第47回【微百合】戦場に呼ばれて
午後だけという約束ではなかったか?
私は二つの針が右側に寄っている壁掛け時計に視線を向けて、ため息をつく。
締め切り前という戦場からさっさと逃亡するべきだったと後悔したのは、二つの針がかろうじて左側にあった頃だ。今から帰るにしても、足がない。わざわざタクシーを使うつもりはないわけで、こうなったら最後まで付き合うしかないのだ。
黙々と作業を進める。修羅場の空気は息苦しい。でも、これが終われば、最高の達成感を味わうことができるだろう。
――今どき、手作業でやる人も少ないだろうけどね……。
パソコンでサクサクと作業を進める人がもはや大半を占めるのだろう。だけど、私たちは自分たちが培ってきた技術で勝負をする。十数年前と違って、いくつかの工程はパソコンを使うようになってしまったのだけれど、それでも魂を込める箇所は手書きに限ると思ってしまう。故に、時代から取り残されたみたいにこうして作業することになるのだ。
《流れ星は何処に行くの?》
切り取った紙を、
「これ、どこの台詞だっけ?」
「あぁ、それは三〇ページの下のコマ」
「了解」
私が返事をすると、別のところからも声があがる。
「船上のシーン、背景のトーンどうする?」
「あー、それは暗くなりすぎない感じで! 一応、満月の夜だし」
「オッケー」
「ちょっ、《扇状》が《扇情》になってんだけどっ! 誰を煽ってんだよ、ウケるー」
「えっ、まじっ!? ――うわーっ、ホントだっ」
他のメンバーは二徹目に入っているせいで、頭が回っていないようだ。
「ほら、笑ってないで! 出力し直すから、他の作業進めてっ!!」
私は家主である明日実に代わって仕切り始める。こういうのは、中学の頃から変わらない。
「はーい!」
好きでやっているんだから仕方がない。好きでい続けられたから、今でもこうして集まって徹夜をする。
これを頑張れたからって、飯を食べられるようになるわけじゃないってことはわかっている。だけれど、ここまで年季が入っていると止めることなんてできない。だって好きなんだもの。
それに、明日実の作る漫画のファンなのだ。私が関わることで本が出るのなら、やらない道理など存在しないではないか。
「終わったー!!」
朝日がカーテンの隙間から差し込む。ガッツポーズをきめている明日実の足下には屍になり果てた友人たちの姿があった。
「良かったねー」
私はあえて抑揚なく告げる。
また一つ、この世に本が生まれた。コピー本なのだけれど、一見しただけではオフセット本と遜色ない出来だ。かれこれ十数年もコピー本を作り続ければ、極めることも可能なのだ。
「今日はありがとね! さっちゃんのお陰で売ることができそうだよ! だから、機嫌直して!」
どうやら彼女はちゃんとわかっていたらしい。自分が最初の約束を破ってしまっていることを。
私はムスッとする。
「そんなことを言ってもダメです、まだ怒ってます」
すると明日実は出来上がった本を私に差し出した。
「ちゃんと奥付に名前入れたからね!」
「私は明日実のスタッフじゃないわよ」
「でも、呼んだら来ちゃうでしょ?」
「…………」
無邪気な明日実の笑顔にはどうしても負けてしまう。コピー本を受け取って、パラパラとページを捲る。
この時間、いつも最後まで意識を保っていられるのは私と明日実だけだ。だから、出来上がった本に最初に目を通すのは私。役得。
「――ふふ。今回のも面白いでしょ?」
最後のページを読み終えたところで、明日実が自信ありげな顔をして告げた。
「……うん。最高傑作だ。売れると良いね」
できるなら、もっと余裕のある進行にして欲しいのだけど。
その台詞は声に出さない。
ずっと先の未来で、私は知る。
明日実が修羅場になってから私を呼ぶのは、私を最初の完成品の読者にしたかったからなのだと。完成したときに私が寝潰れていないように、ギリギリを見計らって呼び出していたのだ。
私は作者に愛された幸運な読者だったのだ。
《了》
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます