ひまわり

綣野緒途

ひまわり


僕はこれで6回死んだことになった。


それは昨日の晩、突如報告された。嫌に気怠い、暑い夏の夜だった。


それで何かが変わればと僕は思った。


それでも僕は僕のままだった。死んだ後も死ぬ前と何一つ変わらない僕のまま。


少し変わったとすれば、それは夜の時間が幾分長くなって、好きだったものがいくつか嫌いになった。ただそれだけのことだ。


諦めることにも、生き続ける苦痛に対しても、そしてそのような場所に佇む自分にも慣れてしまった。


その時点で僕が僕自身を手放すことができたなら.....と思うのだが、いくら地球がスピードをあげて回転しようとも、不恰好な僕は不恰好な僕のままだったし、依然として僕は自分のことが嫌いだった。


「何も思わないというのが一番いけないね。嫌いという感情も、その人に関心があるからこそ生まれるものなのだから。」


つまるところ、こんなモノでも僕は僕のことが可愛くて可愛くて仕方がなかった。




自分がこれまで5回死んでいた記憶を僕はあまり思い出せない。それにまつわる全ての事象は地球の素早い回転により盛大に振り落とされたし、僕とNASAの絶え間ない努力により世界の果てに打ち上げられた。


とりあえず今の僕には、6回目の死こそが愛おしかった。




6回目は常に優しく何かを僕に語りかけた。


この地球上稀に見る、僕を求めた光だった。


6回目はよく僕に「優しいまま居続けるということは...」といったような趣旨のことを話した。


6回目にとって、優しさというのは痛みそのものだったようだ。


あるものは空回りするし、誰もそれを発見してはくれない。いくら言葉を尽くしても、必ずしもそこにはたどり着けない。


人間という存在が冥王星よりも遠かったという事実には僕もNASAもびっくりしたし、そしてなんだか笑えた。


痛みからしか生産できないロクでもない生き物にも。




寝れない日が続いた。家に帰りたくない日も続いた。


そういう日はあてもなく京都の街を歩き回り、よくバスの停留所で寝た。


公園に行けば酒を飲み、都会に出てはロクでもない連中が集まるロクでもない喫煙所でタバコを吹かした。


親に辛いと電話すれば怒られて、仕事をすればこんなクソみたいな世界に奉仕する意味を考えた。


そしてこの夜中の3時半に文字を書く意味も。






それは大きくて丸い密な心の中にすっぽり巨大な空洞ができたような、そんな気持ちだった。明らかに何かが足りないのだが、それが何であるかが全く分からない。その心のピースは一体何でできていて、そいつはどこへ行ってしまったのか。いつかは僕の元に帰ってくるモノなのか。


実際僕はその気持ちをどう扱えばいいのか分からなかったし、そこに佇み続けることがだんだん不可能になってくるくらい落ち着かなかった。


諦観に似た虚無と生への僅かな希望が複雑に絡み合うことで僕は辛うじて生きてはいたが、明らかにその現状は不快で、今の僕にはすぐにでもそれを打ち破るための自死が必要だった。宇宙が好きでたまらなかった幼少期の自分に対する、今までの人生のせめてもの贈り物。


こんな惨めな僕も、こんな有様でも、それでもまだ生きていたいと願うのか。


どうにかしなければと思ったが、それについては誰も教えてくれなかった。


無理をして大学に行っても、そこにあったのは幸せそうな爺さんが嬉しそうに無意味な数式を並べあげるだけの徒労な教育と、表現過多な生徒たちだけだった。


そんなことなら、と僕は家に帰って無意味な数式を何度も見返すのだが、結局のところ烏丸通りを縦走するはめになった。


一つではない全てが僕にとって、というよりも世界にとって、無意味だった。そして無力だった。






ある死にそうな夜に、僕は大事な僕を抱えて布団にくるまっていた。午前三時。いつもの時間だ。脇にロープを抱えていた。


誰かに頼りたかった。こんな気持ちになったのは初めてだった。


人の温もりだけを求めていた。そうすれば何かが変わると信じていた。


関係性というしがらみも、今の僕にはもう必要なかった。ただそこに僕がいることを許してくれる温かさだけを求めていた。




「やあ。」


カタツムリは開口一番、僕にそう言った。


そして僕もいつも通りカタツムリに一粒のチョコレートを与えて


「やあ。」


と言った。


「何をそんなに悲しんでいるんだい?前にも言ったはずだよ。君は捨てられたんだ。君を作り出した家族という概念からも、そしてあらゆる気持ちとあらゆる言葉を尽くしても到達できなかった全ての物事に。


どこへ行っても同じさ。それはどこまで行っても追いかけてくる。幼い君が嫌々やらされたあの影踏みのようにね。君がどこまで行こうと、たとえ影が一瞬の間何かの物陰に同化して消えようと、そこを離れた途端にまた影は君を追いかけてくる。


もし君がそいつと離れたいのなら。それはもう君自身が消えるしかない。君という存在が、すでに影を生み出しているんだよ。


しかし、だ。それはあまりにも不健全すぎる。


だから。ここに一ついい方法がある。」


カタツムリはチョコの包み紙を窓際のベッドの横にあるゴミ箱に放り投げ、ゴミ箱に弾かれたそれを睨みながら話を続けた。


「それは太陽自身を消すことだ。光がなければ、君の存在は影を作り出しはしない。光があることを知らなければいい。光など、元からここにはなかったのさ。」


僕はその鳴き声から、家の外に鈴虫がいることを確信した。


「それではあまりにも悲しすぎるだって?それにしたってわたしには今の君も充分に悲しそうに見える。そのロープはなんだ?その膨大な酒の空き瓶は?たまった灰皿のタバコは?


