私は何故、映画『模倣犯』を「東宝変身人間シリーズ」の一作品として断固支持するのか。あるいは森田芳光監督の日本の映画に関する感想。

平居寝

第1話

■『模倣犯』。2002年公開邦画興業収入

第十位のヒット作で、大ベストセラー小説の

映画化作である…のだが、世間的に褒めてい

る人はなかなか居ない。あの原作をなんであ

んな風にしたっ、という意見も多い。噂では

試写を見た原作者が激怒したという話もある。

 だがそもそも、原作と全く同じ感動を味わ

いたければ原作を読めばいいのだ。森田芳光

という独特の個性を持った監督に映画化を任

せた時点でそれを期待しても仕方がないでは

ないか。そして、あくまで結果論としてであ

るが、この映画『模倣犯』は、起こり得る未

来の可能性の一つを示しつつ人間の暗い情念

を描いたSF映画であり、『透明人間』ある

いは『美女と液体人間』から始まる「東宝変

身人間シリーズ」に連なる作品だと確信する

のである。

■萌芽は『黒い家』。

 森田芳光監督が『模倣犯』の前にメガホン

を執ったのは映画『悪の教典』と同じ原作者

による小説『黒い家』の映画化作である。実

はこの原作、真の主役ともいうべき恐怖の殺

人鬼・菰田幸子の人物像が原作とは異なるニ

ュアンスで描かれている。映画のクライマッ

クスでは、ビルの階段で内野聖陽に襲い掛か

る幸子(大竹しのぶ)が内野に傷跡が在る己の

手首を見せつけ、自分がかつて虐待の被害者

だった事をアピールするが、こんな明らさま

なシチュエーションは原作にはない。原作で

は物語の中盤にそこそこの分量を用いて、既

存の規範・常識・道徳観には当てはまらない、

現在の理知的な文明に根本的に不適応である

が故に太刀打ちが出来ない破壊力を持ち得る

「新種の人間/ミュータント」(作中では一応

「サイコパス」と言っているがその範疇を越

えているような描き方をしている)の出現を暗

示し、それが環境破壊等による「種の汚染」

なのかもしくは生物的な進化の一面なのかと

いう問題提起?をしている。映画版『黒い家』

でもそのような言及は一応あるもののサラッ

と流してしまっており、なんといっても大竹

しのぶの「あたしも斬られたのよぉぉっ」と

それに続く「下手糞ぉぉおおおっ」の狂烈演

技によって全てが一蹴されてしまい、単なる

トラウマサイコ変態女の話になり下がってし

まっているのである。

 後から振り返ると、この「解釈」〜一般観

客に分り易くしようとしたアプローチ〜のし

こりのような物が森田監督の中で渦を巻き始

め、殆どサイコ要素のない筈だった『模倣犯』

でそれが逆に行き過ぎた噴出をしてましった

ように思えるのである。

■「怪物」として死んでいく犯人「ピース」。

 『模倣犯』のクライマックス。原作では、

正体を暴かれた連続殺人犯「ピース」は生放

送中のTV局のスタジオから逃げ出し局内の

一室に立て籠もる。そこから事件関係者に電

話をかけて去勢を張り続け、情けなさ、子供

っぽさをさらけ出していく。人を描きこむこ

とに定評のある原作者の見せ場の真骨頂とい

っても過言ではないだろう。

 ところが映画版では、同じく生放送中に正

体を暴かれた「ピース」は、なにも語ること

なく勝手に爆死してしまう。しかもこの時、

ピースの姿はCGで表現され『スタートレッ

ク』シリーズのスリバン人みたいな生首がス

ローモーションで吹っ飛ぶという「極めて現

実感のない表現法」で描かれる。公開当時

「人間はあんな風に爆発しない」「リアル感

がない」とあちこちで言われていた印象があ

る。この作品が酷評される代表的な理由のひ

とつとも言われる名シーン?だが、どう見て

もこれは、演出や表現法を何か間違ってこん

なヴィジュアルが出来てしまったというレベ

ルの画作りではない。明らかにわざと作り込

んでいる。

原作のピースが正体を暴かれた後、弱々し

さも含めた「人間らしさ」を露呈して行くの

