六
『ねぇ、これから時間あるかしら』
土曜日。お昼前。自室のベッドに寝転がって読書をしていると、連絡先を交換していた唯先輩から突然のメッセージ。おっ、デートの誘いか? ……なんて、そんなわけないよなぁと思いつつも少々動揺しながら、返信を送る。
『一応暇ですけど……どうしました?』
『じゃあ今からちょっと付き合って頂戴。集合場所は……そう言えばあなたの家ってどこなのよ』
うーん、この先輩やっぱり高圧的……。
俺が出身中学を教えると、お互いの家はそこそこ距離があるとのことなのでとりあえず高校の正門前に集まることになった。涼しい快晴の下、自転車を漕いで待ち合わせ場所に向かう。
五分ほどの余裕を持って到着したが唯先輩は既に待っていた。安定の腕組み仁王立ち。私服の唯先輩、普通に可愛らしい。やっぱりちょっとお嬢様っぽい気がしなくもない。
「あら、早いわね。約束五分前に到着できるなんてなかなかデキる男じゃない」
「なんだか言葉に重みがないですね……」
「さて、じゃあ行こうかしら」
唯先輩はさっそく歩き出す。
自転車から降りて一息ついて、既に歩き始めた先輩の背中に俺は訊く。
「えっと……、どこに行くんですか?」
「お昼はもう済ませた?」
立ち止まって顔だけこちらに向ける唯先輩。いい角度です。かっこいい。
「え、あ、まだですけど」
「そうね、ならとりあえず何か食べに行きましょうか。千円以内なら奢ってあげるわ。急に呼び出してしまったわけだし」
わお、やったぜ。俺「先輩から飯を奢ってもらう」って人生初だよ。
……人生初の青春ぽいイベントがこの……自殺部とかいう謎の部活の部長と? いや、よく考えろ、女の子と一緒にランチだぞ? こんな展開が向こうからやってくるなんて普通に生活していたら絶対に有り得なかったはずだ。青木和海、感謝せよ。誰に? ……自殺部の部長さんに、ですね。はい……。
近くのファミレスで昼食。食事中の話題は意外と普通に好きな映画とかについてで、案外この先輩とは話が合うのかなぁなんて思ったりもした。
「台風クラブはやっぱり名作だと思うのよ。クライマックス、狂乱の夜の校舎と大雨の中の疾走。嵐のど真ん中で絡み合う狂気、脱ぎ捨てる制服、そして翌日の晴れ模様。思春期の鬱屈したエネルギーの爆発、瞬間の非日常。カタルシスがあるわよね。『これが死だ!』は本当に名シーンだわ」
ファミレスを出ても、続く言葉。いきいきと、超楽しそうな唯先輩。無邪気。
なんだか、こっちまで楽しくなってくるなぁ。
……何故でしょう。「そのニヤつき気持ち悪いわね」と言われました。
「さて、お昼も食べたことだし、行きましょうか」
「はい、そうですね。……あー、えっと、どこに……?」
「そんなに遠くはないわ」
そう言って、快活に歩き始める唯先輩。素直に目的地を教えてくれないということは、何かサプライズ的な出来事が待っているのだろうか。校門で会った時からずっと手に持っている紙袋も意味有り気だしな、うへへ。
自転車を押して、その背中についていく。
季節はいよいよ秋。日中でも過ごしやすい気候になって、ちょっと前までの暑さも、なんだかもう忘れてしまった。いろんなことはすぐ曖昧になっていく。そうやって人は、生きていくんだよなぁ。かずみ。
「和海くん、後ろ、乗せなさい」
交通量の多い大通りの信号待ち。はぁ、と一息ついた唯先輩はなかなか替わらない信号機を見つめたまま、斜め後ろの俺に向かって何気なく言った。束ねた後ろ髪がふわりと揺れる。
「へ」
「疲れたわ。ご飯の後だし」
そ、それって、あの、つまり、
「二人乗り」
はい。ですよね。
「えっと……、いいんですか?」
「何がよ」
「いや、その……」
二人乗りだぞ二人乗り! さらっと言ってのけたけども! ……やっぱり「あなたが必要」って……そういうことなのか⁉
「深い意味はないわよ。根暗文学少年には一大イベントにでも映るのでしょうけど」
……いや、おい。
「いいから早く乗せる」
「ふぁ、へい」
唯先輩は言うが早いか荷台に跨る。思わずヘンな声が出た。
「こんな大通りで二人乗りなんて、度胸ありますね」
「この道ちょっと行ったらすぐ、田園の広がる田舎道よ。道も広いし飛ばせるわ」
唯先輩を後ろに乗せて、俺は漕ぐ。うん、わりと青春。
田んぼ道を飛ばす。秋風が心地良く頬を撫でる。トンボが時折、自転車を追い越すように真横を抜けていく。腰にそっと添えられている唯先輩の手。心がむず痒い。目的地まであと二キロくらいあってもいいなと思った。
先輩の道案内に従って辿り着いたのは、中学校の正門前。大きな木々が校門を覆い、先に臨むロータリーと校舎はよくある平均的な公立中学という面持ち。
「ここ、は」
「私の母校」
自転車の荷台から軽やかに降りた唯先輩は、何とは無しにそう言った。すっかりくたくたになった俺は呼吸を整えながら、先輩の行動の意図を考える。母校。――何故中学校に?
