綿毛猫と雨嵐
はると
綿毛猫と雨嵐
お昼休みを告げる鐘が鳴った。途端に大講義室は学生のがやがやに満たされる。支配的な静寂を象徴とするパクスイネムリーナの時代から脱却したのだ。
小柄で丸眼鏡の高齢教授が、いそいそと黒板消しをしていた。それを一瞥して、授業の概要を思い出そうにも覚えていないことに気がついた。いつものことだ。昼休み前の講義は、昼飯になにを食べるかということくらいしか考えていない。
本日の結論は、次の通りである。
ひとつ、大学構内の食堂は学生で溢れていて落ち着いて食事にありつけない。
ひとつ、腹は減っているからたらふく食べたい。
ひとつ、財布の中に大金が入っているわけではないので、別段贅沢ができるわけでもない。
ひとつ、午後の講義は面白くもないので、サボることも辞さない。
以上のことから導き出されたのは、大学を抜け出て、しばらく歩いたところにある商店街のなじみの定食屋さんだった。
正門を出ようとしたとき、チラシ配りをしている集団の中に宮瀬の影を見つけた。挨拶しがてら近寄って、うっかり受け取ってしまったビラにはっとする。なんとビラの配り主は今はやりの新興宗教団体ではないか。いろんな驚きが僕の前頭前野になだれ込んできて、頭の中が真っ白になった。
ふと我に返ると、僕は目的の定食屋さんのカウンターについていた。そして、どうやら無意識のうちに注文していたらしいとんかつ定食が届いたところだった。隣の席には、宮瀬もいて、これまたとんかつ定食の前に合掌して、割り箸を快活に割ったところだ。というか、となりの宮瀬は白装束だ。僕は問いただした。
「宮瀬、お前は宗教をやっているのか」
「宗教をやる、というのはこれまたずいぶんと曖昧な言い方だなあ」
「あの新興宗教に入信しているのか」
「そうだよ」
「いったいどうして」
「最初は俺も怪しげだと疑っていたのさ」
辛子とソースがたっぷり乗ったカツの切れ端をほおばりながら、宮瀬はその宗教のすごさを嬉嬉として語りはじめた。
「まず、あの宗教にはかわいい女の子が多い。そして、入信することで、毎月奨学金がもらえる。お布施も全くない。どうだい、信じられないだろう、夢みたいだろう。お金がどう回っているのかとか仕組みは全然わからない。けどきっと、神様というのは即物的な欲求にも簡単に答えることができてしまうんだよ」
言葉の合間合間に、箸で椀を鳴らしながら白飯をかきこむ宮瀬である。この欲求に忠実な男が、こんな便利な宗教にのめり込んでしまうのも、無理はない。
「本当に驚くよ、体験してみるかい。俺が案内すればもちろんタダで、たくさんかわいい子を案内できるよ」
「いや、遠慮しておくよ。神のなせるわざといえども、仕組みのわからないものに僕は近寄りたくないからね」
「それは科学的精神というやつなのか」
「なんだい、いきなり」
「あれだよ、さっき俺がサボっていた授業の、たしか教授はチビで丸眼鏡で、おじいちゃんの」
つい先ほどまで、僕がうつらうつらと受けていた講義のことを言っているらしい。
「あの講義のノート、今度写させてくれない?」
白装束が、情けないことを言いだした。
「そっちの宗教の神様はなんでもしてくれるんじゃないのか」
「いやー、神様は金と女は得意らしいけど、ちょっと勉強とかは苦手らしくてさ」
そんな神様があってたまるか。僕は、神というのは世界を設計することが本業で、人々の救済に重点を置くような者は偽物だし、授業に常に出席しているということと、授業の内容をしっかり把握していることには、必ずしも明快な相関関係があるわけでもないということをひとしきり説いてやった。
「へいへい」
宮瀬はちっとも改心することがないようで、白装束の帯をきっちりと締め直すと、お冷やをぐびっと飲み干して、席を立った。
去り際にこんなことを言う。
「神は救済しない、なんて言っていたら、本当に世界が終わるときはどうするのさ。神様はきっと助けてくれないぞ。そして俺も、そんなことを言うやつにはきっと手を貸さない」
