10 彦根藩主 井伊直弼

 


 中雀門の先は広大な台地。


 そこにひろがる壮麗な木造建築物。



 江戸城本丸御殿っ!



 烏羽色の屋根がぐっと圧するようにせりだし、つややかな太い柱がそれをささえる。


 その奥は幅ひろい式台――玄関のようだ。



 大野に助けられて、高い敷居をあがる。



 入ったところは、広い廊下といくつかの部屋からなる建物『遠侍棟』。


 遠侍とは、玄関の古名。



 会津松平家など数家のみ、刀番一名が式台にあがることを許されている。


 残りの供は、中雀門そばの長屋で、主君の帰りを待つらしい。


 他藩は、刀番も全員そっちの長屋で待機。



 こんなささいなことからも、徳川幕府内における容さんのポジションがしだいに判明。


 俺が思ってた以上に、会津は大名ランキング上位なんじゃね?



「殿、佩刀を」



 ぼんやりしてたら、大野にうながされた。



 帯から大刀を抜き、預ける。

 腰には脇差だけ。


 ここから先は、大刀携行が許可されていないらしい。


 大野は、主君の衣装の乱れを手早く整え、頭をさげた。


「では、いってらっしゃいませ」



 って、言われても……。


 ここまでたどり着いた蓄積疲労で、すでにもう完全なヌケガラ状態。



 ぼーっとつっ立っていると、羽織姿の坊主が出現。


 会津葵紋つきの羽織。

 字幕はなし。



「肥後守さま、こちらでございます」



 肥後守?


 あ、容さんのことね?


 考えながら坊主をまじまじ。


 みるみる頬をそめユデダコ化する坊主。



 …………お、俺、なんかしたか?



 インフォメーションもないようだし、とりあえずついていくことにする。


 ここまでいっしょだった大野はこない。



 なんだか心細いのは、俺? 容さん?



 つい数歩、大野のところにもどりかける。


「殿、今日は泣かずにおすごしくだされ」


 そのささやきに、歩みがとまる。



 今日は……泣くな???


 ってことは、いつも泣いてんのか!?


 マジかよ、容さんっっ?


 あんた、いくつなんだよっ?


 俺とタメくらいだろーがっ!?


 入園したての幼稚園児じゃあるまいしっ!



 小さく応援ポーズを送ってくる大野にはげまされ、しかたなく踵をかえす。


 この奥は大名しか入れない場所。


 江戸城内部は、廊下や部屋が複雑に入りくんでいて、やけにわかりにくい。


 どの方向にむかっているのか、さっぱり見当もつかないまま、坊主のうしろから城内深く侵入。



 ふだん履きなれない足袋なのに、妙なフィット感があるのは、容さんの皮膚感覚?


 足袋が一足ごとにキュッキュ鳴るのを聞きながら、畳敷きの廊下を歩く。


 案内されたのは、襖で囲まれた小部屋。



「ただ今、茶をもってまいります」


 ユデダコは一礼して消えた。



 ここは坊主部屋。


 登城した大名をサポートする表坊主の控え室。



 表坊主は、表御殿の座敷を管理し、大名・老中への給仕が主な仕事だ。


 とくに御三家・溜詰の喫茶担当は『数寄屋坊主』とよばれている。


 さっきのユデダコは会津藩担当なので、羽織には目印の会津葵がついていたのだ。


 坊主衆――雇用主は幕府だが、世話する大名家からもかなりせしめてる。


 こいつらに介助サービスを受けるため、各藩とも、それぞれの担当にたんまり謝礼をわたす。


 坊主は何藩もカケモチOKで、けっこうオイシイ仕事らしい。


 その謝礼の見かえりとして、大名は坊主専用の部屋で休憩させてもらえる。


 江戸城には大名用の公式休憩所はないので、殿さま連中は、登城日にはそこでお茶を飲み、昼の弁当を食べる。


 こんな場所ですこし息抜きしないと、大名もメンタルもたないのかもしれない。


 御殿内には同じような部屋がいくつかあり、家ごとに決まった所に案内されるようだ。



 俺が連れてこられた坊主ルームにはすでに先客がいた。


《井伊掃部頭直弼・彦根藩主》


 オッサンには字幕がついた。



 それで、なんとなくわかった。

 字幕の謎が。



 字幕が出ないやつは、もともと容さんも名前を知らないんじゃないか?



 医者は、危篤中に井伊家から派遣された男。


 岩瀬とは今日が初対面。


 坊主は身分的に親密なつきあいがない。


 ……と、考えれば納得がいく。



「容保殿!」



 はっきり字幕の出た井伊直弼。


 歳は四十くらい。


 大柄なメタボタイプ。


 髪は薄め、赤味がかった健康そうな顔。


 うれしそうに立ちあがるメタボおやじ。



「もう具合はよろしいのか?」



 ………はぁぁ?



 何日も前から「早く登城しろ」「早くこい」ってうるさかったのは、どこのどいつだよ!?


 あんたがしつこく催促するから、しょうがなく今日きてやったんだろーが!


 じゃなかったら、もうすこし鍛えてから登城したわい。


 そうしたら、みっともないザマを岩瀬に笑われることもなかったのによぉっ!



 すげぇ、もやもやするなっ!



 ……いや、落ちつけ。


 ここは大人としてふるまうべきだろう。


 いちおう、会津藩の代表――殿様なんだし。



『あ、ども』


 俺はそうあいさつしたつもりだったが、出てきた言葉は、


「長らく登城をひかえることと相なり、ご迷惑をおかけいたしました」


 そう言いながら深々と頭をさげていた。



 身体の中に安心感に似たほんわかした気分がたゆたう。



 あ~、なるほど。


 容さんにとって、井伊直弼は本当に近しい人なんだ。



 なんとなく俺のもやもやは置いてきぼりになったまま、井伊と仲よくならんで喫茶。


 オッサンから病状についていろいろ聞かれ、ぽつぽつ会話しているうちに小半刻(三十分)がたった頃、


「そろそろ刻限にございます」


 室外から声がわいた。



 井伊は顔をくもらせ、ため息をついた。


「まいろうか」


 井伊につづいて立ちあがる。



 先導する坊主にしたがって延々とつづく廊下を、これでもかこれでもかと、ひたすら歩かされる。


 途中、西国大名Aさんが傷害の現行犯でパクられたあの有名な廊下も見学。


 とはいえ、当時の建物は焼失し、今の本丸御殿は弘化年間に再建されたもの。


 被害者Kさんの血痕も、チョークの人型も当然ない。


(てか、ここでは死んでねぇし!)



 松の絵の次は、竹やぶの絵が描いてある廊下を通り、坊主はあるところで足をとめた。





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