第30話

おそらく数分も経っていないはずだ。それなのに何時間もあれと睨み合っている様な錯覚に陥ってしまう。

スターリッヒ殿も足元に水溜りができるほどに大汗をかき、顔を青白くさせている。それでもなお呪文の呟きと手の動きを止めない。

あれ自体は大分小さくなった。子供程の大きさだったのが、今では子猫ほどの大きさになっている。しかし先程の話によれば、これでも尚通常よりも大きい呪詛結晶体らしい。糞、全くなんと厄介なものを残してくれたことか。

あまつさえ、障壁もかなり小さくなっていやがる。最初半球状であった障壁も、今では天井付近にポッカリと穴が空いている。ポノラもこの障壁にかなり力を込めているのか、目力こそ未だ死んではいないものの既に息を荒げている始末だ。


ああ、気のせいかあれの甕に吸い込まれる速度が遅くなっている。いや、気のせいではない。確実に遅くなっている上に、障壁の消える速さも早まっていやがる。


その時だった。スターリッヒ殿が片膝をついた。そして甕に吸い込まれていた現象が逆転し、今度は甕から逆流してあれに吸い込まれていっている。非常にゆっくりとだが、徐々にあれが大きくなっていやがる。


「……ポノラさん、合図とともに結界を解いて欲しいかと」


そんな中、メイ殿がポノラにそう漏らした。


「何か手段があるの?」


「私も魔法使いの端くれです。あの大きさなら、呪詛結晶体あれがこれ以上大きくならない内に処理できるかと。ただ、先程試したのですがポノラさんの障壁は内側から魔法を通さない様だと。だからこそ、直接対峙して封じ込めるのだと。ノリユキさんもよろしいですか」


「このままではジリ貧だし、手立てがあるならやるべきだ。もしこの場をなんとかできるならば旅にだって連れて行く」


「約束は守るべきだと。……あとついでに、先程ノリユキさんの腕に抱きついたせいでこうなっているという事も水に流して欲しいかと」


バツが悪かったのか、紅らめた頬をポリポリと掻いてからキリッと表情を引き締める。

袖から紐のついた小さな木の道具を取り出し、紐を指でつまんで回し始めた。ヒュオウヒュオウとくぐもった笛の様な音がする。


「サイジャラ、サイデ、クルハラシルト、サイジャラ、サイデ、クルハラシルト……」


今度は先程スターリッヒ殿の唱えていたのと同じ呪文を呟きだした。それに呼応するように笛の音が大きくなっていく。


「ポノラさん、今です!」


合図とともに、ポノラは結界を構成していた楔を抜いた。

急に結界がなくなった為にあれは少し蹌踉よろめいたが、すぐに何事もなかったかの様に俺に向かって歩いて進みだした。

糞、今度は距離が近すぎる。メイ殿が何をする気か知らんが、本当に大丈夫なのか。


その時、あれが突然ピタリと動きを止めた。


気が付くとあれに吸収されていた黒い鱗が、再び甕に吸い込まれる様になった。

笛の音は一層大きくなり、メイ殿の呪文を唱える声も大きくなっている。これは声を張り上げているというよりも、拡声器の様に大きくしているのか?


「補助魔法の一種だと思う。あの回し笛ティクタクが呪文の効果を底上げしてる。ほら見て、スターリッヒ様の呪文も大きく聞こえるでしょ」


ポノラに言われてスターリッヒ殿を見ると、いつの間にかしっかりと両足で立ち、確かに呪文の音量が大きくなむめいる。

二人の呪文を受け、流石のあれも徐々に小さくなっていく。それでもずっと俺の事をジッと見て、全くなんと不気味なのだ。視線を感じるだけで冷や汗が止まらない。


そうして間も無く、あれは完全に甕の中に吸い込まれていった。恐る恐る中を覗くと、墨汁よりもさらに深く深く黒い液体で満たされていた。臭いはしないが、見ているだけで吐き気を催す。とてつもなく邪悪な液体だ。

スターリッヒ殿は袖から白い布と麻紐の様なものを取り出し、甕に蓋をした。次に親指の腹を噛み血を出し、その蓋へ何かを書いた。


「……これで封印は完了だねぇ。後はじっくり時間をかけて中の呪詛を浄化しなければならない。ノリユキちゃん、よくぞルーゼフちゃんを殺さなかったねぇ。術者が死んだとなれば、呪詛結晶体はより強固なものになりとてもじゃないが封印なんてできなかっただろうさ。……さて、ノリユキちゃん。悪いがこの甕を家まで運んでくれるかねぇ。メイは男衆に声を掛けて、ルーゼフを木から降ろしてやってくれないかねぇ」


俺は今中々に疲れているのだが。そう言いかけたがスターリッヒ殿もかなりフラフラで、ポノラに持たせるわけにもいかんし、結局俺が持たなくてはならないかという結論に至った。

甕は重かった。きっと疲労のせいだけはない。

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