先に帰ろうとする宮瀬を僕は呼び止めた。
「あのさ」
「なんだよ」
「いつもの猫のたまり場、今日はどうだったっけ」
大学から商店街までの道のりに、猫のたまり場になっているそれこそ猫の額ほどの空き地がある。今日の僕はそこを通ったときの意識がない。
「そんなことを訊きたくて呼び止めたのか」
白装束の後ろ姿が肩をすくめた。
「いつもの、黒猫、白猫、ペルシャ猫のトリオに、たぶん新顔だろう、しっぽの長い三毛猫の、計四匹がお昼寝していたぞ」
それじゃあな、宮瀬が姿を消した。定員のありがとうございましたーという声がこだまして、奴の伝票が僕のカツ定と一緒にまとめられていることにようやく気がついた。奨学金とか、ああいう話はやっぱり嘘なんだ。
一人カウンターに残されて、僕は店員にご飯のお代わりを注文した。このお店はご飯のお代わりがし放題なのだ、学生にとって非常にありがたいシステムだ。
「おまたせしましたー」
湯気の立つ山盛りの茶碗を持ってきてくれたのは、藤代だった。彼女はこのお店でバイトをしているうちの大学の一学年下の学生で、僕が足繁く通っているうちに、なんとなく知り合いになった。
「どうも」
茶碗を受け取って食らいつこうとすると、藤代が邪魔をした。
「あの、さっきの白い服を着ていた人、お友達なんですか」
気になってしまうのも当然だよなあ。僕だって、門のところでビラを配っている宮瀬を発見して、白昼堂々と宗教が大々的に大学構内でビラを配布している事実と、そしてそんな宗教に友人の一人が飲み込まれている事実に打ちのめされて、茫然自失したままとんかつ定食に辿り着いたわけなのだから。
「友だちではあるんだけど、あんな宗教にはまっているなんて、今日初めて知ったよ」
「悪い宗教なんですか」
「わからないね」
だんだんと茶碗からのぼる湯気の元気がなくなっていくからそわそわする。宮瀬なんていうバカのせいでうまい白米が台無しになってしまうのはいやだ。
「私のことは気になさらず、食べながら話をしてくださっていいんですよ」
藤代は僕の意志をくんでくれたようで、そんなことを言った。そして、エプロンを外して、僕の横、さっきまで宮瀬の座っていた席に腰を下ろした。
「私、この時間でバイトあがりなんです」
彼女はそう説明した。
僕は残ったカツとご飯を口に運んでいく。脇から藤代がじっと見つめてくる。なんだかくすぐったくて落ち着かない。
「私、おいしそうにご飯を食べているのを見るのが好きなんです」
「へえ、じゃあこのバイトもずいぶんと肌に合っているんじゃない」
「そうなんですよ、いっつも楽しいんです」
「それはよいことだ」
「それとですね、私、おいしそうにご飯を食べている人のことが好きなんです」
一瞬、咀嚼運動が止まった。
「あ、いまの一瞬、なに考えたんですか」
まさしくその隙を突かれてしまった。
「いやー、ご飯をおいしく食べるのを見るのが好きな人に凝視されていると、ちゃんとおいしそうに食べなくちゃって緊張しちゃうんだよ」
「自然体でいいんですよ。それともうちのお店のご飯、演技して見せないといけないほどにダメな味なんですか? そんなこと、絶対にあるわけないと思いますけど」
「ごめん、ごめん、そういう意味で言ったわけでないよ」
僕は残りのご飯を一気に頬に詰め込んだ。もぐもぐごくりとやっている段に、藤代はこんな事を言った。
「先輩、このあとお時間ありますか。一緒に行って欲しいところがあるのです」
僕はまだ、嚥下しきっていないふりをして、あごだけ使ってコクリと頷いた。
藤代の行きたかったところと言うのは、商店街の外れにある、ジャズクラブだった。
古びた雑居ビルの狭い地下に広がるたばこ臭い空間だった。たしかに女の子一人で来るには勇気がいるだろう。
「私、今日のこの演奏を聴くのがずっと昔からの夢だったんです」
薄くらい照明で辺りが暗く沈んでいる中、藤代の瞳だけがやたら輝いて見えた。