「行きましょう」
いろいろ訊きたいことがあったけれど、校門越しに校舎を見つめる先輩の表情は真剣なものに切り替わっていて、俺は何の言葉も挟むことなく先輩の後ろをついて、敷地内に入る。
土曜日の学校はいくつかの運動部の部員たちがちらほらと活動していたが、大半の部活は午前で終わったのか、ほとんどは自主練などで残っている生徒たちのようだった。
「こういうのって、職員室とか通らなくていいんですかね」
「元生徒だし大丈夫でしょう」
いや、根拠になってないですよ、それ。
クラス教室の連なる校舎、とある場所で唯先輩は立ち止まり、空を見上げる。しゃがみ込み、手に持っていた紙袋から小さな花束を取り出して壁際のコンクリに置く。
目を閉じて手を合わせる。
それは見たままが確かなら紛れもなく、弔いだった。
――誰か、ここで亡くなった……のだろうか?
長い沈黙が続く。俺は立ち尽くしただ茫然と、その光景を見つめる。近くのテニスコートから無邪気に笑う少年たちの声が聴こえた。
先輩は静かに顔を上げる。その表情は遠く過去に、或いはどこまでも青い天に、向けられているようだった。
「あの、先輩……」
目の前で見た一連の行動について、きっとこの場に立ち会った誰もがそうするように、俺は尋ねようとした。
「……今は、何を訊かれても答えない」
けれど唯先輩は、何を訊こうとしているか判っていると言わんばかりに、俺の言葉を遮る。
「え……」
「私の話だけを、聞いて頂戴」
「……」
その真剣さに、俺は従う。
「――『自殺はいけない』と発言することは、きっと正しい。そして、正論故にそこに責任を持ち得なくていいから、多くの人は特に深く考えることもなく、或いはなんとなくな直感で以て、きっとそう言う。死をどこか遠いものだと思っているから、自分が誰かの自殺願望や、自殺のその瞬間に対面することなどないと思っているから」
ふぅ、と一息吐き出して、唯先輩は眉をひそめる。
「……勝手なものよね。私にはなんだか、その〝当たり前〟に納得がいかない」
その言葉に込められた静かな憤りは、何故だかとても冷酷に、俺の背筋に突き刺さった。
「私は、自殺を否定しない。自らの命について選択する権利を、人は持ち合わせていると思うから。……でも、でもね、生きるってことをまだほんのちょっとしか知らないで、広がっていく世界のことを想うことなく選ぶその死を、私は認めたくない。
四、五十年生きて、もうこれ以上人生に変化を望めない、そんなどうしようもないどん詰まりの中で選ぶ死は、案外妥当なんじゃないかって思ったりする。このまま大した変化もなく緩やかに老いていくのならいっそ、と、成熟した大人が、自身の人生に見限りをつけるのならば、それは自身で責任を持つ限りで、自由にしたらいいと思わなくもない。或いは不治の病、絶対に変わることがない苦しい現状、個人の尊厳の主張、そんな理由で、自らその命を終わらせる行為は、正当化されてもいいと思う。苦痛と共に生き続けろだなんて、酷な話じゃない。
勿論自殺には、残される周囲の人々なんかのことが絡んだりしてくるわけだけど、そういったことは一旦脇に置いて、当事者その人のことについて考えた時、幸せや絶望はきっと、どこまでも主観的なものでしかない。
絶望も幸福も相対化はできなくて、『みんな苦しんでいる』『誰かに比べたらあなたはマシな方』、そんな言葉には意味がない。けれど無責任にそんな言葉を並べ立てるような人間は、この世界にたくさんいる。そしてそういう人たちがまた無責任に、自殺について喚き散らす。
そんな人たちに対する憤りって、実は無駄なのかもしれない。そんなことよりも、例えば自殺を減らす方法なんかを考えた方がいいのかもしれない。……でも、結局、世界の生き辛さは、息苦しさは、そういう無責任な偏見からきてるんじゃないかって思ったりもする」
