デッドエンド

みんなもともと生死

第1話 望まぬ死

「スパラキシス(すばらしき)一日になるといいな」

 商売道具の花を見つめながら、特に何も無く平凡な一日が過ぎていくのに、

私は花の名前にかけたダジャレを言って自己流の験担ぎをしているの。

この独特なダジャレは義母の蒔さんが時折口にしていたもので、

今私は真似してみている。

蒔さんならこう言うかな、言うよね、たぶん。っていった具合にね。

 あのね、一年前の冬、私は風邪気味で寝ていた、ふかふかのベッドに横たわって。雨が降っていたせいか、客も来ないし、蒔さんは悔しそうに花を撫でながら、

「売れなくても気にしない、へこた蓮華草」と言いながら店を閉めたわ、ふふっ。

蒔さんはきりたんぽ鍋を作ろうと、

近所のスーパーにきりたんぽの材料を買いに行ったの。

それで、えっと、見えなかったのか、

いや、見ようとしなかったのか、腐った車が蒔さんを轢き逃げしたのだった。

はーあっ、詩瑛ちゃんったら、風邪引いちゃって。

卵酒用に日本酒と卵も買った、壁にぶつけて二個割れたのはむかつくけれど、

早く帰ろう。

白い水仙がきれいだね、まあ茉莉花の方が私は好きなんだけど。

祭りかって空耳に聞こえて、なんか面白い。

冬に茉莉花の祭りを開いて、

一部の地方ではクリスマスと並ぶ程の知名度の祭りにしたい。私が発信地。

いつか資金を貯めて、大量に茉莉花を購入し、

駅前の広場かなんかで飾ってみたいな。

駅前の一角がすっかり白に埋まって。大量の茉莉花。

盛大な祭りかと人々は勝手に予感。ひょえぇ、これは何ぞと集まる人々。

そこにぐんぐんの紳士が、

「茉莉花の祭りかぁー、ダジャレから思いつくとは、

粋だね、面白いユーモアのあるほんわかとした女性だね。

毎日楽しく爆笑の嵐に違いない、胡蝶蘭を君に贈るよ。

結婚用の花としてはベタ過ぎるかな?