「まだ私がとても小さいころの話なんですけど、うちの父はこの大学に勤務していたんです。それである日、幼い私を連れて、このクラブに来て、そしてあのアルトサックスの音色に出会ったのです。父が私と遊んでくれることなんて滅多にありませんでしたから、あの演奏を聴けるのはたった一回きりだと思っていました。でも、ここのクラブで演奏していることを知って、それでとうとう今日、ここでまた聴けるんです」
こんな辺鄙な土地の小さなジャズクラブで、一人の少女をこれほどにまで虜にしてしまう演奏なんてあるのかと僕はひたすら感心した。
「その、先輩にはわざわざついてきてもらったので、それでこんな説明とかしてしまったんですけど」
藤代が口をつぐんだ。地下室の空気が少し凍る。カツンと革靴がフローリングを蹴る音が響いた。
そして、壇上にアルトサックスを首から提げた男が現れた。
観客から歓声が上げる。藤代も男を向いて、これでもかといわんばかりに拍手をしている。
壇上の男が一礼をすると、夜が来たみたいに静まりかえった。
男がサックスを構えた。彼の息づかいさえ聞こえてくるくらいに観客はサックスを睨んで最初の音を待った。
長い静寂だった。僕も固唾を呑んで見守った。
リーン。
それを破ったのはサックスではなかった。僕も観客も一斉に音のした方を向いた。
リーン。
鈴虫のように澄んだ音が、バーの奥から響いてきた。音叉だった。
なにごとか、そう言って観客の一人が立ち上がった。さらにひとり、ふたりと立ち上がる。
リーン。
藤代も立ち上がって、僕らの丸机を揺らした。
リーン。
四回目の音叉に、観客たちはついに吹っ切れた。怒鳴り声を上げながら、音のした方向、バーの方へ走っていく。そして僕の席から見えないさらに奥の方へ消えていく。
「先輩、私も気になるので見てきます」
唖然とした僕を放って藤代も消えていった。
やがて観客、そして藤代の足音さえ聞こえなくなる。
この狭い地下室に残ったのは、僕とサックス奏者だけになった。
リーン。
音叉がむなしく響き渡る。その余韻が地下室の壁の煉瓦に吸収され尽くされると、壇上の男は一礼した。
腰を曲げて、そして次に頭を起こしたとき、僕はその男が小柄で丸眼鏡で高齢なあの教授であることに気がついてしまった。
目があうと、彼はにやりとした。
背筋がひやりとして、僕は思わず席を立った。
リーン。
音叉が鳴った。
この男はおかしい。この地下空間もおかしい。逃げよう。
そう思った。
観客は、藤代はこの空間の奥の方へ消えてしまった。僕もそれを追うべきだろうか。彼らの安否が気になる。そして音叉を鳴らしているのが誰かも知りたい。
リーン。
僕は、部屋の奥から響く音叉へ一歩踏み出す。壇上の教授が、気味の悪い笑みを口の端に浮かべているのがわかる。これではこいつの思うつぼなのか。
「にゃあ」
音叉の音に紛れて、一匹の猫の声がした。
「にゃあ」
もう一度、今度ははっきりと聞こえた。僕らが地下に降りてきた仄暗い階段の方からだった。そうか、もと来た道を戻ればいいのか。
僕がジャズクラブをあとにしようとすると、壇上の教授は言った。
「少年、それは科学なのか」
間接照明が徐々に暗くなっていく中で、ボオっと光っている彼の眼鏡の縁がやけに印象的だった。
階段を上がれば、そこはいつも通りの商店街の風景だった。
いつの間にか日も傾いて、風も少し冷えていた。どこか遠くからたき火のするにおいが流れてきて、鼻がむずむずした。
僕を救ってくれた鳴き声の主を捜そうと、僕は猫のいそうな場所を目指すことにした。
まずは、あのたまり場である。
もちろん猫はいた。黒猫、白猫、ペルシャ猫の三人衆が暢気にごろごろしていやがった。宮瀬の言っていた、尻尾の長い三毛猫とやらは見当たらなかった。その新参の猫は、きっとこの三匹の雰囲気が肌に合わずに、ここに留まるのを諦めたのかもしれない。あるいは尻尾の長い三毛猫なんてそうそういないから、宮瀬のでっち上げた空想なのかもしれない。
なんにせよ、二回しか聞いていない鳴き声を頼りに、その猫を特定するなんて不可能なはずだ。
