第2話 フツーちゃんは『普通』を買いに来ました
ここ彼岸町は、丁度東京と神奈川の間に位置する町で、『裏野ハイツ』はこの町に存在していた。
街と言うには些か寂れていて、かといって、田舎かと聞かれればそうでは無い。
駅前には、昔ながらの商店街が軒並み店を構えていて、夕刻ともなると夕食の買い物を悩む主婦達へ、店の主人の世辞混じりの威勢の良い、かしましい呼び込みが喝采する。
この町には、風光明媚な観光名所が有るわけでも無く、近くに若者が好むアパレル系の店舗が入るようなショッピングモールが有るわけでもない。
特段、長所と呼べる長所が見当たらないこの町は、逆に短所と呼べる程の欠点も無かった。
だがそれでも、中途半端に良い交通の便と、ゆっくりと時間の流れる、どこか懐かしさを感じさせる町の風情が人を引き寄せている。
何もかもが半端な『彼岸町』。
駅の改札を出てすぐの、アーケードのある商店街を抜けながら歩くこと七分。コンビニエンスストアと郵便局のある通りを曲がった所に『裏野ハイツ』は建っていた。
――――コン、コン。
木製の古びた扉が叩かれて、籠った音を鳴らして誰かの来訪を知らせる。ドアの向こうから、見知った女の声が「裏野さんよ」と重ねて説明をしていた。
「あ、開けてくださいっ!大切な用件があって来ました!」
友人も彼女もいない、しかも、今年で四十になる無職の男――ここ102号室の住人である、裏野薫を訊ねる客など限られていた。
「チッ、ババァか。入れ……開いてる」
「そぅ、それじゃ入らして貰うわね」
勝手知ったる様子で扉を開けて入ってくるのは、好々爺と言う表現がよく似合う女性。ベージュのワンピースに薄紫色のカーディガンを羽織った軽装を違和感無く着こなして見せる。
この『裏野ハイツ』の最古参、菊。
裏野とは長い付き合いになるのだが、未だ謎の多い201号室の住人だ。
扉の
「……何の用だ」
愛想の欠片も無い投げ槍な態度に、訪問したババァと呼ばれた女は機嫌を悪くする様子も無く、艶やかな笑顔を裏野に向けた。
七十を越えた老女。だが、若作りの域を越えた瑞々しい肌を前に、言われなければ誰もそんな高齢だとは思わないだろう。
「薫君、このハイツの『怪奇』については知っているでしょう?あなたが『あの子』のために立ち上げたサイトよ」
その言葉に、男はやっと読んでいた雑誌から視線を起こし、三白眼の鋭い目付きを少し見開きながら目線を寄越す。
菊の横には、立派な髭を生やした渋い老練な雰囲気を醸し出す燕尾服の男と、肩口で綺麗に髪を切り揃えた白のワンピースに黄色のカーディガンを羽織った少女が立っていた。
「――――おい、部外者の前で行き成り何を喋ってやがる!?まさかとは思うが話したのか!?チッ、それがどうした?今でもアイツは中で遊んでいるんだろ?」
「その反応だと、サイトを与えた『あの子』が今どうしているか知らないようね?ちょっと大変な事になっているようよ。……それと、この子は、部外者ではないわ」
「部外者じゃない、だと?」
「初めまして。わ、私は白雪姫。私の『普通』を買い取りに来ました」
「……あぁ?」
何だコイツ、頭のネジブッ飛んでるのか。
「何だコイツ、頭のネジブッ飛んでるのか」
「――――!?」
「そんな顔をしてました。みんなが私に付けてくれた渾名は『フツーちゃん』。普通から一番離れた私を『フツーちゃん』と呼んでくれました。だから、私は、ボタンを押せなかったことを凄く、後悔……したんです」
「何を言って……?」
「どうしてあの時、部長達と一緒に行かなかったのかって。どうして私は残っちゃったのかなって。毎日がどうしてって、後悔ばかりなんです……セバスチャン」
「了解です、お嬢様」
「……?オ、ォオ!?」
――――ドン、ドン!