唯先輩は立ち上がる。横顔から見えた真剣な眼つき。淡々と続けられる言葉を、その真摯さに応えられるように、しっかりと聞く。
「自殺には絶対に反対だという意見も、認められて然るべきだという意見も、それらが確固たる意志と諸々の意見から導き出されたその人なり主張であれば、全て無駄ではないと思う。何の思索もなく発される『自殺はよくない』と、積み重なった経験と思索の上で発される『それでもやっぱり自殺はよくない』、そのふたつには大きな違いがあるわ。
『苦しくても生きるべきです』――それは、本当だろうか。『死を美化してはいけない』――死は美しくあったらいけないのだろうか。最もらしい回答があったとしても、よく考えたらそれはトートロジーだったりするんじゃないのか。
自殺に関する議論は尽きることがない。そしてきっと、答えだって出るはずはない。広大で、漠然とした思索の懊悩。個人の限界、世界の限界」
唯先輩は、先ほど供えた小さな花束に目線を落とした。校舎と校舎の間から覗く青空に、薄い千切れ雲がゆっくり流れる。
「そんな世界で、それでも私が、せめて私が、貫いていたいこと」
顔を上げた唯先輩。静寂は、その力強い言葉に、拓かれる。
「生きることは素晴らしいことだと思う。美しいことだと思う。どんな過酷が、残酷が、不条理があろうとも、私は生きていたいと思う」
素朴で、偽りなく、そして力強い想い。
「そして、だから――誰にだって自殺の権利はあるけれど、それを安易に行使するのは、勿体無いことだと思う。
私は、生を美しいものだとすることは傲慢ではないかと言った。でも、少なくとも私にとって、今、この瞬間を生きている私にとっては、生きることは素晴らしくて美しい。
――だからね、つまり、簡単に死のうだなんて、愚かしいってこと。そう、『簡単に死のう』とすることが、愚かしいだけ。自殺したっていいけれど、そこに私は、別に今じゃなくたっていいでしょうと、一言添えたい。それはどこまでも私個人の意見で、無責任で身勝手な偽善かもしれない。でも、やっぱり、……たかだか十数年しか生きていないのにその命を終わらせてしまうなんて、馬鹿げている」
――俺は、いつか先輩から聞いた『逃げる』コマンドの話を思い出した。
「致死量分の薬を買うお金で、本でもお菓子でも買ったらいい。何もかも投げ捨てて、自らを蝕む牢獄へ向かう列車でそのまま、遠くの何処かへ旅行したっていい。逃げ場所は他にいくらだってある。死に逃げる必要なんてこれっぽっちもない。その生き苦しい時間は確かに永遠のように感じられるかもしれない。それでも気づいたら時間は進んでいく。きっといくらだってリセットの機会はある。『若いうちは』、こんなことを、十七歳の私が言えることではないのかもしれないけれど、でもきっと、大人ならともかく、若いうちならば、どうとだってなる。
矛盾、してるかしら。でも、矛盾していていいと思うの。矛盾していて当然だと思うの。死ぬ権利があったとしたって、死ぬ必要なんてない。だけど命の終わらせ方として、確かに自死だってある。生きることは美しいけど、同時に残酷でもある、醜くもある。幸せを感じた次の瞬間に、悲しみがやってくることだって当たり前にある。表と裏、生と死。片側だけ語ったところで、それは薄っぺらで、欺瞞に満ちている。自殺はいけないと言うのならば、何故いけないのかを説明したらいい。でも誰も、そのことには触れない。ただ一言、『生きることは美しいことだと思うから』、そんな主観的な言葉さえ、出てきはしない」
雲が、青い空にゆっくりと流れる。静かに吹いた風が、唯先輩の髪をなびかせる。
