12 尾張藩主 徳川慶恕

 

 評定がはじまった。


 本来ならば、こうした会議はどこかに移動して行うべきなのだが、


「なんか、移動するのも億劫じゃね?」


 と、すっかり無気力になったオッサンたち。



 会場はここ黒書院溜間のまま開始。



 上座下座的なもの以外は全席自由だったが、陣営は自然と、


『チーム井伊』タマリノマクラブ


『チーム斉昭』紀州以外御三家さま一同


 で、左右向かいあう形に。



 阿部ら四人の老中は、両陣営の中央下座に位置どり、見るからにレフェリー的ポジションだ。


 


「鎖国は幕府の祖法であるっ!」


 徳川斉昭は、ゲーム開始直後から全力で敵陣突入してきた。


「夷狄、断固打ち払うべし! 一歩たりとも、神国の土を踏ませてはならぬ!」


 ムダにデカイ声だ。



 それに対し井伊は、ドライアイスより冷たい視線を投げかける。


「清国の惨状、お聞きおよびにござりましょう? わが国の装備にては、黒船の艦隊とまともに戦うことなどできませぬ」

 

 心底うんざりした口調。


 たぶん、会津侯欠席の会議でも、連日同じやりとりがつづいてるんだろう。



 井伊の言う『清国の惨状』とは、1842年、第一次アヘン戦争終結にともなって調印された『南京条約』のことにちがいない。


 第二次アヘン戦争とよばれる『アロー戦争』は1856年からだから、まだはじまっていないはずだ。



 南京条約では、清は多額の賠償金と香港の割譲、上海など五港の開港という要求をのまされた。


 翌年の虎門寨こもんさい追加条約では、治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項の承認を余儀なくされ、いわゆる不平等条約を調印させられたのだ。



「戦う前より、臆病風にふかれるとは腰抜けどもめ!」


 テンション高くジジイが叫ぶ。


「たとえ国中の侍が討死しようとも、夷狄との和親などあってはならぬことじゃ!」



 海防参与の徳川斉昭は、十年前、寺院を破却するなどの過激な藩政改革によって、幕府から強制隠居謹慎処分をくらい、家督は嫡男慶篤に譲った。


 昨嘉永六年、ペリー艦隊が浦賀に来航し、このとき老中首座阿部正弘の要請で、隠居の身ながら海防参与という政治顧問に就任した。


 しかし、尊王攘夷思想の本家本元『水戸学』が骨の髄までしみこんだ烈公こと斉昭さま。


 そのモットーはとにかく攘夷!


 なにがなんでも攘夷!


 やっぱり攘夷!


 現実無視で『攘夷! 攘夷!』と連呼。



 超アナクロ、かつ国際情勢ガン無視のそのブッ飛びぶりには、登用した張本人の阿部ですら、最近はいささか持てあまし気味とか。



 戦場から遠ざかるほど人は好戦的になるらしい。


 たしかに、弾があたらないところにいるヤツは、いくらでも勇ましいことが言えるわな。


 ジジイは徳川大貴族さまだから、自分は弾の飛びかう最前線に立つと思ってないんだろ。


 逆に、会津をはじめとする御家門・譜代諸藩は、常に海防の最前線にいる。



 江戸時代も後期になると、日本近海には、外国船がたびたび出現し、開国をせまられるようになった。


 譜代大名、とくに会津藩は自領ではない房総半島・三浦半島、果ては蝦夷樺太沿岸部まで、幕命によってずっと警備をやらされてきた。



 文化四年~六年(1807~1809)


 通商をもとめ南下し、蝦夷の漁村で略奪をくりかえすロシア船にそなえ、会津藩は幕命により蝦夷と樺太に総勢千五百人以上を派兵、駐留させた。



 文化七年~文政三年(1810~1820)


 会津藩と白河藩に江戸湾警備命令が下り、会津は三浦半島サイドを担当し、以後十年間もの長期出兵の任務を課せられた。


 のちに、ここは浦賀奉行の管轄となり、やっと任務解除となる。



 弘化四年(1847)


 幕府は、会津・川越・忍・彦根の四藩を『御固四家体制』という江戸湾防衛担当藩に指定。

 このとき、会津は房総半島、彦根藩は三浦半島の警備を命じられる。



 外国の脅威を間近に見てきた溜詰諸侯は、自国との火力差はよく知っている。

 うかつに戦端を開いたら、第二の清国確実なため、現実路線のタマリノマクラブは和親を主張しているのだ。




「鎖国は幕府の祖法!」


 またジジイが吠えている。



 あ~~~、うぜーっ!


 何度目のループだよー?


 さっさと結論出して、解散しようぜ。


 久しぶりの外出で身体はくたくただし、帰宅後、柔軟体操一セット、スクワット三十回、ラジオ体操一~三番のノルマもある。


 マジで勘弁してほしい。



 ジジイと井伊のかけあい漫才をバックに、ぼ~っと視線をただよわせていると、徳川慶恕の姿が目にとまった。



 尾張藩主……徳川慶恕。



 俺の世界の『松平容保』の実兄……だっけ?



 うん、そうそう! 


 高須四兄弟の最年長は尾張藩主徳川慶勝。


 たしか、このあと安政の大獄で強制隠居させられ、再登板のとき、慶恕から慶勝に改名したんじゃなかったけ?


 一般的には、その改名後の名前の方がよく知られてるけど。



 でも……やっぱ、全然似てねーな、容さんとは。



 容さんは、女装もイケそうな小顔の優男。


 一方、慶恕は純和風瓜実顔。

 身長の割には頭蓋骨大きめ。骨格も雰囲気もとことんちがい、鏡の中の容さんとは類似点ゼロ。


 ま、あたりまえっちゃ、あまりまえだけど、「この世界の『松平容保』は、あっちとはまったくの別人なんだな~」と、徳川慶恕を見て、しみじみ実感。



 ところが、尾張大納言慶恕公、対面からのガン見に気づいたのか、急に眉をひそめる。


「なんだ?」


 不機嫌さ丸出しの問いかけ。


「あ……いえ……」


 耳まで赤くなり、思わず視線をそらす。


 そんな容さんを、イラだったようすでねめつける尾張侯。



 ……んだよ、ちょっと見たくらいで、なんでそんなにキレてんの?

 


 だが、尾張侯は、よほどお気にさわったのか、こめかみに青筋をたててまで、ぐいぐいにらみつづけていらしゃる。



 おい、こら! 俺はそんな顔してまで見てねーぞ!


 ケンカ売ってんのか?



 かるくイラっとし、今度は遠慮なく正々堂々、真正面から全力でガンを飛ばす。


 斉昭・井伊の大音量バトルの横で、無言でにらみあう御三家尾張侯と御家門会津侯。



 異様な雰囲気が溜間を支配する。


 それが、また阿部の注意を引いてしまったらしい。



「尾張さま。なにかお考えがありましたら、ご意見をお聞かせください」


 阿部が慶恕に水をむけた。


「わたしは水戸さまと同じ所存だ」



 けっっっ!!!


 自分の意見もねーのかよ?


 ないなら、評定参加をゴリ押ししてくるなっ!



 水戸のジジイは海防参与だから、今日の参加者リストにのっている。


 一方、無役で溜詰でもない尾張大納言慶恕と、斉昭の息子・水戸中納言慶篤に参加資格はない。


 評定の場での、一対溜詰全員という不利な状況を打破しようとたくらんで、ジジイが勝手に連れてきたんだろ。自分のヨイショ要員として。



 徳川慶恕。三十歳前後(推定)。



 その歳で御三家長老ジジイに迎合してんのか?


 若いなら、自分の意見をがんがん言えよ!


 しかも、国家的危機への切実感ゼロだし。



 いいよな、おまえらは、戦争になったって、前線に立たなくてすむもんな。

 生命の安全はつねに保障されてるわけだ。


 それに引きかえ、容さんは、蝦夷樺太・江戸湾防衛の例を見ても、まちがいなく真っ先に最前線送りだろ。


 そのいい例が、あっちの世界の戊辰戦争。



 会津藩は、幕府からムリヤリ押しつけられた京都守護職のおかげで長州から逆恨みされ、旧幕府側のスケープゴートとして徹底的に攻撃された。


 女子供老人もおおぜい犠牲となり、藩士や家族は数々の屈辱と辛酸をなめさせられる結果になった。



 それに比べ、尾張・水戸・紀州の御三家は、鳥羽伏見の戦いのあと、あっさり新政府側につきやがった。


(まぁ、紀州藩は鳥羽伏見で敗走する会津兵たちを江戸に回送してくれたらしいけどね)


 徳川幕府の構想では、西国の外様大名が反乱をおこしたとき、姫路城と井伊の彦根城、紀州家・尾張家が防御壁になり、江戸侵攻を阻むことになっている。


 だから参勤交代も、尾張侯と紀州侯は江戸在府期間が重ならないよう配慮されてたはずなのだ。


 西から敵が攻めてきたとき、どちらかが防戦の指揮をとると想定して。


 歴代の将軍・幕閣のだれもが、よもや尾張紀伊水戸……御三家そろってさっさと敵に寝返るとは思ってもみなかったろうが。


 しかも、尾張の慶勝は新政府側についただけではなく、東海道沿いの譜代藩を説得し、新政府軍が江戸まで無傷で進軍できるよう尽力までした。


 おかげで新政府軍は、上野彰義隊殲滅や会津戦争に全兵力を温存できたんだ。



 ムカつく……めちゃめちゃムカつくっ!



 最後の将軍徳川慶喜と御三家は、戊辰戦争の責任を会津にだけ押しつけて、自分たちは知らん顔。


 徳川慶喜はいうまでもなく、水戸のジジイこと斉昭の息子だ。


 いま目のまえで「攘夷! 攘夷!」と叫んでるこのジジイの息子や御三家のみなさんは、露骨な西洋崇拝に転じた薩長新政府のもとで華族となり、封建時代とかわらない特権階級として、趣味三昧の優雅な生活を送った。


 だけじゃなく、西洋風の豪華な衣装に身をつつみ、大きな洋館に住んだあげく、慶喜さんなんぞは、写真や油絵、サイクリング、刺繍等々、晩年はあちら風の趣味に没頭したという。


 反対に、朝敵・会津侯は肩身のせまい窮乏生活。


 あまりの窮乏ぶりにかつての家臣たちが生活費をカンパしたほどだとか。


 そして、斗南に移った会津藩士は乞食よばわりされ、餓死。

 東京に出てきても、旧会津藩士とわかれば、就職口や待遇などでいろいろ差別されまくったという。



 っくしょう!


 現・会津若松市民として許せねーっ!

 なんでもいいから、ひとこと言ってやりたいっ!



 極限の疲労と退屈のコンボで、俺は妙に攻撃的気分にシフトしていた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る