というか、あえて結婚式まで控えといた方が良いかな」

ああ、ダメだダメだ、訳の分からない妄想を広げてる場合じゃないよ。

妄想を振り切り、よいしょとペダルを踏み、

前に漕ぎ出した蒔さんがふわりと宙に浮く。

すぐに圧倒的な鉄の固まりの重みがのしかかって、

すぐに彼女の何もかもを無くす、無情に永遠に。


 二時間経っても、四時間経っても、帰ってこない蒔さんに

てっきり私は本屋で花の本を読み漁り、夢中になっているものだと思っていたわ。

花にかかると、十時間は休憩を挟みつつも軽く喋り続けられるくらい、

蒔さんは花を愛していた。

有名でない、無名な花ばかりチョイスして、さらにこれはどういう花なのか、

原産地は?花言葉は?花の名の由来は?と質問を繰り出すヤワな店員泣かせの

花マニアにも、ダジャレを挟みつつ、丁寧に答える蒔さんが妙にカッコよく見えたな、ビギナーな私には。

夢中になって花の本を読んでいるものだと思っていた。

テテテテと会計を済ませ、片手に「ベゴニアの執念」とか、

そんな感じの珍妙なタイトルの小説が入った本屋のビニール袋を持って。

突然の電話。しぶしぶ渋い茶を飲んで、受話器から聞こえてくる音声に耳を澄ます。空間が硬直した。

絶望と諦念が染み込んだ、気色の悪い包帯で心の芯をぐるぐる巻きにされたような。


 蒔さんの葬式の翌日に私は事件現場を見に行った。花を供えようとは思わない。

直接届けられるなら届けたいし、ひき逃げしても捕まらず、

恬然としている犯人の車が通過したこの道路。

ふぬけの傍観者ばかりのこの道路。

不正がまかり通るここよりも、墓に花を供えたい。

流れた血液と卵液が混じり合ったのか、奇怪な色の染みになっていた。

スーパーを出た時点で雨は止んでいて、

悲しい染みは流されることもなく残ったということか。

その染みを蒔さんのお気に入りの花で隠してしまいたかった。

さっきと言ってること違うね、私。何でなんだろう。

残した跡を踏まれるのが嫌なのか、染みを見ていると蒔さんの苦しむ姿が

目に浮かぶようで嫌なのか。

それとも、と花を飾ろうかどうかといった気分にさせた理由を

考え続けようとしたけれど、虚無的な想いがじわじわ広がって駄目だった。

私はしばらく立ち尽くし、行き場の無い感情に煩悶していた。

でも、違うな、ここで悩むのはと思い、シャッターに貼った臨時休業の紙をなるべく早く剥がさなきゃ。剥がさなきゃ。私は二度呟いて、店へ駆け出した。


 だらんと椅子に座って、カラフルな花を見つめつつ、

目の裏から蒔さんが離れなかった。

二週間、ずっとこうしている。どうにもならない。

って暗い、まるで枯れ気味の菊の花びらをむしり取る感じね、この有様じゃ。

紙を破り捨てるように、菊を藪蘭でも良いじゃないのとダジャレを吐いて、

無理に明るくしようとして、余計に落ち込んで。

葬式の席。実子でも無いし、蒔さんの親戚に反対されるかと思いきや、

私が花屋を継ぐことを快く承諾して、優しさを思い出して泣いて。

仕事を終え、店を閉めるとき決まっていつも蒔さんは、「チャイブ疲れてるのね」と言って、私はクスッと笑う。

手荒れしてひびの入った小さい手。

パーマを毛先にかけた茶色のくるくるしたロングの髪も。

ダジャレももう聞こえてこない。

できれば、一ヶ月でも何ヶ月でも休んでしまいたかった。

しかし、そのせいで潰れたと思われるのは困るし、客足が途絶えてしまう。

そうすると、蒔さんが蒔いた種を私がおじゃんにしてしまうことになる。

どうにかして、何とかしないと。立ち上がらないとね。

棺桶に横たわる、うたた寝しているような死に顔じゃなく、

へらへらっとしてダジャレを飛ばしまくる元気な顔を思い浮かべて、

私は虚空に向かって笑わせてよと言った。

それから、蒔さんの遺影を優しく撫で、観念上の鉢巻きを頭に締めた。

ぐんっと気が引き締まった気がした。


 特に高校に行く気も無く、16歳の頃から店では働いていた。

蒔さんは、「学費出すから高校行ってみたら?」と言ってくれたけれど、

中学1年生の時に苛められて以来、

学校に対するモチベーションは霧消してしまったし、

私としては蒔さんと一緒にいれればそれで満足だったの。

大多数のどうでもいい人間と接するより、本当に大切な人と過ごしたい気持ちは

間違っているかな?

