第五章 黒秋の『爛』葉 PART7 (完結)

  7.


 葵への対応を疎かにして早二ヶ月が過ぎた。街中はクリスマスの赤と緑の補色で埋まり、木枯らしが頬を染めた紅葉を次々と刈り取っていた。季節の遷移が秋から冬へと日を追う毎に明確になっていく。


 葵にはテスト勉強のため時間を取ることができないと述べている。彼女は小さく頷いただけで何も咎めなかった。今はその行為に甘んじて連絡をとらないようにしている。


 否、とれないでいた。本来ならターゲットに不審を抱かれる行動をとるべきではない。リー自身が深く考えるせいで、彼女への対応を鈍らせているのだと自覚している。


 最近では葵の方が痺れを切らして、バーに顔を見せるようになった。明らかに態度を変えていても、彼女は今までと変わりのないように彼に接していた。


「最近さ、リー君、私のことを避けていない?」


「そんなことないですよ。テスト勉強で忙しいんです」


「それならいいけどさ……」


 時間が経っても葵は席から離れない。彼女のカクテルグラスに入っている液体はすでに分離しており、洗練された味とは程遠いほど劣化している。


「葵さん、今日時間あります?」


「うん、リー君の都合がよければ」


 仕事を終えてリーの自宅に向かうことにした。葵はリーの部屋に入るなり自分に抱きついてきた。


「……ねえ、今日はいいでしょ?」


「駄目ですよ、葵さん明日も仕事でしょう」


「そうだけど、最近リー君が冷たいから、寂しいの」


 葵を抱きしめ返すことはできなかった。葵が唇を奪ってこようとするが、反射的に首を仰け反ってしまう。


「ねえ、どうしたの?」


 葵は不安そうな声で訊いてきた。

「私のこと嫌いになったの? 最近のリー君、やっぱりおかしいよ。何か私、悪いことしたかな」


「本当になんでもないですよ」


 リーは彼女から目を背けていった。

「ただ、今日は疲れていて。すいません」


 葵と一緒の布団に入る。葵はリーの様子を気遣いながらも、そっと体に触れてきた。しかしその気持ちには応えることができない。


 ……やはりきちんと別れを告げるべきだ。


 当初の目的を果たした今、お互いにメリットなどない。このまま真相がばれる前に別れを切り出さなくては。


「……別れたくない」


「えっ?」

 思わず声が漏れる。


「リー君、今別れようと思ったでしょ」


 葵は彼の顔を掴んでいった。

「私にはわかるんだから。リー君が何を考えているか」


「葵さん、違います」


「じゃあ何をいおうとしたの?」


「それは……」


「宮崎のバーで話をした後からだよね? 何か問題があったの?」


 葵は静かに嗚咽を漏らし始めた。

「私に兄弟がいるってことが問題なの? それとも何、付き合っていた相手が兄弟だから気味が悪いっていうの?」


 弱々しい声とは裏腹に、葵は激しく憎悪を曝け出し、リーの体に寄りかかってきた。

 そのぬくもりが彼の思考を溶かそうとする。

 もう逃げられない、逃げても、何も解決しない。


「リー君、正直にいって。はっきりいってくれないとわからないよ」


「……すいません」


 リーは息を呑んで葵に答えた。

「葵さんに対する気持ちがなくなったんです」


 葵の顔から熱が一気に引いた。


「どうして?」


「特に理由は……ありません」


「……嘘」


 彼女は声色を変えていった。

「急にそんなこというなんておかしいよ。何かあったんでしょ? 訳を話して」


「他に好きな人ができたんです」」


 リーは覚悟を決めて葵の目を見ていった。

「バーに来ていたお客さんのことが好きになったんです。だから葵さんとはもう付き合うことはできません」


 この部屋には盗聴器が入っている。ここで自分がスパイだとばれれば、葵はただではすまない。またこの場で別れたという証拠を作らなければ、中国のスパイから執拗に狙われることになる。


 もしかしたらマスターは自分達の関係を知りながらも葵に近づけたのかもしれないな、と別の考えが働く。兄弟間での恋愛なら確実に冷めるからだ。ともかくこれ以上彼女の近くにいるわけにはいかない。