やめだ。僕は空き地に背を向けた。
「おや」
思わず僕は声を漏らした。
向かいの塀の上に、一匹の猫がいて、ばっちり目があったのだ。
猫は僕を見るとめんどくさそうに欠伸をした。長い尻尾をぐるぐるさせると、ひょいと道路に飛び降りて、僕の方へ歩いてきた。
宮瀬の言っていた尻尾の長い三毛猫様だ。
猫は、僕の足下までくると、僕を見上げて「にゃあ」と鳴いた。牙を見せるような鳴き方だった。
撫でようとして腰をかがめた僕をするりとかわすと、すたすたと商店街の方に向かって歩き始めた。僕は、面白くなってそのあとを追うことにした。
「ねえ、猫さん」
僕はなんとはなしに話しかけてみた。
「さっき僕を助けてくれたのはもしかして君なのかい」
猫は無視をして歩いていく。当然のことだろう。猫はしゃべらない。
「おーい、猫さーん」
僕の話す言葉を一切理解しないだなんて、話しかける側からしてみればむしろ都合の良いものだ。いくらでも話しかけ放題だし、猫にとってみても話の内容がわからなければそこまで鬱陶しくないだろう、あるいは鳥や虫のさえずりみたいに聞こえるのかもしれない。
「そんなことはないんだが」
猫だった。
「俺がなにも言わないからと言って通じていないわけではないんだが」
紛れもなく、前を歩く尻尾の長い三毛猫の発する声だった。
驚いて僕は失語する。
「なあ、お前はどうやら『ただの人間』のようだなあ」
「それってどういう意味だよ」
意思疎通を図ってみる。
「つまり、お前はどうやらあっちの世界から夢の世界に紛れ込んでしまった人間のようだ」
「夢の世界?」
なにを言っているのかは理解しかねるけれどどうやら会話は成立しているらしい。
「夢の世界だよ。それも君の知っている人間のうちの誰かの夢の中なんだろう」
「なんだよ、それ」
「君にはとるべき選択肢がふたつある」
猫は足を止めて振り返った。
「ひとつは、すべてを諦めて、この夢の世界に住み着いてしまうことだ。ここでは、君が知っていたような科学の法則は成り立たない。それを逆用すれば、かなりうまく生活できるはずだし、俺はそういう人間をいろんな夢の世界で見てきた」
猫がしゃべると猫の口も動く。当たり前なんだけど、僕の視線はその点に強く吸い寄せられた。
「もうひとつは、この夢の世界から現実世界への抜け道を探しだして、それを辿って帰ることだ。この夢の世界を支配している法則にはほころびがある。そこをつけば帰る方法が君にも見つかるかもしれない」
猫はしゃべりながら尻尾を揺らす。なんだろう、実感の湧かないことを言われているのに、なんだか説得力を感じる。
「ただ、君にいくつか留意しておいてもらわないといけないことがある」
「それはいったいなんなのかい」
「まず、この夢が誰の夢かはっきりわかっていない以上、君は目立つ行動をとるべきではない。夢の主にとって目障りな存在になれば、この世界を抜け出る前に消滅させられてしまうかもしれない。運良くこの世界を追放されたとして、もとの世界に戻れる保証もない。あるいは、君自身がこの夢世界の法則を乱してほころびになってしまう恐れもある。そうなれば、君を中心に夢世界は崩壊し、もとの世界に戻れず消滅する」
「ちょっと待ってよ、消滅するってどういうことだよ」
「たぶん、死ぬと言うことにとてもよく似ているんじゃないかなあ」
猫はさらりとそんなことを言う。
「世界が消滅すれば、猫さんも消えてしまうんでしょ? なら手伝ってよ」
「それは違うね。俺は手伝わないよ。俺はこの世界だけでない、いろんな夢世界を行き来できるんだ。ここに危機が訪れれば、よその夢に逃げるだけさ」
「そんなことができるんだったら、僕がもとの世界に戻るヒントもあるでしょう、教えてよ」
「それは困った注文だなあ。いちおう、俺はこれでも君のもとの世界についてそれなりの知識はあるつもりなんだけどさ、どうやらそこからえられる一つの結論は、猫は多世界を容易に横断できるけれど、人間にはそんな芸当は普通は無理だって事くらいだよ、残念ながら」
