真夜中の異変

@wirako

第1話

「それじゃ、行ってくるよ」

「いってらっしゃい、あなた」


 午前七時二十分。いつもの出社の時間に、妻がいつものように玄関まで私を見送りに来る。今日は寝覚めが良かったのか、ロシアンブルーの飼い猫・エミーも顔を見せた。


「あ、ちょっと待って」

「なんだい?」


 ネクタイが曲がっているのかと思い、胸元を見やる。すると、私の口に妻の柔らかなくちびるが添えられた。


「……きみはともかく、私はもうそんな年じゃないんだぞ」

「あら、あなただって若々しくて素敵よ。ほら」


 彼女が鏡を指さす。つられてそれを見ると、映り込んだ私は年甲斐としがいもなく頬を赤らめていた。


「言ったでしょ。若々しいって」

「あまりからかわないでくれ。……今度こそ行ってくるよ」

「ええ、いってらっしゃい」


 妻と愛猫あいびょうに見送られ、私は軽やかな足取りで朝靄あさもやのかかるさびれた十階建てマンションを後にした。




 妻との出会いは今から一年と半年前、仕事帰りにふらりと立ち寄った新宿のバーだった。二つ離れたカウンター席に座った彼女は、私と目が合うなりしとやかに微笑んで、


「こんばんは」


 と、軽くお辞儀をした。


 ただそれだけの所作だったのだが、一目で心を奪われてしまったのを今でも鮮明に覚えている。すっと鼻筋の通った面立ち、上品な立ち振る舞い、静かで落ち着いた声音、瑞々みずみずしく艶のある肌、ほのかに漂う色気、その奥に見え隠れする影のある雰囲気……ミステリアスな彼女の魅力に、私はすっかりやられてしまったのだ。


 その夜は大きな商談が上手くいき、酔いが回っていたこともあって、私は強気にアプローチを仕掛けた。


 今にして思えば、四十代半ばの男が一回りも歳の離れた女性によくもまあ近づいたものだと恥ずかしくなるが、幸運なことに彼女は話し相手が欲しかったらしく、私の話によく耳を傾けてくれた。


 彼女は聞き上手でありながら博学でもあったため、とても心地の良い会話を楽しめた。加えて気立ての良い一面もあり、私が彼女の内面にもかれていったのは言うまでもない。


 中々の手ごたえを感じた私は、三軒先にある行きつけのバーに彼女を誘ってみた。彼女は快く応じてくれ、私たちは再び甘美な時間を共に過ごした。


 その後もまま色々あり、私たちは二人きりで過ごせる一室へ足を運ぶことになる。


 彼女はそちらの魅力にもあふれていた。


 しっとりとうるおいを帯びた柔肌は接吻せっぷんのごとく私の肌に吸いつき、なまめかしい嬌声きょうせいは魅惑的でありながらも嗜虐的しぎゃくてきな興奮をたかぶらせた。


 だがなにより、みつしたた深奥しんおうはじんわりと温かく、私を離したくないとばかりにきつく締め上げてくる。それが堪らなかった。


 日が昇る頃には、私は身も心もすっかり彼女のとりこになってしまっていた。


 それから一年の交際を経て、私たちはめでたく結ばれた。仕事一筋で中年の私に、まさか十歳以上も年下の美しい伴侶はんりょができるとは。半年経った今でも夢ではないかと疑うことがある。


 そんな引け目もあって、私としては彼女が望むのなら盛大な挙式も、と検討していた。だが、彼女は女性にしてはそういった事柄に興味はなく、また身寄りもいないらしいので結局は執り行わなかった。


 では立派なマイホームでも建てて暮らそうと提案したのだが、それも断られてしまった。現在私が住んでいる、都心から外れた陰気臭いマンションで過ごしたいというのだ。


 このマンションからは過去に自殺者や行方不明者も出ているから気味が悪いぞ、幽霊が出没する噂もあるぞ、と何度も脅したのだが、彼女は挙式よりもむしろこちらの方に強くこだわり、がんとして譲らなかった。いわく、とても居心地が良いらしい。


 なるほど確かに、彼女の職業は作家だ。田舎よりは交通の便が良く、都会の喧騒けんそうからも離れているこの地が執筆活動には丁度良いのかもしれない。不気味な雰囲気やうわさも、作品のネタにはなりそうだ。