「つまり私に対する気持ちが冷めたから別れてくれってこと?」


「……そうです」


 葵はリーに掛かっていた手を外して布団から出た。


「……ありえない。何で? 私が何かした? ねえ、何か悪いことした? 悪いことしたのなら謝るよ。だから正直にいって」


「いいえ、悪いのは僕です」


 リーは大きくかぶりを振った。

「美里さんとは葵さんと付き合っている間に関係を作ってしまいました。僕が悪いんです。すいません」


「そんな話で私が納得すると思ってるの?」


 彼女の顔には珍しく眉間に皺が寄っていた。その癖、足はがたがたと震え立つことはままならない状態になっている。

「リー君はそんなことしてないよね? わかってるよ、私は。別の理由があるんでしょ」


「いいえ、ありません。これだけです」


「じゃあ、今すぐその美里という人を呼んでっ」


 彼女は部屋中に聞こえるような声で叫んだ。

「絶対そんなこといわないから。絶対そんなことないよ」


「彼女を巻き込む訳にはいきません」


 リーは声を荒らげた。

「僕がただ彼女のことを好きになったんです」


「そんな訳ないよ……」


 葵は泣きながら叫んでいる。

「何にもなくて好きになったりするわけないじゃない……。何をされたの? 私がきっちりと話をつけてあげるから」


 彼女の辛そうな顔を見ることはできない。これ以上、嘘をついても仕方ない。このままでは美里まで巻き込んでしまう。やはりはっきりというべきだ。


「葵さん、正直に話していいですか?」


「当たり前じゃない……。どうして嘘をつこうとするの?」


 ……あなたのことを考えているからですよ。


 心の中で告げて深呼吸する。これ以上、彼女を傷つけないようにするためにはすっぱりと切り取った方がいい。


「僕のお父さんが神職についていたかもしれないということを話しましたよね」


「うん……。それが何か関係しているの?」

 葵の眼は鋭く矢を突き刺すようだ。


「僕の父親が伊勢神宮の宮司候補だったとすればどうなるでしょうか」


「…………どういうこと?」


「葵さんのお父さんは伊勢神宮の小宮司をしていたといっていましたよね。つまり、僕達こそ双子の姉弟ということです」


「絶対にありえないよ、それは……」


 葵は細々と声を出した。足だけでなく声も震えている。

「確かに私の両親は中国で亡くなったと聞いたわ。でもただの偶然じゃない。私達が姉弟ということにはならないわ。それに馨がいるじゃない」


「それについては葵さんの祖父に訊きました。自分には双子の孫がいたが、男の子は亡くなったといっています」


「えっ? どういうこと?」


 ハッタリだった。しかし今はこの場を乗り切ることが先決だ。


「偶然ではないんです。小さい頃に僕は葵さんと出会っています。葵さんと囲碁をやった時にも、前にどこかで打っていた記憶があるんです。それに黒の石を僕の父親も『皇石』と呼んでいました。もちろん、そんな言葉はありません」


「だから私達が双子の姉弟だっていうの?」


 葵は大きく頭を振って否定した。

「確かに私にも小さい頃、男の子と囲碁をやった記憶があるわ。だけど、おかしいじゃない。私とあなたは年が離れている」


「その点については葵さんに嘘をついていました。留学するためには年齢制限があり、僕は年をごまかさなければ留学できなかったんです。つまり葵さんと同い年ということです」


「なんでそんな嘘をつくの? 今頃そんなわかりやすい嘘つかないでよ。なんでよ……」


 何をいってもジリ貧になる一方だった。やはり、名前をいうべきなのだろうか。スパイになる前の名を――。


「僕の日本での名前は……琥珀というんです」


 厳粛な態度を貫きながらいう。

「先日、葵さんが出してくれたカクテルがヒントになって思い出したんです。僕の名前には『白』が入っています。これは天岩戸神社の後継者としてです。仮に父親が違うとしても、母親はきっと同じ人物だと思います」


 葵の顔から血の気が全て引いている。恐らくこの名前に覚えがあるのだろう。体の震えは止まっておりその場に静止している。すでに陥落している状態だ。


 それでも何かいわなければならないと思ったのか、葵は震える足を抑えながら言葉を発した。


「……仮によ。仮に私のお母さんとリー君のお母さんが一緒でも、私には関係ないわ」


 彼女は縋るような声で続けた。

「リー君のことが好きなんだもの……。姉弟だったとしても、戸籍上ではわからないことよ。結婚だってできるわ」


「僕が嫌なんです。あなたへの熱が冷めました」


「う、嘘でしょ?」


 葵は立つことができずに、冷たいフローリングの上に足を倒した。そのままリーの方に上目遣いで縋っている。

「本当に私のことが嫌いになったの?」


「すいません。僕は将来、官僚として働くのが夢なんです」


 何度も何度も推敲して考えた言葉だった。できれば口にしたくない内容だ。

「確かに普通に過ごしていれば、何の問題もないかもしれません。ですが上に登りつめるためにはスキャンダルは格好の的になります。執拗に狙われればわかることでしょう」


「だから、今のうちに手を切っておきたいってこと?」


 リーは無言で肯定した。


 葵は崩れた足を持ち直し、再び立とうとした。だが足がいうことをきかず膝を立てただけの状態になった。


「本当にそう思ってるのね?」


「……本当です」

 目を逸らさずにいった。


 葵の顔に表情はなかった。長い睫毛だけが水分を含んで潤っていた。目は真っ赤に染まっている。


「そんな人だったなんて……思わなかった」


 葵は立ち上がり鞄を掴んだ。目だけでこちらに視線をやった。

「本当に愛してたのに…………。リー君しかいないと思ってたのに…………。ひどいよ………………」


 葵は踵を返しドアの方向に向かっていく。背筋はきちんと伸びているが、足元がおぼつかない。

 彼女は途中で立ち止まり首だけをリーの方へ向けた。


「……さようなら」


 彼女は自分から一歩ずつ遠ざかっていく。まるで後を追ってくれといわんばかりにだ。もちろん後を追うことなどできるはずがない。


 ……俺はあなたの弟なんだから――。


 自分だって信じたくない。葵と一緒にいたい。その言葉を飲み込んで、葵が出て行った扉を閉めることにした。


 ……これで彼女との関係は終わりだ。


 自分を納得させる言葉を探す。全ては復讐を果たすためだ。自分には何も残らない方がいい。彼女に対する気持ちさえ捨てられずに復讐など果たせるはずがない。

 部屋の中には冷たい空気だけが取り残されていた。まるでここだけ時が止まっているかのようにだ。


 ……もう忘れよう、全てを忘れるしかない。


 自分が何者か、何をすべきかも。今はもう何も考えたくない。

 今起こった出来事を忘れるために眠りにつこうと布団に潜るが、葵の残り香が現実と夢の境界線を遮断している。彼女の泣き顔が浮かんではぽつりぽつりと消えていく。


 ――姉弟だったとしても、結婚できるわ。


 彼女の強い意志に、なぜもっと前から動かなかったと後悔が滲む。


 ……あなたのためなんです、できるのなら俺だって――。


 静止した部屋の中でリーは、心と体が同時に凍てついていくのをただ感じることだけしかできなかった。 

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