「その理由は?」
「理由だと? ふふ、面白い。科学的な精神だねえ。そして、それこそが、人間と猫の違いさ。人間の科学的精神は、夢世界を夢として受容できないのさ。それが原因だろうね」
「理性的に話をしているいまの君には、科学的精神は宿っていないのかい」
「おっと、鋭い質問だねえ。でもねえ、俺は決して論理的にしゃべっているつもりはないんだ。俺は単に独り言、いや正確に言えば、独り鳴きをしていて、それを勝手に君が日本語として解釈しているのさ。俺の言動から科学的精神を見いだしているのは君の脳みその勝手なお節介であって、俺の理性なんて実在しない」
詭弁で饒舌な猫だ。
「ここでひとつ、夢の仕組みというのを、『科学的に』俺が教えてあげようじゃないか」
「ほほう、聞かせてもらおうじゃないか」
「ダイアメトリックドライブという言葉を聞いたことはあるかい」
猫の口からいきなり難しいカタカナが飛び出してきた。でも、ひるんではいけない。
「これの説明をするためには、まずは質量が負の物体を仮定しないといけない」
「おい、ちょっと待ってくれ、猫さんよ。僕のもともといた世界には、質量が負なんて概念はそもそも想定されていなかったぞ」
「細かいことは気にしない。なんせここは夢なんだから。それに、存在しなくても思念できる、それが人間の偉大なところなんだと俺は思うけどなあ」
「さて、いま正の質量の物体甲と、負の質量の物体乙を正面衝突させます。さて、二物体甲、乙の挙動はどうなるでしょう」
猫が長い尻尾をはてなマークにした。僕に、考えろと言っているようである。
質量が負ということは、運動量の向きも普通とは反対向きであるということだ。つまり、甲は乙の衝突によって進行方向に運動量を得て、乙が来た方向に向かって加速していく。
「正解だ。そしてよその世界からやってきた君が甲で、夢の世界のありとあらゆるものが乙なのだ。君はこの世界にいればいるだけ、夢の世界に向かって無限に加速していく。夢にどんどん引き込まれていく」
「え、この世界の物質って質量が負ということ?」
「ちがう、あくまで比喩表現さ。でも、この夢の世界がどれほど異質なものか、少しはわかったんじゃないか」
「つまり、夢に触れるほど、夢に飲み込まれていくということだな」
「そういうことさ」
「このまま夢に向かって加速していくとどうなるんだ」
「君も少しずつ実感しているだろう。君にとって慣れない事象がどんどんと頻繁に起こるようになっていないかい?」
思い返してみる。音叉、サックスを持った教授、そもそも藤代と商店街を歩くというのも初めてだった。宮瀬も変だった。夢みたいな奇跡を起こす神様を妄信していた。あるいは、いま目の前にいるこの猫もおかしい。人語を解しているのだから。
「いつからだ、いつから僕はこの夢に迷い込んでいるんだ」
「そんなの俺が知るよしもないだろ。君のことは君自身が一番わかっているはずさ」
「このままどんどん夢になってしまうのか」
「そうだよ。使いこなせれば便利だし、それが嫌なら帰る方法を探すことだね」
変な汗がべたっとシャツに張り付いていた。
「ちょっと、そこの猫としゃべっている少年!」
チャリンチャリンとベルを鳴らして後ろから自転車が追いついてきた。
自転車の乗り手は、汐見先輩だった。僕のよく知る先輩の一人だ。
「いまから面白いところに連れて行ってやる。ほら、乗れ!」
先輩のかけ声とともに、自転車がバイクに変化して、左のペダルがにゅっと肥大化して、サイドカーに変身する。
サイドカーつきのバイクなんて僕は現実世界でも見たことがないよ。
「さあ、乗った、乗った!」
先輩の威勢のいい声につい乗せられてしまう。そしてエンジンを吹かすけたたましい音に耳が痛くなる。
「ほらよ」
先輩が投げ渡してくれたヘルメットを装着していざ出発。はっと思い出して振り返ってみたけれど、三毛猫の姿は完全に消えていた。
すぐに海に着いた。とても小さな港だった。