「『真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ』――まさにカミュがそう言うように、私たちは、もっと自殺を、死を想うべきなのだと、思う。救いのない荒野に佇む私たちには、きっとそれしか生き残る方法はない。生きるために、想うこと。生を見つめるために、死を見つめること。
きっと、こんな風に、忙しない日々の中で、それぞれが少しだけ、目の前にある死を想えるようになれば、それだけ世界は優しくなるのだと、思う。――思いたい。それは確かに理想論で、そんなことを言うだけでは何も変わらない。世界は終わらないし、何気なく、残酷で、どうしようもない日常はいつまでだって、――死ぬまで続いていく。そんな中で苦しみ、漠然とした不安や虚無を抱えながら死へ向かおうとするその命のことを、自殺志願者よりもよっぽど多い、その当事者でない人たちが、少しでも考えてあげられるようになれば、もう少し、生きやすい世界になるのだなんて、思うのだけれど」
胸を、打った。
この人は本当に、どこまで真摯なんだと、思った。多くの人ならばまず、自殺を否定しないなどと言葉にしたりはしない。思っていたとしても、言わない。死を語ることには大きな責任が伴ってしまうと思うから。そして、唯先輩の発言に通底するのは、「他人と違う価値観を持ってる自分カッコイイ」でも、変人ぶりたい人間のそれでもない。
心が、動いた。真っ直ぐに空を仰ぐその横顔に、確かな意志を秘めた眼差しに、尊敬の念と、少しの憧れを、抱いた。
数日前まで、あんなに不思議だった存在が急に、途方もなく恰好良く見えた。
「さて、仮入部はこれでお終い。……今日のこの誘いは本来予定になかったけれど、先日のニュースを聞いて、どうにも思うところがあってね。悪かったわね、突然部活に勧誘したりなんかして。でも、あなたならきっと、私の部活をよりよいものにしてくれると信じてる。あなたが返す言葉の節々に、偽りのない素朴な想いが、ちゃんと見えたもの」
「そんなに、買い被られても、困りますよ……」
「いえ、あの読書感想文――あなたの思想を読めば、あれが嘘偽りない言葉だってことはちゃんと解る。あの文章には力がある。決して買い被りなんかではないわ」
「……俺、自殺部が何を目標としているのかは全然理解できてないですけど、でも……、なんだか、先輩のその真摯さは、伝わってきました」
「真摯さ」
「はい。自殺を想うことに、すごく本気なんだって、その覚悟みたいなものを、感じました」
「……そう、ありがとう。――月曜日、いつもの部室で、私はあなたを待っているわ。あなたがいれば、心強いの」
「心……強い?」
「ええ。……さ、行きましょうか。あんまり長居する場所でもないわ。喫茶店でも、寄って行こうかしらね。驕るわよ、さっきの昼食で使った八百円を千円から引いた二百円分、ならね」
「……だったら自分で出しますよ」
中学校を後にする。連れ立って入った喫茶店では唯先輩の自殺トークが炸裂し、たっぷり二時間集中講義。自殺についての知識は否応なしに深まっていく。
おかしな表現だけれども、死を語る唯先輩の顔はなんだかとても輝いていて、すごく『生きている』ってことを感じさせられる。この先輩は、本当に何なのだろう。突然現れたかと思ったら、ヘンな部活に無理矢理連れていかれて――。目の前でいきいきと、楽しそうに、時に真剣にしゃべる唯先輩を見ながら、俺はその一言一言に惹き込まれていく。考えさせられる。そのきらきらと揺れる瞳に、吸い込まれていく――――。
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