いいかい?もう一度言う。悲しい話だが、これは事実だ。君は全てに捨てられたんだ。」






カタツムリは僕が目にするたびにきまっていつも殻を背負っていなかった。その姿はただ地面を這いずり回ることで気味悪がられるだけの何かの見世物のようだった。


僕はよくカタツムリになぜ殻を背負わないのか尋ねた。


「そんなの簡単さ。ただそれが重いからだよ。」


たしかに僕にとっても殻を背負って生きていくことは重すぎた。


そのようにして僕とカタツムリは仲良くなった。




来る日も来る日も、僕とカタツムリは様々な話をした。


「わたしのことはハルキと呼んでくれ。ああ、理由なんていうくだらないことは聞かないでくれよ。システムに理由なんて要らないんだ。機能しさえすればいいものに理屈をつけるだなんて馬鹿げていると思わないかい?


君がわたしのことをハルキと呼ぶ。そうすればわたしは振り向く。それだけの話さ。


作業内容さえ知っていれば、その内容の理屈を考えなくてもスムーズに事は運ぶ。いや、むしろ理屈を考えないほうがスムーズにいくかもしれない。」


「僕がNASAの手で宇宙に打ち上げられた意味も?」


「当たり前だろ?そこに意味なんてない。ただ君は打ち上げられ、世界からつまはじきにされ、そこにただ存在している。全てを分かろうとするには重力が重すぎたんだ、ここは。」


6回目は今日も元気にしているのだろうか。意味なんてないのだが、僕は僕のシステムの都合上、ふとそれが気がかりになった。


また乱暴に酒を空けた。




カタツムリと過ごす日々に結論という概念は存在しなかった。というよりも所詮結論なんて結論以外のなにものでもなかった。


そして幸運にももし我々がその結論にたどり着いたとして、その頃にはもうとっくに夜は更けているし、もちろん僕は大いに酒を空けている。


結論を出すことになんら意味はなかった。もしあるとしたら。


それは産まれたことに対する無様な後悔を明らかにするだけだ。


つまりその行為は無駄であり、今さらの話であり、究極は何もそこから生み出せなかった。


僕らは会うたびにお互いがそこに存在していることと、そしてこの場の重力の確認をする。ただそれだけをした。




「機能しさえすればいい。」


僕はカタツムリが帰ったあとの重い沈黙が沈む遠い夜に、部屋に一人うずくまったままうなだれてしまった。行き場はもちろんない。捨てられたのだ。


僕の気持ちはどこへ行ったのだろうか。僕の言葉はどこに落ちているのだろうか。


「それはシステムに組み込まれたんだ。君という人生の巨大なシステムに。生きていくんだ。それこそがシステムなんだ。」






柔らかな8月の夜風が、6回目の匂いをそっと運ぶ。


間隣に僕は6回目の影を感じ、そして触れたその腕でこのまま僕を果てへと連れて行って欲しいと思った。生きていて、よかったのだ。




「優しいまま居続けるということは.......諦めないことよ。何も捨てないの。分かる?気持ちの問題よ。少なくとも私にとって、気持ちは命よりも尊いの。


信じるのよ。私は何一つ間違ってなんかいないって。染まっちゃダメなの。合理的だなんて嘘なんだから。嘘なのよ。それじゃあ私のこの気持ちは一体どこへ行くのよ。


優しさは、どれだけ体中から出血していても立ち続けていることなの。どんなにそれが無碍にされたって、どれだけその帰りを待っても帰ってこない日だって、私はずっとずっと待っているの。私は私が放った言葉を信じているから。


だからきっといつか。きっといつかはみんなみんな私の元に帰ってくるわ。何人もが大きく手を振って、笑顔でね。


そしたら私は頷きながら穏やかな顔でこう言うの。”おかえり。元気そうでなによりよ。”


強さなの、何ひとつ捨てないということは。だってそう思わない?


すべてを背負うには人はあまりに優しすぎたし、冷たすぎたわ。そんなものを全部背負えるのは太陽系くらいよ。だってあそこには重力がないの。おまけに真っ暗。きっと何も感じられないのよ。」


隣にいる6回目の肩が小刻みに揺れている。その揺れは僕の皮膚を通じ、そしてその中へと伝わってくる。


僕はいつまでも揺れる6回目の肩をずっと抱きしめていたかった。




季節は変わる。


夏が終わり、胸を焦がす秋がやって来る。


そして6回目は僕にとって忘れられない数字になる。


彼女は、この地球からは僕だけにしか見えない特別な太陽だった。


だから僕は僕を殺すことにした。


優しさとは、あるいは気遣いとはまた別種の違ったものだからだ。


君を殺したくなかった。


しかしそれでも僕は僕の言葉を信じている。


「みんなみんな君のもとに帰ってくるよ。大丈夫。当たり前じゃないか。そんな世界は間違っているのだから。君はそのまま立ち続けるんだよ。なにがあっても立ち続けるんだ。それを支えにここで立っている人もまた、この世界には存在するのだから。」



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