とは全く逆に、森田監督はピースをCGでし

か表現し得ない「怪物」として描いているの

である。ネットやメディア、ITテクノロジ

ーを駆使しながら劇場型犯罪を「演出」して

世間を煽り、一方で事件容疑者達の知人とし

て素顔を晒して現れ思いやりや友愛を説くと

いう、どうにも理解しがたいピースの目的は

なんだったのか。自らが陥れて連続殺人の容

疑者として殺した高井和明の妹をマスコミの

追撃から匿ったピースは、彼女を抱きしめな

がら呟く。「死んだ兄さんとこうして抱き合

ったことがある?」

 映画版のピースは、人の姿をしながら人非

ざる存在に変身していたのだ。というより、

生まれながらにして「ヒト」でなかったのか

も知れない。そんな「イキモノ」を、実に「

映画ならではの表現」で描いているのである。

 何故、あの場面でピースが死ななきゃなら

ないのかという問題はある。原作ではしばし

ば精神的に幼い部分がある人物として描かれ

ているピースだが、それにしても前畑滋子の

罠に簡単に引っかかり過ぎではないかと思う。

実は原作でも、なぜピースが自ら正体を暴露

したのかよく分らなかった。映画では其処に

至るまでに、ピースは高井和明の妹や有馬義

男と直接コンタクトをとっている。まるで「

人間らしさ」を嗅ぎ取ろうかとするように。

そこで何かを得たのか得なかったのか爆死へ

と至るのだか、映画自体の構造としてはこの

「死」にはあまり意味がないのではと思う。

ピースの「意志」は映画の最後で明らかにな

るからだ。

■ベタベタにSFな?ラスト

 そしてラスト。此処も原作になくて非難さ

れるシーンの一つのようだが、孫娘を殺され

た有馬義男(山崎努)の元に、犯人ピースから

(と思われる?)「贈り物」が届く。贈り物と

は生きた赤ん坊であり、ピースから有馬への

メッセージは「有馬さんに頼みが在ります。

この世に残された僕の子供を今日、引き取っ

てくれませんか。(中略)早く行ってください。

誘拐されたり、殺されないか心配です。有馬

さんの手によって善人になってくれたら幸い

です。僕のような人間には決してならない筈

です。血よりも、環境が大切だということを

証明してください」である。

 赤ん坊を取り上げる有馬を上空目線からの

カメラが捉え、ズ―ムアウトしていく形で映

画は終わる…このシーンを見た時に咄嗟に思

い出したのは、1954年の『ゴジラ』第一

作のラストだった。

 「あのゴジラが最後の一匹とは思えない」

という志村喬のセリフは、核の恐怖について

人類に警笛を鳴らしつつゴジラのシリーズ化

を可能にしてしまったダブルインパクトな言

葉だが、この「映画の中の話だけではないか

も」という、作品の外側への問いかけは'50〜

'60年代のSF映画のヲチに往々として登場する

パターンである。翻って、『模倣犯』公開時

の劇場内を考えてみる。公開前の様々な情報

により、劇場内に多かったのは恐らく、本格

的なミステリ好きや映画通の類の人よりも、

主演者である国民的アイドルグループのメン

バーのファン、あるいは当時まだメジャーデ

ビュー前だったが先物買いのファンは結構居

たと思われる主演者の後輩タレントのファン

の女性達ではなかっただろうか。鬼畜な殺人

鬼が次々に女性達を殺すという冷静に考えれ

ば異常な話を、人気作家の原作で人気アイド

ルが主演ということで嬉々とした気分で見に

来た女性達に「赤ん坊をマトモな人間に育て

られるのか」という問いかけで終わるこの映

画。いやまぁなんと皮肉と「人類に対する警

告」に溢れているではないか。規模と範囲は

全然狭いけれど。勝手な妄想だが、恐らく、

原作と主演者ありきで作品を任されたのでは

ないかと思われる森田監督の、作品そのもの、

そしてそんな作品が商品として消費されてい

く社会への監督なりの「あっかんべえ」にも

思えてくる。

■「変身」したのは誰か?