大学の近くに海なんてなかったけれど、バイクで走ってみると案外これくらい近くに海はあったのかもしれない。
先輩に促されて、一隻の漁船に乗せられた。船室には二人がけのこぢんまりとしたソファがあった。
僕と先輩はそこに座って、船が沖に出るのを待った。無人で舵が切られていく。荒波もない穏やかな海を、船は進んでいった。
しばらくして、錨を降ろす鎖の音がした。船が止まると、波に揺られてソファは上下した。僕と先輩は、甲板に出た。
先輩は麦わら帽子と白いワンピースで、海風を受けて長い髪をはためかせていた。目を細めて水平線を見つめている。
僕は自分が冬着でいることが情けなくなって、眩しい太陽をちょっと見つめると、夏服になっていた。白いセーラー服の女子高生だった。一体これは誰の夢なんだろうかと、僕は呆れたけどどうしようもなかった。
この海は、夏だった。
生ぬるい潮風が僕らの耳介を撫でて、アイスが今すぐ食べたくなる。
甲板に落ちていたさっきのヘルメットを先輩が拾い上げた。ヘルメットを抱えた先輩の腕の中で、それは、ぐにょぐにょとうごめいて双眼鏡に変形した。
僕は夢に引き込まれているのだと自覚した。
先輩は言った。
「私ね、少し前までは鳥のように空を飛ぶのが夢だったの」
先輩らしいのびのびとした夢だと思った。
「ペンギンっていう生き物は知ってる?」
「はい、もちろんです」
僕はそう言ってから後悔した。僕の知っているペンギンとこの夢の世界でのペンギンは別物なのかもしれない。
「ペンギンはさ、空を飛べないよね。昔は空を飛べたはずなのに飛ばなくなってしまった。もったいない、むかしの私はそう思ったわ。でも大きくなって考えたら、ペンギンはちゃんと飛んでいるのよ」
先輩は一息ためた。
「ペンギンは海の中を自由に飛び回るんだわ!」
眩しくて白い歯を見せびらかして言った。
「ちょっと覗いてみて」
先輩から受け取った双眼鏡で、僕は水平線を見る。
大きないけすが浮かんでいた。
「私、少し前まであそこでペンギンを飼って、その研究をしていたの。ただ、この間台風が来たときにみんな飛行船になって飛んでいってしまったわ」
「それでね、いまちょうど新しい実験を始めるところなの」
双眼鏡の視界の中に男女が現れた。いけすの縁に数人かたまっている。僕が驚いたのは、彼らが全員裸だったからだ。奴隷なのかもしれない、僕は疑った。
「はじめ!」
先輩が叫ぶと同時に、彼らは全員いけすに飛び込んで、水面に溶けた。
先輩は満面の笑みでフムフムと頷いている。
水面近くは双眼鏡でもよく見えない。なんとか目を凝らしても見えない。そのうち双眼鏡の視野に、一隻の大型タンカーが入り込んできた。そしていけすの脇に停泊すると、どんどん奴隷たちが吐き出されてきた。タンカーからおびただし数の裸の人間が現れては、次々と水面下に消えていく。一体なにが起きてるのか。僕はたまらなくなって先輩に訊いた。
「安心して。あれは全部人権のないクローン人間だから」
先輩は屈託もなく言う。
「あの人たちはどうなるんですか」
「溶けているのよ」
先輩が考えていたのは想像以上におぞましいことだった。
「ペンギンはどうして空ではなくて海の中を飛ぶのか考えてみたのよ」
夢の世界では理論も理性も理由もあったもんじゃない。
「きっとね、密度が自分に近い流体であるほど、飛び心地がいいんじゃないかしら」
「それで、人間が飛ぶんだったら、どういう流体をつくろうかと考えてね、それで人間を溶かした液体の中で飛ぶことを思いついたの」
「先輩、正気ですか」
反射的に問いただして無意味だったことを悟る。ここは夢の世界なのだ。
「私は本気よ。自分の夢のためだったら、何でもするわ」
先輩は、踊るような足取りで船室に戻り、面舵一杯に引いて船を全速前進させた。足下がぐらついて僕は甲板で膝をつく。海底を引きずる錨の悲鳴が僕の鼓動を速くした。
いけすに着いた。赤黒いプールにピンクのムースが浮かんでいるような情景だった。停泊していたタンカーは既に無人のようで、海風の音とカモメの鳴き声がすべてだった。
