幕間一 旅立ちの日
第135話 旅立ちの日
「……よいしょっと」
その日、ルカは最後となる荷物をまとめていた。
大きなサックの中には主に工具の類が入っていた。機械いじりが趣味のため、これが最後まで残ったのだ。
ルカはいま自分が居る部屋の中を見渡した。
遙か南方にある離島の王国――アティス王国。
総人口はおよそ二十一万と、エリーズやグレイシア皇国に比べれば実に規模の小さい小国だ。離島ゆえに広大な海に囲まれ、周囲には隣国もない祖国。そんな立地のおかげか、アティス王国は豊かな土壌でありながら建国から約三百年に渡って一度も戦争をしたことがない『平和の国』として有名だった。ここは、そんな故郷の王城であるラスセーヌに設けられた彼女の私室だった。
長年愛用してきたこの部屋も、今はどこか寂しい様子だった。天蓋付きのキングサイズのベッド以外はあらかた整理してしまったからだ。
今日の昼、ルカは旅立つ。
次にこの部屋に訪れるのは恐らく三年から四年後か……。
そう思うと異国での新生活への不安に加え、故郷への寂寥の念も強くなってきた。
何よりも、彼女にとって姉とも呼べる二人の幼馴染と別れなければならないことは本当に辛かった。
ルカはお世辞にも豊かとは呼べない胸元に手を当てた。
「……やっぱり嫌だよ。外国なんて行きたくないよ」
思わず本音がこぼれ落ちる。
だが、今回の留学は彼女の引っ込み思案の性格を改善するための一種の試練なのだ。どれほど嫌であっても断ることなど出来なかった。
ルカはますます落ち込んでいく。
と、その時だった。
不意に、コンコンとドアがノックされた。
今日は朝から何人も人が訪れる。先程も母がメイド達と一緒に来たばかりだ。
また誰かが別れを告げに来たのだろうか?
「は、はい。開いています」
ルカは訪問者にそう答えた。
すると、おもむろにドアが開かれた。ルカは軽く目を見開いた。
そこにいたのは五十代の男性。
顔の半分を覆う豊かな顎髭に黄金の王冠。赤い外套を纏うルカの父。
アティス王国の国王であるアロス=アティスだった。
「お、お父さん?」
ルカは呆然と父を呼んだ。
普段父がこの部屋には訪れることはなかった。
とは言え、父娘関係が疎遠な訳ではない。
単純に父が多忙すぎて中々会いに来れないのだ。だからこそ今日も父が自分に会いにくることは無理だろうと思っていたのだが……。
「ど、どうしたの? 今は普段なら会議の時間なのに」
「なに。御前会議が少し早めに終わってな」
そう言ってアロスは破顔する。
どうやら多忙な公務の合間をぬって娘の顔を見に来たらしい。いや、もしかすると臣下達が気を利かせて会議が迅速に終わるように調整したのかもしない。
「今日、余は港湾区には行けぬ」
そう切り出してアロスは部屋の中に入ってくる。
「せめて、今の間にお主と別れの挨拶をしておきたくてな」
「……お父さん」
ルカは泣き出しそうな顔で父を見上げた。
「……ふむ」
ただそれだけでアロスは愛娘の今の心情を見抜いた。
「不安か? ルカよ」
そう尋ねる父に、ルカは素直に頷いた。
アロスは一瞬だけ困ったような表情を見せる。が、
「大丈夫だ」
おもむろにルカの頭を撫で始めた。
「この旅はお主にとって良きものとなろう。きっと良き出会いがある」
と、歴代屈指の賢王と名高い父が言う。
ルカは不安こそなくならないが、それでも少し心が落ち着いていくのを感じた。
「本当に、そんな出会いがあるの?」
「ああ、勿論だとも」
アロスは力強い笑みを見せた。
「きっと生涯の友と呼べる人物と会えるに違いないぞ」
根拠はないが、どこか予感はあった。
賢王は確信を以て告げる。
父のそんな自信はルカにも伝わってきた。聡明な父がそこまで言うのだ。本当に良き出会いがあるのかもしれない。
前向きにそう考えて、ルカはこくんと頷いた。
アロスは満足げに首肯する。
「余の可愛いルカよ」
そして、口元を綻ばせて告げた。
「よく学べ。そして何よりも健やかに過ごすのだぞ。再びこの祖国に戻って来た時、余とサリアに異国の話を聞かせておくれ」
そこで父は両手でルカの肩を抑える。それから「ただし」と一言入れて、この上なく真剣な顔で告げた。
「男にだけは気をつけよ。お主はサリアによく似てとても可愛いのだ。よいな。友人は女性限定にするのだぞ」
「え? え、えっと……」
目が一切笑っていない父の面持ちに、ルカは思わず目を丸くした。
が、すぐにクスクスと笑い出し、
「大丈夫だよ。私はまだ子供だもの。お父さん、心配しすぎ」
「む。むむゥ、しかしなぁ」
アロスは渋面を浮かべた。
そうして父と娘は、しばし談笑に興じるのであった。
パチリと目が覚める。
自室のベッドの上で寝ていたルカは、ほんの八ヶ月前程度のはずなのに思い出の頃とはもう比較にもならないぐらい見事に育った胸を揺らして上半身を上げた。
そしてまだウトウトとした眼差しで壁時計を見上げた。
時刻は六時半。早朝だ。
そこでルカは完全に目が覚める。
――そう。朝だ。
昨日は興奮して中々寝付けなかったが、ようやく今日の朝が来たのだ。
まだ時刻はかなり早いのだが、ルカは待ちきれずベッドから起き上がった。
「早く! 早くお師匠さまの館に行かなくちゃ!」
師と呼べる女性と出会って一週間半。あの日からほぼ毎日のように会っていたのだが、今日は初めてお師匠さまの館に招待された日だった。
それも休日を利用したお泊まり会である。
だからこそ気持ちが急いていた。
ルカはまず眠気覚ましのため、シャワーを浴びようと考える。それを行うために自室に備え付けてあるシャワールームに向かった。
その間、ズボン、シャツとかなり子供っぽい柄の寝間着を脱ぎ捨てていく。まあ、服の下から現れた成長した肢体は子供っぽさとは縁遠かったが。
そして下着姿となったルカはシャワールームへと入る。
するとそこには、全身が確認できるぐらい大きな鏡があって――。
(あっ……)
その時、実に健やかに育った自分の姿が目に入り、不意にルカは、遙か遠い祖国にいる父のことを思い出した。
加え、先程まで見ていた夢の内容も脳裏によぎる。
(お父さん)
……本当に。
本当に父の言っていた通りだった。
父の慧眼通り、この国では素晴らしき出会いが待っていた。
いつの日か帰国した時、今日のことは父に語ろう。
ルカはそう心に決めていた。
「お父さん」
そして彼女は鏡の前にて、満面の笑みで告げる。
「この国で、私にお師匠さまが出来ました。いつか紹介するからね」
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