『美女と液体人間』ではアメリカの水爆実

験と漁船への乗り込みが必要だった。『電送

人間』や『ガス人間第一号』ではマッドサイ

エンティストの暴走、『マタンゴ』では南の

島と怪しいキノコが必要だった。だが本作で

はそういった特殊な道具立ては一切必要ない。

テクノロジーを操る術さえあれば世間を翻弄

し、一時的にせよ全知全能の神のような優越

感に浸ることが出来てしまう。「俺様人間」

「神様人間」に変身できるのである。他に必

要なのは、純粋に歪みねじ曲がった精神…ヒ

トでない心。

 映画内には一方で、家族をピースに殺され

た有馬義男や前畑滋子、一家惨殺事件の生き

残りでピースに「事件の盛り立て役」として

利用される塚田真一など真摯に精一杯に生き

る人達が居る。そしてそのまた一方で、歪み

ねじ曲がった人々が映画内の彼方此方にバラ

撒かれている。根本的にクズのような生活を

送っている栗橋浩美、そんな浩美に負けず劣

らずのワガママぶりで発作的に浩美に殺され

る岸田明美、夫を殺された前畑にその事を記

事にしろとサラッという編集長、そしてピー

スの犠牲者となった古川鞠子ですら家族に言

えない秘密を抱え自分は殺されてもいいとピ

ースに言っていた。鞠子の父親も娘が殺され

妻が心を病んでいるというのに不倫相手との

間に出来た子供の事で頭がいっぱいだ。

 さらに、ピースが行うと宣言した「殺人ス

トリーム配信」を見るために携帯電話のキャ

リアを変更する男、そしてラストシーンで有

馬がピースからのメッセージを受け取る時に

流れているラジオで伝えられる、ペイント弾

を富士山に撃ち込んだ自衛隊員まで、往年の

「明るく楽しい東宝映画」には絶対に出てこ

ないような人達だ。

 再び、『黒い家』の原作に立ち戻ってみる。

 後に幸子に殺されることになる金石が物語

中盤で主人公・若槻に説明する・・・・「サイコ

パス」の存在・言動が周囲に及ぼす影響は多

岐に及び、既存社会の道徳観・思慮深さを侵

食し、反社会的・反人間的な価値観に共感・

傾倒して育つ人間を増やしていく。その結果

サイコパス自身は目立たなくなり益々増長・

増幅していく。

 幸か不幸かヒトとして育つことなく別のイ

キモノとなり、ヒトとなるために壮大な「自

作自演」を企てたピース。だがそれは既に特

異な存在ではなく、同じカテゴリーに分類さ

れるイキモノへの変身は確実に増えている。

人気作家の原作・人気アイドル主演で連続殺

人鬼の物語を描く映画が年間興行収入上位に

入るのも、来るべき未来の端緒なのか。

 ネット配信での自殺中継騒動が起こるのは

本作公開から十年ばかり後のこと。この映画

で描かれているのはそんな「ちょっと先の未

来」だったのだ。

 何を思って森田芳光監督がこれらのアレン

ジを施して原作を映像化したのか、監督に確

かめる事は出来ない。

 原作『模倣犯』が読み応えのある大作小説

であるのは間違いない。だが、森田芳光版『

模倣犯』も原作に劣る事のない見応えのある

映画であり、「東宝変身人間シリーズ」の一

作品であり、推理サスペンス的な醍醐味や犯

罪を通しての人情噺的感動などを求めてはい

けない作品なのだと確信するのである。

 …まぁ。ある小説の肝ともいえるような部

分を違う作家の映画化作の中でやられちゃあ

全っ然面白くもなんともないだろうけども。

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私は何故、映画『模倣犯』を「東宝変身人間シリーズ」の一作品として断固支持するのか。あるいは森田芳光監督の日本の映画に関する感想。 平居寝 @hiraisin

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