「よっしゃ」
ビキニに着替えた先輩が船室から飛び出してきた。小麦色の肌が日の光を反射して網膜が焼かれそうになる。
ふと、自分に目をやるとレースのついたかわいい水着をまとっていた。そうか、僕はいま女子高生になっているんだった。
「さあ、飛び込むよ!」
先輩が甲板のへりに足をかけた。
止めなければいけない、僕はそう感じた。そして言ってしまった。
「お言葉ですが、先輩」
「なに?」
「先輩がつくった人間ジュースの密度は、生きた人間よりも重いです。先輩がもしそのプールに飛び込めば、あなたの肺に入った空気のせいで、体はきっと浮かびます。決してその液体の中を飛び回ることはできません」
「肺ね」
先輩は躊躇った。白いワンピースに戻った。
僕は胸をなで下ろした。僕が本当に恐ろしかったのは、飛び込んだ先輩がクローン人間と同じように、このいけすに溶けてしまうんじゃないかという気がしたからだった。
「やれやれ」
僕の握っていた双眼鏡がしゃべった。
手のひらの中で姿を変えて、あの尻尾の長い三毛猫になった。
「君はつくづくバカだねえ。せっかくこの夢のほころびを見つけたというのに、それを夢の登場人物に話しちゃいけないじゃないか」
「なんだよいったい」
「ほころびをきっかけに君は夢からの脱出経路を見つけることができるはずだ。でも、ほころびを登場人物に指摘すれば、夢はほころびを認知する。その部分は修正されてしまう。最悪の場合、ほころびを見いだした君自身がほころびとして夢世界に認識されて、存在もろとも消し去られてしまう」
「そういう大事なことは最初から言ってくれよ!」
「ごめんごめん、タイミングを逃してしまって」
僕と猫のやりとりに汐見先輩は割り込んできた。
「ほころびを見つけて修正するのが、科学のあるべき姿よ。決して誤りが悪というわけではないわ」
猫は「にゃあ」と言った。船底を突き上げるような高波が僕らを襲った。天候は急変した。夏空は真っ黒な雲に覆われ、そして雷が波音をかき消す。
「この小さな漁船はダメだわ。タンカーに避難するわよ」
僕らは漁船を空になったタンカーに乗り付けて、飛び移った。漁船はまもなく沈んでいった。
僕らはタンカーの船室に入り込んだ。タンカーはほとんど揺れもなくて、びっくりするくらい静かだった。
「もう駄目かもねえ」
猫は言った。
「この天気、よくある夢のおしまいだよ。君がほころびを発見したせいで、夢そのものが崩壊の危機だ。消滅する前に脱出方法を編み出すんだな」
「脱出ってなによ」
汐見先輩は猫に突っかかった。
「君には関係ないことさ」
「いいえ関係あるわ。私も彼と一緒に脱出する」
「あら、そうかい、勝手にそうするがいいさ」
猫は丸まって動かなくなった。
僕と先輩は顔を見合わせた。打つ手なしだった。
静まりかえっていると、僕は船の奥から聞こえてくる泣き声に気がついた。先輩を連れて、船室から廊下へ探検してみた。
空っぽになったはずのこの船に、まだ人が残っていたんだ。僕はひとかけらの安堵を噛みしめた。そして、ついに奴隷船の隅で丸くなっている裸の少女を見つけ出した。少女はすぐに泣き止んだ。
いや、一人の少女ではなかった。彼女の顔つきは藤代そのものだった。藤代はくしゃみをすると、深紅のフルイドドレスを身にまとった。
そしてこう言った。
「わかりましたよ! もとの世界に戻るには、この夢に迷い込んだ人物を集めればいいんです!」
僕は驚いた。藤代は夢のこと知っているようだ。
「音叉ですよ、音叉。夢は共鳴を起こすんです。現実世界から迷い込んだもの同士は現実の波長で共鳴を起こします。それが集まることでより強く現実を押し出すことができるんです。そして夢が持っている負の仮想質量を波動で打ち消せるんです!」
僕にはさっぱりだけど、汐見先輩は頷いていた。なんだか急に頼もしい仲間ができて、この世界からの脱出も現実味を帯びてきた。
そう安心したとき、船体が大きく揺れた。