最初はぐちゃぐちゃに花を切ってしまい、陰惨無残な感じ、

てーんでダメで本当にこの仕事が務まるのか、

ああもう、とネガティブな妄想が炸裂し、

花の墓場と化した店内で号泣する私と蒔さんが浮かんだりした。

三年寝太郎、違った、三年かけて一人前になれたかと聞かれたら自信は無いけど、0.75人前くらいには成長できたのかなあ。

もう19歳か、来年成人式か、でも私は行かないで花を売ってよう。

それが蒔さんへの恩返し。もう……いないけどね。

客は20分に一人来るか来ないか。朝10時から20時までが営業時間で、

13時から14時まで昼休み、私は菓子パン食べながら蒔さんの残した本読んでる。

可憐な花ね、新しく仕入れたいけど何削ったらいいかなって具合に。

一日三十人来れば良い方で、雨の日はだいたい赤字。

けっこう売れ残って、ちょっとヤバイ感じだねと花を見つつ、

へこた蓮華草と蒔さんの声の抑揚・調子を再現しようと

私は真似を相変わらずしている。

明るく、柔らかい蒔さんの声色をイメージしながら。しょんぼりした花に水あげて、そういえば蒔さんは花をしきりに撫でてたなと思い出し始めると、

あれっ、感情が溢れた水みたいになって、

ぐすんぐすん泣いてしまうからガマンガマン。

 腰の曲がったお爺ちゃん、帰宅途中のOLとサラリーマンのカップル、自称ミュージシャンと思しき、下唇の下に髭を生やした二十代後半くらいの男に花を売っていく。

福寿草、スノードロップ、オレンジで統一したアレンジ物、ヒマラヤユキノシタ。

もうそろそろ閉店って時に、高級毛皮着た女。

店で一番高い花を買っていきそうね、

儲かる儲かると喜んだのも束の間、

1本130円のガーベラを5本選んだ。

何だ、もっと高価な花を買うかと思っていた私は内心うな垂れていた。

でも、こんなことを思っている自分が拝金主義的で浅ましい。

女は負と負を足した、やけっぱちな明るさを会話や挙動に漂わせていた。

苦労しなくても金が手に入る、私は運に恵まれているからと豪語する女が

どこか哀れに見えた。

一歩間違えれば、私もこの女みたいになってしまうのか。

慢心に注意しないとねって、女を見ながら、もしやこの人は!?と

ある予感を覚え冷や汗がつるつる滑り、流れる錯覚がした。

この世の全てがくだらない、つまらないといった、虚無的な笑いがちらちら見える。

そして、その笑いを一時期の私が常に表していたから、勘でわかるの。

絶望的なニーチェの言葉に一番共鳴してしまうような。

強い自殺願望が身体中に渦巻いて、ある日爆発し、

様々な方法で命を絶とうとする、それは未練の集大成。

「すいません、あなたは今、なんかこう、

人生が途轍もなく無味乾燥していて、本当はうんざりしているように見えたんです」

 笑い飛ばされると思ったのに。あ、と少し驚いた声をあげ、

それからじっと黙っている女。

見開かれた女の目が怒りを意味しているのか、

驚きを意味しているのか判別不能。覚悟していた通りの気まずい沈黙が流れて。

「あはははは、わかっちゃうんだ。怖い怖い、

ねぇ、何で。ねえってば。みすぼらしい私の足跡にみすぼらしい花を飾って、

薬を大量に飲んで、ふふっ、楽に死にたかったのに」

 今度は私がうろたえる番だったわ。失礼を承知で、

嫌な予感を勝手に信じて言っただけなのに。

ただ黙っていると、耐えかねて女が口を開いた。

「でも一応やめよっかな。明日時間空いてる?

さっきまで死にたがっていた自分が馬鹿みたいでさ、遊びたいんだ。ぱーっと」

 このまま放置したら、また女は自殺願望を復活させ、

命をすっぱり絶つかもしれない。

そう思うと、本来は花屋を切り盛りするべきなのに、

この女の誘いを断れる訳でもなく、そもそも自分から女の暗部を詮索し、

暴いてしまったのだから、付き合わないのも不義理じゃないか。

戸惑いが私の中に埋め込まれた感情メーターを振り切って、

やれない気分になった私はうつむきがちになって、

接客中なんだからと慌てて顔を上げると能面のような無表情が見つめていて、

ヒヤリとして。

 明日の13時にね。駅前の時計台の前で女と会う約束をした。

自己を一切殺した能面フェイスをやけっぱちスマイルに切り替え、

女はケラケラ笑っていた。ケラケラと。

 