 しかし、私は粘った。本来このマンションはペット禁止で、エミーはマンションのエントランス前で捨てられていた猫だったため、管理人から特別に飼育を許可されているだけなのだと。だから私は――エミーが大人しい性格で近隣住人に迷惑をかけていないとはいえ――このマンションでは少し肩身が狭いのだと。


 ところが彼女も粘った。どうしてもここに住みたいのだと。長年私が過ごしたこの空間で、自分も生活したいのだと。


 そんな愛おしいことを言われてしまったら私も首を横には振れなくなり、今もこうして二人と一匹でマンションに居を構えている。


 だが、その選択は間違っていたのかもしれないと、最近になって思うようになった。


 そして、彼女と縁を結んだことも、また……。




「はあ……」


 橙色の豆電球が灯る和室兼寝室で、枕元の時計は深夜二時きっかりを指していた。


 歳のせいか四十を過ぎてからというものの、冬を乗り越えたにもかかわらず就寝中にもよおす日が増えた。


 傍らで眠る美しい寝顔の妻を起こさないよう静かに掛け布団を払い、そろりとふすまの前まで忍び寄る。


「おっと」


 妻の布団が妙な形に膨らんでいると思ったら、エミーの尻尾が伸びている。危うく踏んでしまうところだった。


 なんとか無事に襖まで辿り着いた私は、ごくりとつばを飲み込んだ。


 襖を開ければ目の前にはキッチンが、すぐ右の空間にはテーブルとテレビが置かれたダイニングがある。トイレは左の廊下を数歩進んだ先だ。


 また一つ、私は溜め息を吐き出す。


 別に、幽霊や心霊現象の類に怯えているわけではない。マンションにはそのような噂が流れてはいるが、幸い私はそれらを見たことも、感じたこともない。


 しかし最近、真夜中の403号室に違和感を生じることがある。最近……そう、妻がここに住まうようになってから徐々に徐々に、この家の歯車が狂ってしまった。そんな気がする。最初は意識すら傾けなかった小さな疑問が、今では見過ごせないほどに大きく不気味に増長して……。


――いや、待て。私はなにをバカなことを。


 強く頭を振る。愛する妻を疑ってしまったことに罪悪感を覚え、それを振り払うように私は襖を開け放った。


 寝室から届くぼんやりとした光によって、キッチンのシンクやガスコンロが薄く浮かび上がる。別段おかしなところはない、いつも目にするキッチンだ。


 なのに。


 灯りが及ばない視界の隅に、漠然ばくぜんとした気味悪さが、ぼぅっと現れる。


 右側の、静まり返ったダイニング。椅子やテーブル、カーテン、テレビの色が濃い闇に覆われて判然とせず、輪郭りんかくもはっきりとは認識できない。だからなのか、この部屋が、昼間とは異なる顔をのぞかせているような気がしてしまう。


 私は目を凝らして森閑しんかんとしたダイニングを見つめてみた。


 椅子が今にも音を立てて壊れてしまいそうではないだろうか。


 テーブルクロスがところどころ黄ばんでいる気がするのだが。


 カーテンの陰影が人の顔のように見えないか。


 テレビ画面がやけにぬらぬらと――


――下らない。


 疑心暗鬼だとは分かっていても、視界に映るあやふやな光景に確信めいた引っかかりを覚えてしまう自分がいる。まるで、この部屋が暗闇に乗じて退廃的なうたげを始めたような、そんな不気味な想像を抱いてしまうのだ。


――そんなはずはない。そんなはずはない。


 私は襖を閉め、暗い廊下を歩いてトイレまで進む。途中、靴下越しに伝わるフローリングの湿っぽさに疑問を浮かべながら、照明を点けつつドアを開けた。


「…………」


 当然、見間違いだ。トイレの壁に赤黒い飛沫など飛んではいない。クリーム色の壁紙が個室一面に張り巡らされているだけだ。普段となんら変わりはない。気のせいだ。寝ぼけているだけだ。


