩もいる。そんな時、あの夜は素晴らしかったと思い出すことになるだろう。
なにせ裏切られてなお、自分はあの伯爵のことが嫌いになっていないのだから。
アイシャは少しだけあの夜のことを思い浮かべて、指先で唇に触れた。
あの日、一体自分はあの男と何度口づけを交わしたのだろうか……?
と、考えたところでハッとする。
(い、いやいやいや! 思い出すにはまだ早いだろ!)
自分にそんなツッコミを入れつつ、アイシャはブンブンとかぶりを振った。
「――と、ともかく!」への字娘はドアを睨み付けた。「まったく! あの伯爵さまはいつまで待たせる気なんだよ!」
未だ部屋のドアが開く様子はない。
今朝からずっとこの様子だった。伯爵もお付きの爺さんも、いそいそとどこかに出かけたまま帰ってこない。アイシャはへの字顔の上に、さらに渋面を浮かべた。
――察するに、これはわざわざ遠い王都までやって来たというのに、自分を買い取ってくれる娼館がないのということか……。
アイシャは王都に来たのは、自分のこの街の娼館に売るためだと思っていた。
なにせ、あの伯爵にとって自分はすでに用済みなのだ。王都に自分を連れてきたのもそのまま娼館に引き取ってもらう腹積もりなのだろう。
(……はン、伯爵さまよ。どうせなら少しはまともなところを頼むぜ)
アイシャは再び窓の外に目をやり、心中でそう嘯いた。
と、その時だった。
不意にドアがコンコンとノックされ、聞き覚えのある声が「入るぞ」と伝えてきた。どうやら待ち人がようやく来てくれたらしい。
「ああ、いいぜ」
アイシャがそう返すと、ドアはゆっくりと開かれた。
そしてそこに立っていたのはサザン伯爵家の執事長――ベン=ルッソだった。
ルッソは何やら黒い筒を持っていた。
アイシャはピンと来た。
なるほど。恐らくあの筒の中に娼館との契約書が入っているに違いない。
「で、ベンの爺さん。どこに決まったんだよ」
「??? 何を言って――いや何故知っている? 坊ちゃまに聞いたのか?」
「はン。いちいちそんなこと伯爵さまに訊かねえよ。察しただけさ」
と、アイシャは大きな胸をたゆんっと揺らしてへの字口で語る。
ルッソはますます眉根を寄せるが、「まあ、いいだろう。話が早くて好都合だ」と言って黒い筒をキュポンと開けた。
そして中から一枚の紙を取りだし、アイシャに渡した。
アイシャは「どれどれ」と言って紙に目を通す。これには自分が行く店舗名が記載されているはず。ちなみに文字を読む程度の知識は娼婦仲間から教わっていた。
「ええっと。シーハンズ? 聞いたこともねえ娼館だな……」
かなりマイナーな娼館かも知れない。アイシャは眉をひそめた。
すると、ルッソがアイシャよりも眉をひそめて。
「お前は何を言っているんだ? それは娼館ではないぞ。とある男爵家の家名だ」
「へ?」アイシャは目を丸くした。「じゃあ、オレって次は男爵家に売られるのか?」
「いや、お前は本当に何を言っているんだ? シーハンズ家は百年前に没落している。末裔もいない。それは坊ちゃまがお前のために用意した家名だ」
「はあ? なんで?」
「なんでもなにも」ルッソは話の通じない娘に呆れた様子を見せた。「将来のために必要になるものだ。家名なしでは世間体的に問題があるからな」
「いや、問題って何だよ。そもそも将来って何を――」
アイシャはさらに困惑した。
それに対し、ルッソはもう埒があかないと察したのか、はっきりと告げた。
「お前がハワード坊ちゃまの伴侶になる将来だ」
…………………………………。
……………………。
長い沈黙が部屋に満ちた。
そして――。
「―――ハアッ!?」
アイシャは両目をこれでもかとばかりに見開く。
「ハ、ハンリョってヨメのことだろ!? なんでそんな話が!? オレ、貧民街出身の娼婦だぞ!? そんなのが伯爵のヨメって――え? なんで!?」
そこまで叫んでから、今度は混乱した声でルッソに問う。
「あ、あのさ爺さん。一応訊くけど、オレってこの街の娼館に売られるんだろ?」
「いや待て」ルッソは渋面を浮かべた。「お前、何の話だ? それは?」
「いや、だって、オレにはもう価値なんてねえだろ? ハワードも初物だからオレの身受けをしたんだろうし……」
「いやお前な」
ルッソは額に手を当てて頭を振った。
それから少し考えてから、躊躇いがちに口を開いた。
「実は三日前のあの夜。万が一ではあるが、お前がハワード坊ちゃまを傷つけるかもしれんと思い、私は部屋の外で待機していたのだが……」
「…………え?」
アイシャは唖然とした。
と言うことは何か? もしかしてこの爺さんは――。
「き、聞いていたのか!? そ、そそその、オレとハワードのアレを!?」
「すまん。聞くつもりはなかったんだが……ある程度はな。しかしお前、ハワード坊ちゃまにあそこまで直球的に愛されて何故自分が娼館に売られると思うんだ?」
「う、い、いや、だって……」
アイシャはおずおずと語る。
「貴族の男は初物が大好きだって聞いてたし、初物でなくなるとすぐに見向きもしなくなるって姐さん達が……」
「いや、それは一部事実かも知れんが……」
ルッソは少しだけ気まずげな表情で呟く。が、
「ともあれ、ハワード坊ちゃまがお前を手放すことはあり得んぞ。差し当たりお前が心配すべきことは今夜のことだろう」
「へ? なんで今夜?」
小首を傾げるアイシャ。ルッソは再び額に手を当て嘆息した。
「お前は本当に元娼婦か? まあ、今夜になればすぐに理解するからいいか」
あまりにも鈍い少女に流石に呆れてしまう。
だが、主人が心から愛する少女だ。雑にも扱えない。
「とにかく朝食もまだだろう。まずは食事でもしろ。それから体力は温存しておけ」
「??? 温存ってなんでだよ?」
ルッソは溜息をついた。
このへの字娘は擦れているのか純情なのか全く分からない。
もはや老け込むぐらいの疲れを見せるルッソだったが、ここでうんざりして投げ出す訳にもいかない。結局、執事として自分に出来ることと言えば、この察しの悪いへの字娘を守りつつ、ただ主人の帰りを待つことだけなのだから。
(ハワード坊ちゃま。私は何の手助けもできませんが、せめてあなたの大切な娘だけでもお守り致しましょう。坊ちゃまは憂いなくかの宿敵にお挑みなさいませ)
と、心の中で主人を応援する忠義の執事であった。
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