船室が赤色灯で照らされる。
「右舷後方より敵機の攻撃あり」
船室に設置されていた巨大モニターに文字が表示され、映像に切り替わる。
戦闘飛行艇が一機、我らがタンカーを周回しているようだった。
「なんだよ、あの飛行機。僕らの船を沈めようとしているのか」
「明確な敵意を感じるね。このまま放っておけば船はいずれ沈むわ」
汐見先輩は言った。
「もとの港に復帰しましょう」
藤代は提案した。
「それは無理だ。霧が濃くて視界はきかない。夢の中ではレーダーも信用ならない」
汐見先輩は腕組みをした。
「じゃあ、この船に鞭打って、ニライカナイへ向かいましょう」
「藤代、落ち着いて、この船にそんな機動力はもはや残されていないわ」
汐見先輩は船体の破損部位を確認しながら言う。僕に翻って問い直す。
「夢に迷い込んだ人間はあと何人いるんだ」
藤代も僕を向く。汐見先輩もにらみを強く利かす。
そんな、僕を見られても僕がわかるはずもない。そもそもこの夢が誰の夢なのかと言うことさえ僕は突き止められていない。
モニター表示が切り替わった。敵航空機の詳細な映像だった。
コクピットに乗っているのは一人、小柄で丸眼鏡の。
「教授だ!」
僕たち三人は揃えて声を上げた。
「敵機より入電、『センタイコウホウヲハカイセン』」
そして二回目の攻撃にタンカーは大きく揺れた。
船の奥底から勢いよく浸水していく音が響いてくる。そして船は傾きはじめた。
「教授の野郎、一体なに考えてんのよ」
汐見先輩は声を荒げた。
そして、僕にもわかってきた。この夢の正体が。
「敵機旋回、午後二時の方向から突撃してきます!」
藤代がモニターを読んだ。
「おい、藤代、今なんて言った」
「敵機が旋回してこのままではタンカーに突っ込みます! 回避、間に合いません!」
「その前だ!」
「午後二時から敵機が来ます!」
「午後!」
「そうです、二時は二時でも午前じゃなくて午後二時です!」
時間がない。タンカーが破壊される。
残りの登場人物に思いを巡らす。そして、思い当たった。
「あとは、宮瀬だけだ」
僕が言うと、先輩と藤代は強く頷いた。
「そうか、わかった、宮瀬だな」
先輩はそう言うと、モニターを平手で強く叩いた。
「お待たせさん!」
宮瀬の声がモニターから流れてきた。そして例の白装束が画面に映る。
「おい、宮瀬、いつまでその白いの着てるんだ」
汐見先輩が画面に向かって詰め寄った。
「いやいや、先輩、勘違いされては困りますよ。みんな白装束、白装束言っていますけれど、これは実際、ただの白衣です。サイエンティストたるもの、白衣が似合わなければかっこわるいでしょ?」
そういえば、宮瀬は科学者っぽい格好をしている。
「俺が一番科学に近いところでこの夢と闘ってきたんですよ。どうです、実はこのタンカーも俺が造ったんすよ」
そして、溜息。
「手は貸さない、とか言ったけどさ、帰り道くらい一緒でいいよな!」
宮瀬が画面内でガッツポースを決める。
「よし、これで全員そろった」
汐見先輩は手を打った。
「宮瀬、私、藤代、教授、そして」
「僕」
その場の全員が僕を見る。教授からの殺意さえも僕を向いているのが空間越しによく分かる。
「あと、俺も忘れるなよ」
眠っていた三毛猫も自己主張した。そしてここまでくれば、老教授の飛行機の特攻を待つだけだ。
爆音がして、タンカーは大きく揺れた。床が抜けて爆風に吹きさらされ、僕は自由落下に身をゆだねた。無重力の心地が世界からの脱出速度に到達した証しだろう。
まぶたを開くと、僕はベッドの上で仰向けになっていた。カーテンの隙間から覗く青色が心に染みる。尻尾の長い三毛猫は、僕の胸元で丸くなってぐねぐねしている。時計を見ると、午後二時を指していて、目を背けたくなるような現実に、僕は帰ってきたようだった。
おしまい
綿毛猫と雨嵐 はると @HLT
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