灰色の時計台の陰から女はぬっと出てきて、その時私は背後の女に気付かず、

何だ、来てないじゃない。騙された、むかつくと軽く憤っていた。

やにわに視界が遮断。社団法人ブラックアウト。

私は突然の目隠しにわあっと驚いたよ。

こちらが誰ですか、何の用ですかと問うても無言。

ははっ、どうせドラマかなんかの撮影だろう、

ってんで人々は無関心で私は訳の分からない男か女に誘拐される。

あわわ。白昼の駅前で。三十秒ほど経ったところで、

ガタガタ震える私の肩にポンと置いて、びっくりした?と聞く女が小憎らしかった。互いに自らの名前を名乗りあって。偽名かもしれないけど。

「栗野詩瑛といいます」

「しえちゃんね、よろしく。胞弊むじなっていうんだ」

 ほうへい?と漢字をうまく思い浮かべられないでいる私に、

やっぱりわからないよねと呟きながらむじなは携帯をバッグから取り出すと、

ぐじぐじ打ち始めた。じぐざぐに動く蒼白い親指。

打ち終わったむじなが私の眼前にさっと携帯を突き出す。

携帯の画面に映るその苗字は胞子の胞に弊害の弊と、ずいぶん不吉そう、

気色の悪い、策略を尽くして人を破滅させるのを

無上の喜びにしていそうな感じがして。

猛毒の茸が心に巣食っていて、

主に生えているのは「悪意」「呪詛」「滅亡」の三種類。

それらの毒に蝕まれ、悪役として世界に存在しているのか、むじなよ。

いやいや、名前だけで人を判断するなんてのも愚の骨頂かもね、反省反省。

「じゃあ行こうか」と言うむじなについて行った。

横に並んで、平凡な道を歩いた。駅から離れるように。


 和骨董屋の店先。

一時間ほど品定めをして、印籠、市松人形、大黒、十手を購入したむじな。

総額31万4千500円也。

一日の売り上げの約六倍で、今まで生きてきて私はこんな贅沢したことは無いな。

しかも現金払い!?大量の札束が眩しくて、羨ましくて血の涙が出そう。

ううむ、資産家の令嬢か、または大企業の部長クラス辺りの娘か。

だけど、そうして値の張る骨董品を買ったのに、

ちっともむじなは嬉しそうではなく、

禿げ頭でくたっとした着物姿の店主へ作り笑いを浮かべている。

 店を出て、さっそくむじなは十手を取り出すと、

ちゃきっと右手にこれを構え与力気分で、不敵な笑みを浮かべつつ、

私の背中をつんつん突いてきてうざい。

つんつんつんつんつんつんつんつん、ああああっ。私は無実なのに。

何もやっていないのに。くるくる回って避けていると、

諦めたむじなは十手をそこらに捨ててしまった。ぽーんと。

地面にぶつかる瞬間、十手はちゃりちゃりちゃりーん、とは音を立てず、

「ひいいっ」と貧弱な男の声で何とも人間じみた悲鳴が十手から発せられたなら、

捨てられた十手の悲哀が擬人化されていて面白いけれど、

もちろんそんなことはない。

ごつっとありきたりな効果音を発して、道路に十手が転がった。

買って間もないと言うのに、勝手気ままな態度で

貴重な江戸時代の十手を仕入れるまでの禿げ店主の苦労をふいにするような、

って一介の花屋の店主の私が骨董屋のシステムなど知る由も無いが、

もしかすると、店の品物を盗もうとする泥棒に十手で応戦し、

苦闘の末に撃退したといったエピソードがあるかもしれないじゃない。

むじなの捨て三宝な行為に好意を抱ける訳は無い。

というか、彼女の行為からどこまでも腐りきった

下衆な人間だということは容易に想像できる。

 人気の少ない脇道を歩く。疲れて立ち止まった

むじなの影が染み出した心の闇に見えて、少しブルブル震えた。

 夜の河原は肌寒く、しかも今は冬で、こんなことなら途中に服屋にでも寄ってジャンパーでもコートでも買っておくべきだった。

芝生に散ったフロッピーディスク、CD、DVDがシュール。

これは錯乱したむじなが投げたもので、15分前から涙を突然流し始め、

電器店の袋からそれらを取り出し、

ビリビリ包装を破いてあはあは泣き笑いながら、

最初にフロッピーをシュッシュさせた。

むじなは狂気を露にしたのだった。ビビッた私は呆然と見ていた。

宙に舞って、きらきら輝きながら、CDが描く鮮やかな残像を。

「私の人生なんて腐ってる。記録するほどの物でもない。あはは、舞え舞え。CDの破片を体中に刺して死んだら記録に残るかな、愚かな記録よねぇ」

 とか言っていた気がする。あまりの豹変ぶりに、どうしていいかわからなかった。そりゃそうでしょう。いきなりCDばら撒くんですよ、30枚くらい。

今も静かな空間に狂った笑い声が響いていた。

むじなの声と共にやがて私の声も狂気を帯びて。

となったら楽なのかもしれないけど、正気だ。

このまま放置した場合、うるせぇな、うわっ、変な女がCDばら撒いてる、危ねえ、通報しようって近隣住民に通報される恐れがあるし、

通りがかった人が警察に私がCDをばら撒かせて暴れさせたのではと嘘の証言をする可能性がないとはいえない。

暴走を止めようと思ったが、平手打ちは暴力的で嫌だし、

両腕を押さえようとしても抵抗したむじなに突き飛ばされるだろう。

私はMDを投げ始めたむじなを抱きしめた。

額に思いっきりMDが当たって痛い。私の行動を見て、

「レズか?」と的外れで場違いな指摘をする人がいそうだが、

人間がそんなに好きではないんだな、これが。

同性であれ、異性であれ、愛すことができる人はある点では正常なんじゃないですか。ぽっちゃりした体を抱きしめながら、訳の分からない自問自答をしていたら。

「さっきから見てたけど、何だおい。散らばったゴミどうすんだよ、ええ?嬢ちゃんよ、その頭イカレタ姉ちゃん病院に連れてかねえのか」

 右斜め上からタチの悪い50代くらいの男の怒声。

坂の上の道路から芝生の私たちを見下ろしている。面倒くさいことになったな。

腕の中で泣き続けているむじなを一緒に逃げるために引き離し、手を掴んで走った。覚束ない足取りで遅れつつもついてくる。まだ怒声はわずかに聞こえてくる。声を押し殺して橋の下まで逃げ切った。はあ。

