『先生』(2007年01月27日)

矢口晃

第1話

 一九××年九月某日。夏休みが明けたばかりでまだどことなく生活に緊張感が漲らないこの日、某県にある公立の小学校でその事件は起きた。

 当時四十二歳であった松島加奈子の受け持っていた六年生の教室で、普段と同じように給食を摂っていた松島が、突然意識を失って倒れたのである。松島は救急車で直ちに県立病院の集中治療室に運ばれたが、意識の戻らない危険な状態がその後も長く続いた。

 警察の調べより、松島の口にしていた給食の汁物のお椀の中から、大量の除草剤の混入しているのが発見された。無論そのほか四十五名の児童たちのお椀からは、決してそのような毒物は検出されなかったのである。

 ということは、教室全員分の汁の入った大きな鍋から松島の分が取り分けられ、その後松島が目を離した隙にそのお椀の中に除草剤が入れられたものとしか考えられなかった。当時教室に不審な人物が出入りした形跡はなかった。犯人が、教室内の四十五人の児童の中にいるのは、紛れもない事実らしかった。

 マスコミはこぞって大きな見出しを付けてこの事件を報じた。それによって松島のクラスの児童ばかりか、他の教室の児童たちまで精神的に圧迫を覚え登校を拒否するものが続出した。先走った報道の中には、小学六年生の児童が担任を毒殺したと報じることもあった。そして児童たちには、松島に殺意を覚える十分な動機があったとさえ謳った。

 確かに松島は児童の教育に関しては人一倍熱心な教員であった。その熱心な部分が、児童たちにとっては厳しい教師と受け取られたことも過去に度々あった。教頭や校長も、PTAや教育委員会からの風当たりが強くなる前に指導方法をいくらか柔弱に改善してもらうよう松島に要請した。しかし長年のキャリアと実績に揺るがぬ自負を持っていた松島は、頑として自己の主張を曲げようとはしなかった。もちろん児童や保護者の中にも厳格な松島の指導方針を支持する声も少なからずあった以上、彼らにもそれ以上強く松島に命令することはできないのだった。

 その厳しさに耐え切れなくなった児童たちが、殺すまでは行かないまでも、松島を何とかして懲らしめてやりたいという衝動に駆られたとしても、まんざらあり得ない話ではなさそうだった。しかし松島は以前病院の集中治療室のベッドの上で、意識不明ながら生命を保っている以上、まだ殺人事件と断定したわけではなかった。それを楯に、校長はなるべくこのことが大っぴらにならないように苦心惨憺した。

 一方松島の教室の児童たちは、日に日に健康そうな溌剌たる生気を失い、重い責任を負わされたような暗い表情に変わって行った。四十五名の児童の内に犯人がいることはほぼ確定した事実であったが、学校および市教育委員会の方針で、それ以上の犯人詮索はしない方針が固められた。犯人が特定されたとしても、それは児童たちの心身の発育にとって、負の財産にこそなれ、決して益にはならないだろうというのが彼らの見解だった。児童たちの悔いている様子は目にも明らかだった。だとすれば、一日でも早く松島が本復して教壇に帰れるように祈ることが、最も児童たちのなすべきことであると教えることにした。

 もちろん真犯人はいつまで待っても名乗り出ることはなかった。ただクラスにいた全児童の内、十名ばかりが精神的苦痛から事件発生後登校できずにいた。

 松島の退院が叶うようになるまで、松島の元いたクラスは若い女性教師が代理として担任することになった。新しい教師の石井がいかに彼らを勇気付けようと明るく振舞っても、児童たちにさらに英気の盛り上がらないのは言うまでもなかった。授業は精彩を欠き、生活は陰鬱たる空気に充たされていた。

 事件発生から四十日ばかり経ったある日のことである。八時三十分に鳴る朝礼のチャイムを前に、石井の受け持つ教室には、やはり三十名をわずかに越える人数の児童しか見ることができなかった。朝礼のチャイムが鳴り、本来ならば石井が出席簿を持って教室を訪れるべき刻限であるにも関わらず、石井はこの日何かの障りで多少教室に出向くのが遅れていた。

 教室内ではその頃、担任の来るのを待つ三十数名の児童たちが各々自分の席に着き、やはり朝から浮かない表情を浮かべたなり黙って椅子に座っていた。そこへ、がらりと戸の開く音が聞こえた。

 代理担任の石井が、ようやく来たのだろう。そう思って一様に視線を上げた児童たちの目に映ったのは、果たしていつもの石井の姿ではなかった。教壇に立っていたのは、まぎれもないあの松島であったのである。

 それを見た児童たちは、皆一様に息を飲んだ。もちろんその日まで松島が退院したなどと聞かされてはいなかった児童たちの表情には、ありありと動揺の色が浮かんでいた。松島は、まだ体長の本当でなさそうな、血の気の無い真っ青な顔色をしながら、静かな口調で、教室にいる児童たちにこう語り始めた。

「先生は、とても悲しいです。あなたたちの中に、あんなことをした人がいるだなんて。先生はとても悲しい気持ちなのです。なぜ、先生がこんなに悲しいか、分かりますか? 何も、あんな嫌がらせをされたことが悔しい訳ではないのです。ただ、あんなことをする前に、先生に正直に本当の気持ちを話してもらえなかったことが悲しいのです。あなたたちにとって、先生はそんなに恐い? 目と目を合わせながらお話もできなくらいに、厳しい? 先生は、確かに他の先生より厳しいかも知れません。でもね、これだけは分かっていてもらいたいの。決して、先生はあなたたちのことが憎いから、嫌いだから厳しいのではない。反対に、あなたたちのことが可愛くて、心配で仕方ないからから、厳しくなってしまうの。あなたたちが、私のことを嫌いだと思うなら、そう思われてもいい。もっと甘やかして欲しいと言うのなら、そうすることもできる。でもね、先生はあなたたち全員に、幸せになってほしいと思っているの。だから、そのためには何ができるかを先生は自分なりに考えているの。だからお願い、先生のことを、そんなに恐がらないで。先生のことをもっと信頼して。先生は、いつでもあなたたちの味方だから。お願い――」

 松島がここまで離し終えた時、とうとう一人の女子児童が泣き出してしまった。そしてその児童はすすり上げる涙声の下から、かすれるような途切れがちの声で、必死でこれだけのことを言った。

「分かりました、先生。先生が私たちのことをどれほど思ってくれているか、分かりました。だからお願いします、先生。どうか、どうか成仏して下さい」

 そう言われた松島の両目は、すでに黒い瞳が無く、ただ白目を剥いているばかりなのに違いなかった。そしてその胴体はうっすらと透け、松島の体を透かして児童たちには後ろの黒板が見えているのだった。松島の下半身はこの時すでに色を失い始め、完全に上半身だけが宙に浮いている状態なのに違いなかった。

 その時の児童たちはまだ知る由もなかったが、彼らの担任の松島は、その前日、とうとう病院のベッドの上で息を引き取っているたのだった。

 そして教室の児童たちが松島と悲しい再会を果たしていた頃、職員室では、松島の死の報せを聞いた石井が、教室の児童たちにどのようにその事実を告げるべきか、一人机の上で悶々と悩んでいるところなのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『先生』(2007年01月27日) 矢口晃 @yaguti

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る