セバスチャンと呼ばれた老人が軽々と持ち運ぶ黒のトランクケースが床に下ろされると、確かな重量を持ったソレが古びて艶の消えた木の床を鳴らした。
「だから……もう後悔はしない。ここに、二億あります。私のお小遣いをかき集めて来ました」
「に、二億ぅ!?」
二億円を、お小遣いと軽々と称して見せる少女。
出会ってものの三十秒、話の主導権は既に少女に握られていた。
「テメェ、ガキ、金なんて持ち出して何をしようと」
「このハイツの買い取り。そして『ヒガンバナ』についての情報及び秘密の開示を求めます」
物事を金で解決しようという、少女のあまりにも無礼な態度への恫喝は、他でもない少女によって被せられた、核心に触れる一言に一蹴されて、裏野の荒ぶる叫びは弱々しい驚嘆へと変わっていく。
「――――なっ!?」
菊は、困ったように笑みを浮かべながら、肩を竦めて「腹を括りなさい」と促してくる。
菊が人を認めるなど有り得ない。
そのジェスチャーだけで、目の前の少女が少なくとも『普通』の人物ではなく、付け加えて裏野ハイツの『秘密』をある程度知ってしまっている事を悟る。
「どこまで、知ってやがる?ババァ、テメェ、またとんでもない厄介事を持ち込みやがったな!」
「しょうがないじゃない。だって、私の孫が迷惑を掛けたと言われては対応せざるを得ないわ。それに、『フツーちゃん』色々覚悟を決めちゃっているみたいだし」
厄介事。そう揶揄された少女は、ただでさえ人相の悪い男が、機嫌を悪くして歪めた凶悪な面構えに肩を震わせる。
見たところ少女は一人。口封じするのも不可能では無い。
「それに、今回は私もこの子の味方よ」
「――――なっ!?おいっ、それじゃあ更に悪いじゃねーか!?おい、待て、ババァ!今ならまだ……」
「ビルの屋上に三人。外壁の外に五人」
トランクケースの握り手を掴んだまま、瞳を閉じたままの執事の紳士から、低くダンディーな声が発せられる。
「あ?何を言って……?」
「武装はアサルトライフルM4A1カービン、近接戦闘は全員軍隊経験者のデザートイーグル所持、そして私は……」
黄色の花柄レースのサマーカーディガンを捲ると、腹に巻かれたデジタルのタイマーが数字を変化させている。
分かりきった見てくれのソレを、震える声で質問せずにはいられなかった。
「……ナンだよそれ?」
「何だと、思います?」
減少するモニターの横で、明滅する赤の光。配線剥き出しの基盤部。100前後で行き来する数字は恐らくは少女の脈拍。
華のように笑う女子高生と無骨な爆弾。
この場で、汗一つ掻かずに華のようにニッコリ笑ってみせる少女に恐怖した。
「本気でイカれてやがるな……テメェ!?」
「私は『フツーちゃん』ですよ。友達だって、私のこっちの顔は知りません。それに、お父さんとかはもっとエグいですから」
白雪財閥。
この町の外れにある、化粧品を主とした製薬会社で上場もしていたはず。黒い噂の絶えない大企業。確か、この少女が最初に名乗った名字は『白雪』。
「一つ教えろ。何で裏野ハイツの『怪奇』に拘る?俺達は誰にも迷惑を掛けているつもりはないつもりだ」
「――友人が三人、消えました」
「……そんなはずは!?」
二回りも年下の少女に手玉に取られ、裏野はこれ以上は無いと思っていた動揺に、更に動揺が重ねられる。
異様に冷やされたこの部屋で、冷や汗が止まらない。自分の作り上げた物が誰かを傷付けるなど信じられなかった。
「――無い、とでも?」
喉が乾く。少女の細めた目に、心の中を全て覗き込まれているような錯覚に囚われる。
まるで喉元にナイフの刃を立てて尋問を受けているようだ。
主導権を握られているのは話だけではない。生殺与奪権、この場にいる全員の命の手綱は『フツーちゃん』と名乗るイカれた少女の手の内にある。
「それで、商談を受けてもらえますか?面倒なのは嫌いなので、返事は短くハイかイエスでお願いしますね」
「それは、選択肢になってねぇよ。……分かった、降参だ。返事はイエスだ。拒否権が存在しねぇ」
「協力して頂けて何よりです。契約、成立ですね」
――――パチパチパチ
「お嬢様お見事です」
「フツーちゃんやるわねぇ」
どう考えてもイカれたお嬢様は、その場でたおやかに微笑むと真剣な瞳で「これからが本題だ」とサインを送る。
「取り急ぎ書状を結び、確認したいことがあります。それと、菊さんにもお尋ねしたいんですが……『彼岸花』。この言葉に何か覚えはありますか?」
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