 急いで用を足した私は、つま先立ちでいそいそと寝室に戻り、一仕事終えた気持ちでゴール地点の襖を開けた。


「あっ……」


 一瞬、異界に迷い込んだのかと目を見張った。


 寝室にまで闇が侵食していたのだ。


 視界に広がった部屋は温かな橙色ではなくなり、カーテンから僅かに差し込む月明かり以外は真っ暗闇にむしばまれている。


 手さぐりでスイッチに触ると、電源は点いたままだった。どうやら豆電球は、私のいない短い間に寿命を迎えてしまったようだ。


 闇が部屋を支配したことで、寝室にも不穏な気配が漂い始める。


 カーテンが、若干黒く変色しているような。


 閉めた襖に、見知らぬ傷が増えたような。


 室内から少しだけ、えた臭いがするような。


 天井に、手形を思わせる染みがにじんでいるような。


 そして妻は――


 妻は、いつの間にか頭から掛け布団を被っていた。


――彼女は、どうなっているのだろう。


 バカげていると内心呆れながらも、確かな安心を手に入れたかったのか、私は妻の姿を確かめようと腰をかがめて手を伸ばした。


 その時、私を戒めるようにエミーが布団から顔を出した。


「ああ、すまない。起こしてしまったか」


 寝静まる妻に気を使い、私は小声でエミーに謝った。おびに小さな頭をそっとでてやる。


「ん……?」


 それを見た私の背筋に、冷ややかな怖気おぞけが駆け抜けた。


――なあ、エミー。お前の体には、こんなにいびつ斑点はんてんなんてあったかな?




「世の中には知らない方が幸せなことって、あると思わない?」


 不意に、隣に座る妻がそう語りかけてきた。


 テレビ画面には、妻に看取られて天へ旅立とうとする資産家の夫が、最期に妻の狡猾こうかつな笑顔を網膜に刻んだまま息を引き取るという、なんともむなしいシーンが映し出されていた。


「まさか、きみも私の遺産目当てかい? 残念だけど、きみに誇れるほどの蓄えは持ち合わせてないな」

「そんなものはいらないわ。私は素敵な旦那様がいてくれれば、それだけで充分幸せよ」


 もちろんあなたもね、と彼女は膝に乗ったエミーのあごをくすぐった。エミーはごろごろと満足げに喉を鳴らす。その体は普段を同じ、美しい青灰色せいかいしょくの体毛で覆われていた。


 実に満ち足りたひとときだ。いつまでもこの幸福な生活が続いてほしいと願う。


 だが、時刻はすでに日付ひづけまたぎつつあり、私の心に鈍く重い不安が堆積する。


「あら、もうこんな時間。そろそろ寝ましょう、あなた」

「そ、そうだな……」


 私は重い腰を上げて妻の後に続いた。


 妻が取り替えてくれた豆電球の下、私は眠りにつくまで妻の言葉が耳から離れずにいた。


 世の中には、知らない方が幸せなこともある……あれは、私に向けた忠告なのだろうか。




 深夜二時四分。またしても私は、小用のために目覚めてしまった。


 このまま尿意を無視して寝てしまおうか。そう考えて一度は掛け布団を被ったものの、じわりじわりと訴えてくる腹部の圧迫感がそれを許さなかった。


――ええい、さっさと終わらせてしまおう。


 三十分経って我慢できなくなった私は、抜き足差し足で襖の前まで歩み寄った。今夜も妻は端整な顔立ちを天井に向け、エミーは彼女の布団から尻尾を出している。


 深呼吸をして、襖を開く。


 最初に目に入った光景は昨日と同じく、豆電球の光に濡れたキッチンだ。


 とりあえず一安心した私は玄関まで伸びる、闇に埋め尽くされた廊下に目を向けた。


 すると、


「ん……?」


 ぴちゃ、と水滴の弾ける音がした。


――廊下の天井から、なにかが落下したように見えたが。しかも、妙に粘り気のある……。


 粘り気のある液体。その言葉を脳裏で想像した瞬間、胃をぎゅっと握り潰される思いがした。


――よだれ……。


 眼前の廊下が、私を呑み込むために大口を開けて待ち構えている……そんな不気味なイメージが脳内にまとわりつく。


 小刻みに震える指で、私は廊下の電気を灯してみた。


 寝室と同色の光に照らされた廊下。もちろん涎の跡どころか、私を噛み砕こうとする牙も、絡め取ろうとする舌もありはしない。あの音はきっと浴室から響いてきたのだろう。それを聞いて幻覚を見てしまったのだ。


 膀胱ぼうこうがズキリとした痛みを伴ってきた。私は襖を開けたままにして急いで廊下を進み、まずトイレの電気を点灯する。


 そしてへっぴり腰でゆっくりとドアを開け、なにも変化がないのを確認し、安堵の息と共に用を足した。


 帰りは天井と背後の玄関側に異常がないかを確認し、素早く廊下を駆けた。


「ふう……」


 妻とエミーの待つ温かな寝室の前に到達した。ようやく寝られる、と足を踏み入れ――


「…………」


 視界の片隅でなにかがうごめいた。ダイニングの方からだ。


――どうするべきか……。


 私はしばし逡巡した。このまま逃げていいのか、と。


 この部屋に住む以上、いつまでも目を背けるわけにはいかない。ここではっきりと、自分の中でわだかまる恐怖を払拭する必要がある。


 深呼吸を一つし、私は闇が巣食うダイニングに足を向けた。


――大丈夫だ、大丈夫。

 

 嫌な汗をかいた足で、恐る恐るダイニングを調べる。


 なにもない、変化などありはしない、すべては恐怖心が招いた錯覚だ……そう自分に言い聞かせたのだが。


 途端に鼻がむずがゆくなる。カーテンが埃臭いのだ。団欒の時はまったく感じなかったのに。


 テーブルクロスも表面がざらついている。夕食後、私が綺麗に拭いたはずなのに。


 ギィギィ、と椅子が悲鳴を上げた。どこも触れていないのに。


 おかしい。絶対に変だ。どうしても、数時間前までくつろいでいた部屋と同じ空間だとは思えない。これは一体どういう――


「あなた」

「っ――!」


 突如背後から声をかけられ、比喩ではなく本当に心臓が止まりかけた。


 テーブルの対角に真っ黒の人影が立っていた。


 無論、我が妻だ。が、彼女の全身は闇を凝縮させたかのごとき影を張りつかせている。まるで、今の自分の姿はさらせないとでもいうように。


 妻の放つ異様さに得も言われぬ恐怖を感じたが、それを気取られないよう冷静に応じる。


「起こしてしまったか」

「ええ」

「けど、きみが目を覚ますほどに物音を立てたつもりはないんだが」

「そんなことないわ。真夜中にうろつかれたら、みんなびっくりするもの」

「……すまない。気をつけるよ」


 みんな。


 みんなとは、一体誰のことだろう。彼女自身とエミーを頭数に入れても二人。たった二人のことを果たして「みんな」と呼ぶだろうか。


「さあ、早く寝ましょう。明日もお仕事なんだから」

「……ああ。そうだな」


 穏やかな声音だったが、有無を言わせない威圧感がひしひしと伝わってくる。早く寝たくて怒っているのだろう。それだけの理由であってほしいと私は切に望んだ。


 とにかく私は妻を警戒しつつ足を――


「うおっ!」


 踏み出そうとした足が、無数の細い毛で撫でられた。エミーがすり寄っていたのだ。


 焦った私はとっさにテーブルに手をついたのだが、置いてあったテレビのリモコンに触れてしまい、偶然テレビが点いてしまった。


 そして、私は見てしまった。妻が隠していた「かお」を。


 彼女が鬼気迫る勢いでテレビを消した。


「…………」

「…………」


 妻は闇を塗りたくった眼で、じぃっと私を観察している。


 黒い塊が、ゆらゆらと体を揺らして近づいてくる。


 歩くたびに、水が弾けるような音を立てる。


 饐えた臭気が、鼻腔びくうを強く舐め回す。


 口元が、もぞりと波を打った。


「見た?」

「…………」

「見たの?」

「……すまない」

「…………」

「すまないが、私の手を取ってくれないか?」

「……手?」

「ああ。急に明るくなったものだから、目が痛くてしばらく開けられそうにない。寝室まで手を引いてくれると助かる」

「……分かったわ。こっちよ、あなた」


 寄り添ってくれた妻に手を引かれながら、私は「これでいい」と心中で呟いた。


 たとえ繋いでくれた妻の手がぬめりを帯びていようと、エミーが肥えた豚のごとき声で鳴こうと、こうして目をつむっていれば問題ない。なにも知らず、すべて見なかったことにすれば良いのだから。


 闇夜にだけ目をそらしていれば、いつもの幸せな日常が手に入るのだから。


 いつの間にか足の裏にできていた、ぶよぶよした水膨れを庇いつつ、私は愛する家族と薄明かりの中に戻った。

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