十月のおにぎり君
天高く馬肥ゆる秋。そして食欲の秋。巷には美味い物が溢れ返っています。新米、栗、柿、梨、芋、秋刀魚。ああ、肥えるのは馬だけではありません。食べ過ぎにはくれぐれも注意したいものです。
さて、そんな秋のある日、私の元に一通の葉書が届きました。差し出し人はおにぎり君です。あの中秋の名月の日、我が家へ遊びに来た時に、しっかりと住所と宛名を控えて行ったのでしょう。
「こ、これは!」
葉書の文面を見て、私は腰を抜かさんばかりに驚きました。大きく丸っこい字でこう書かれていたのです。
「わたしたち、結婚しました(はあと)」
そしてその下には幸せいっぱいの若い男女の写真。男はおにぎり君、そして女の方は……
「な、なんと相手は、おにぎりちゃんではないか」
そうです。おにぎり君と伴侶となったのはおにぎりちゃんだったのです。
私は感動しました。あの中秋の名月の日、酔っていたとはいえ、おにぎり君に辛辣な言葉を浴びせてしまったことを、私は後悔していたのです。丸い伴侶を探し続けていたおにぎり君のこれまでの人生を、頭ごなしに全否定するものだったからです。
「でも、おにぎり君は忠告を受け入れてくれたんだ」
おにぎりの伴侶にはおにぎりが相応しい、私のこの提案をおにぎり君が受け入れるまでにどれほどの葛藤があったことでしょう。そしてその結果としてのこの笑顔。葉書に印刷された二人の顔は幸福に満ち溢れています。
「会いに行こう!」
私は決心しました。葉書にはおにぎり君の住所が書かれています。会って直接祝福の言葉を捧げよう。私は決心しました。
十日後、郊外へ向かう電車に私は乗っていました。葉書を貰ってすぐに旅立ちたかったのですが、私とて忙しい身、なかなか都合が付かず、とうとう今日まで伸びてしまったのです。
「デパ地下おにぎりちゃんか」
私はもう一度葉書の裏に目を遣りました。写真の下に二人の簡単な馴れ初めが書かれています。出会いはデパ地下の惣菜売り場。そこで売られていた無添加無農薬高級素材のおにぎりちゃんに、おにぎり君が一目惚れしたのだそうです。
「おにぎり君らしいな」
思わずこちらまで微笑んでしまいそうになる仲睦まじい二人です。
おにぎり君の新居は駅から徒歩十五分ほどの場所にありました。静かな住宅街の一軒家です。残念ながら新築ではなく中古ですが、新婚で一戸建てに住めるのですから、おにぎり君の経済力もたいしたものと言えましょう。
「ここだな」
私はインターフォンの呼び鈴を押しました。何の返答もありません。
「おかしいな、留守かな」
もう一度押しました。やはり返答はありません。私はそっと門を押してみました。開きました。そのまま敷地へ足を踏み入れると家は静まり返っています。
「やはり留守か」
それでも諦め切れない私は家の南側の庭に回ってみました。すると、
「おにぎり君っ!」
居ました。おにぎり君が日当たりの良い庭にうずくまっていたのです。
「なんだ、居たのなら返事くらいしてくれよ。葉書ありがとう。お祝いをしたくて直接来たんだ。で、デパ地下おにぎりちゃんはどこに居るの、会わせて……」
私はそれ以上の言葉を言えなくなってしまいました。うずくまるおにぎり君の傍らに、海苔が破れ、干からび、カビが生え、すっかり腐って息絶えたデパ地下おにぎりちゃんが横たわっていたからです。
「そ、そうか。デパ地下おにぎりちゃんは保存料も防腐剤も使っていない無添加のおにぎり。消費期限はせいぜい二十四時間。十日も経てば逝ってしまって当然なんだ」
おにぎり君はがっくりと肩を落としていました。なんと言って慰めてやればよいのか私には分かりませんでした。取り敢えずの言葉すら浮かんできません。こうなった全責任は私にあるのです。伴侶はおにぎりがいい、その忠告が完全に裏目に出てしまったのですから。もう、おにぎり君は私の言葉になど耳を貸してくれないでしょう。
「あの、おにぎり君、すまない、こんなつもりじゃ……」
おにぎり君は顔を上げると私を睨み付けました。そしてそのやるせない想いが私の頭に聞こえてきました。死を目前にしたデパ地下おにぎりちゃんはこう言ったそうです。
「短い間だったけど、おにぎり君と暮らすことができて私は幸せでした。所詮私は平凡なデパ地下おにぎりにすぎません。最初からあなたのような超人的で強靭で常識外れなおにぎりと、最後まで添い遂げることは不可能だったのです。一つだけ言わせてください。伴侶にはおにぎりが相応しいと忠告してくれた方、その方を憎むのだけはやめて欲しいのです。だってその方のおかげで私は幸せな時を過ごせたのですから。おにぎり君、あなたと夫婦になれて良かった。私が逝った後は、私のことなど忘れて、もっとあなたに相応しい方を伴侶にしてください。今まで本当にありがとう」
と。
彼女の最後の言葉は私の胸を打ちました。デパ地下おにぎり……どんなに丸くても、おにぎり君と添い遂げるのは不可能な存在だったのです。
「おにぎり君、謝るよ。私のいい加減な忠告で君を傷つけてしまった。許してくれとは言わない。でも挫けずに頑張って欲しい。明日を信じて今日を生きて欲しい、おにぎ……あっ、ど、どこへ」
突然おにぎり君が空高く舞い上がりました。とんでもない速度で飛んで行きます。もはや追いかけるのは不可能な速さです。
遠ざかるおにぎり君に向かって私は叫びました。
「おにぎりくーん! 負けちゃ駄目だあー! それから、念のために言っておくけど、保存料、防腐剤、その他もろもろ添加物だらけのおにぎりなら大丈夫だとか、そんな事を考えちゃ駄目だからねー! 所詮、おにぎりはおにぎり。いつか食べられなくなっちゃうんだからねー!」
私の叫びがおにぎり君に届いたかどうか、私には分かりませんでした。おにぎり君の姿が消えた、鰯雲が浮かぶ秋の空を見詰めながら、私はもう一度おにぎり君に会う時がきっと来るに違いないと感じていました。
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