ほっとしたら無性にココアが飲みたくなった。橋脚にもたれかけるようにして、うとうとし始めたむじなの様子を見て、ようやく落ち着いたと安心して自販機を探しに行った。

 午前1時。眠っていたむじなが目を覚ました。ありとあらゆる物事を放擲した、どろっとした目ではなくて、まともな目。よかった、とりあえず正気に戻ったようで。むじなが眠っている間、

手持ち無沙汰な私は携帯の光で起こしてしまわないように

彼女から離れて猫のブログを見ていた。

可愛い猫に微笑みが止まらない。

マタタビを取り扱い商品に含めようか半分本気で悩んだ。

捨て猫を拾ったといった日記を見る度、ぎゅうと胸が締め付けられた。

野ざらしにされている猫が。ノザラシ?路傍に捨てられ困惑する猫を想像するうち、悲しみと混乱が拡大してきたので、飛び跳ねる猫を真似して飛び跳ねた。

そうした物音にむじなが起きてしまったのかもしれないな。

追想する私の肩を叩くむじなは錯乱したことを謝ると、

まだ行きたい所があるという。

日が昇ってからにしないのと説得しても、むじなは立ち上がり、

河原の上へと続く階段に向かって歩き出した。

住宅街を通過し、たどり着いたのは最近潰れたらしい缶詰の工場前。

自販機が孤独に光っている。

「ここなら大丈夫そう。ぐっと刺して、早く私を楽にしてよ」

「し、死なないって言ったのに」

「私が死のうと思ってるのは男に捨てられた訳でもないし、友達に裏切られた訳でもないわ。いつでも超えられない。

スポーツをやっても、バンドをやっても上には上がいて、っていうのも嘘。

本当のことなんて誰にも言いたくないわ、あなたにも。

まぁ、昼間の骨董屋の支払いは借金なんだけどね」

「少しずつだけど、払おうか?」

 正直何で私が昨日会ったばかりのこの女に同情をして、

甘っちょろい言葉をかけてしまっているが、命がかかってるからで、

払うかボケ、さっさと死ねなんて言うことは虚栄心が邪魔をして冗談でも言えない。救いのない現実ばかりで嫌になる。

「あはは、そんな必要ないわ。これから死ぬんだし。

借金苦とか思わないでよね。つまらないから死ぬの」

「本当にそう思ってるの」

「うーん、っていうか、もはや意味なんて無いのかな。死んでみたいから死にたい」

 そう言って、バッグからナイフを取り出し、私に渡そうとする。

私の手で刺し殺させようと思ってるのだろうが、

なぜ人の命を握らなきゃいけないのか、必死に首を振って拒絶するけれども、

ぐいぐい柄を押し当ててくる。押し当てるのをやめ、右手でナイフを持ったまま、

何を思いついたのか空いている左手で私の右腕の長袖をめくる。

駄目だ、やめて欲しい、私がこの女の自殺衝動を見抜いたように、

女にもかつての私の苦悩を見破る力があったのか?

「あーあ、やっぱりか。あると思ったんだ、リスカの傷。

ずいぶん浅いね、大したことないじゃん」

 じろじろと腕の古傷を観察し、思慮に欠ける言葉をぶつけてくる女に怒りを覚え、腕を強く振りほどいた。

「いきなり人の傷見ないでよ!!何、あんたに何がわかるの。最低な女ね」

「早く刺してよ、腕をめくって傷を見たのは謝るわ。ねえ、早く刺してよ」

 いくら頭に血が昇っていても、女の要求に答える訳にはいかない。

私は誰かが止めに入ってくれることを願ったが、

真夜中に誰かが通りかかるはずもない。

このまま拒み続けても、女はナイフを握らせようとするだろう。

「わかった。ナイフで刺してあげるよ」

 女からナイフを受け取るとき、わずかに震えていた。

「腐りきった世の中だけど、それでも生きようとは思わないの」

 ナイフを握り締めたまま、女に説得を試みる。

「腐りきった世の中だから、死ぬんじゃない」

 私としては女が走りながら刃に近寄って来る前に、

禍々しいナイフを足元に転がして蹴飛ばすつもりだった。

しかし、素早く私の腕を掴むと彼女は自らの腹部に引っ張る。

さらに腕から手に移動して、私の手の上に自らの手を重ね、

ナイフを離せないようにする。

「嫌だ……嫌、やめて。私は誰も殺したくない」

 女が全体重をかけて、ナイフへ寄りかかる。命が寄りかかる。

腹部にめりこんだナイフを持つ右腕が望まざる熱に触れる。

飛び散る血飛沫を見ながら、

女の自殺の理由は私を破滅させるためだったのか?

そう漠然と考えた。

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