第16回【文芸】あの夏は遠い
虫の音が聞こえるたびに思い出す。あの遠い夏の日を。
その年の夏は猛暑で、今にも崩れそうなアスファルトの上にいつでも陽炎が立っていた。そこを毎日登下校させられて、学校の授業なんて頭に入るわけがない。だから、時季はずれの転校生を紹介されたときもぼんやりとしていた。
(……なんで夏休み直前のこの時季に?)
だから、疑問に思ったのは、下校途中の駄菓子屋さんでアイスキャンディーを喰っていた頃のことだ。
ぼんやりしていたはずだが、先生が「家庭の事情で急遽」などと言っていたのはうっすらと覚えている。家庭という名のオトナノジジョウがあるんだろう。
(まぁ、どうでもいっか)
溶けたアイスが落ちてしまう前にどうにか食べきろうとしたとき、事件が起きた。
「あれ? 君は同じクラスの――」
「
急に声を掛けられたから、残っていたアイスが落ちた。すぐに液体に変わる。
「そうそう。タツミくんだ」
「いきなり下の名前で呼ぶなよ、馴れ馴れしい」
転校生の彼は人懐っこい顔で近づいてくる。俺は避けるように離れた。
「アイス、落ちちゃったね」
「あんたが声を掛けてこなけりゃ、全部食えたさ」
だが、こだわるつもりはない。手元の木の棒をゴミ箱に向けて放ると、ストンと中に入った。
「じゃあ、アイスを弁償しようか?」
しれっと言ってくるので、俺はムスッとしたまま歩き出す。
「欲張ると腹壊す。んなもんはいらねぇよ」
じゃあな、と告げて歩いていく俺の後ろを、何故か転校生がついてきた。しばらくはほうっておいたが、つけられているとしか思えない距離を進んだ。寄り道をしている俺に、つかず離れずを保っているのは怪しい。
「あんたなぁ、ついてくんじゃねぇよ!」
気味の悪さに声を荒げて叫び、振り向く。そこにはニコニコ顔の転校生がいた。
「タツミくんは行くところが多いんだね。この街のこと、よく知ってるの?」
そのとぼけた態度に、毒気が抜かれた。
「……まぁ、生まれ育った街だからな」
「そっか。タツミくんはこの街で生まれたんだね」
ここはちょうど街全体を見下ろせる展望台だった。夕陽に照らされる街並みを見て、彼は目を細めた。どこか寂しげに見えた。
「なんなら、案内してやろうか?」
「本当?」
俺に向けられた青い瞳はキラキラと輝いていた。
「今日はもう陽が暮れちまうから、また別の日に」
「約束?」
「あぁ。指きりげんまん」
小指を出す俺に、彼は最初首を傾げてきたが、無理やり絡ませて指きりげんまんをした。
そう経たないうちに夏休みになって、転校生の家に行くともう誰もいなかった。家はひどく荒らされていて、虫の音が響いていたのをよく覚えている。
親が元軍人で――というか、無断で抜け出してきたらしく、捕まってしまった、というのが顛末だと、大人になってから知った。
俺は虫の音が聞こえるたびに思い出す。彼ともっと思い出を作っておけば良かった、と。
俺は夕陽を見るたびに夢想する。あの日の彼の目には何が映っていたのだろうか、と。
あの夏は遠い。
《了》
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