第40話

「ああ、これは酷い。毛むくじゃら蜘蛛ムジュラ・マンタの毒毛針に芋蚊タロナ・マバの神経毒に……おお珍しい。森食蟲ターシャ・ハム・ブーンの幼虫の毒なんてそうそうくらう事などないのにのう。成る程、触れた箇所が腫れ上がるのか。む、嘔吐物には線虫……新種かのう」


ああ、目が霞む。大地が揺れる様に感じる。意識が飛びそうだ。そんな俺の前に何かがいた。敵が……ああ、駄目だ。四肢に力が入らない。意識を保って……糞……………。

…………………

……………

………





「あれ、お兄様お帰りなさい」


蝉が煩く鳴き、入道雲が空にそびえる。目の前には木造平屋。蚊取り線香の香る縁側に腰掛ける病的に細く白い女の子。いやしかしこれでも大分まともになっている。

横に腰掛ける。その子の頭を撫でると、そっと目を閉じて寄りかかってきた。


「ただいま、幸枝。体の調子はどうだ」


「ええ、お薬が良く効いてます。お兄様のお陰ですよ」


「お腹を空かせてはないか」


「はい。お兄様のお陰で本物の餡子を食べられたんですよ。お芋を潰したのではなく、小豆を潰したんですよ」


「不便はないか」


「お祖母様もご近所さんも、皆良い人ばかりです」


疎開先の祖母の家では、夏らしい日差しが俺達兄妹を容赦なく照らす。しかし不思議だ。全く暑くない。願わくば、この問答をずっと続けていたい。


「でもお兄様、知らない場所で大変なのは分かりますが、偶には幸枝の事も思い出してくださいね。でないと拗ねてしまいますよ」


言われてハッとした。そうか、確かに両親を一度思い出しただけだった。幸枝の事も一度として思っていただろうか。いや決して忘れていたわけではないのだが。

ごめんなと謝ると、大丈夫だと返してくれた。


「お兄様、幸枝はもう平気です。時々思い出してくれるだけで良いのです。いつも想ってますから、大丈夫ですから。ですのでもう長男という枷に囚われないで下さい。お兄様のお陰で、家族は助かりました。神童の名も幸枝が決して絶やしません。ですのでもう、お戻りになって下さい」


何が大丈夫なのか。こう言っている間も震えて泣いているでは無いか。だが……ああ、少し見ない間にこうも強く成長してくれたか。


「そうか。じゃあもう行こうかな。幸枝、行ってくる。父を、母を、何より自分を大切にするんだぞ」


「はい。必ず幸枝は幸せになります」

………………

…………

……


「おや、気付いたかのぅ」


ああ、何かとても懐かしい気持ちだ。思い出せないが、何かとても大切な事だった様な。

そんな余韻に浸る間も無く、しわがれた男の声に起こされてしまった。重い瞼を無理矢理開けると、果たして立派な白い顎髭を蓄えた小汚くもどこか品のある老人がこちらを覗き込んでいた。


「う……確か俺は虫にやられていたと思ったが」


体は酷く気だるい。しかし目の霞みや揺れる様な感覚は無くなっている。


「無理して起きなくて良い。全く、普通は助からんのにたったの半日で持ち直すとはのぅ」


「もしやあなたが助けてくれたのか」


「きっかけは儂ではないが、まあ処置したのは儂かのぅ。お主の持っていた葉っぱは単なる消毒用で役に余り立たなかったが、まあ解毒薬なら常備しておる」


そう言いながら、老人はズリズリとすり鉢で何かを擦っていた。粉末状にしたそれを水で溶かし、器に入れて俺に飲む様勧めてきた。

訝しがりながらも飲んでみる。漢方の様な味だ。はっきりと不味いが、不思議と頭がすっきりしてきた。


「さて、頭ほ回る様になったかのぅ。さて、それではお主を助けたきっかけを呼ぼうか。おーい、もう大丈夫だぞーい」


何だ。全く話についていけないぞ。確かに頭はすっきりしたが、展開が急過ぎないか。

老人の呼んだ先から何かが飛んできだ。いやまさかあれではあるまい。しかし老人の視線の先は間違いなく飛んできたそれだ。

この森の蟲と比較しても決して大き過ぎない。いやむしろ小さい。そしてかなり馴染みのある姿形だ。あれは、いやまさか。でも間違い無い。


「カブトムシ?」


老人に呼ばれて来たのは、紛う事なき雄のカブトムシだった。

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