第3話 人類、登頂す
「どしたの、最近元気ないわね~。顔やつれてるわよ?」
「いやあ、その、家にアレが出るんですよ。」
「やだ、アレって?もしかして幽霊?」
「いや、ほら、黒光りして素早い……。」
「あ^~ゴキブリね~。分かる、田所ちゃんそういうの苦手そうだもんね。」
流石に奴らが喋るという事を告白すれば、いくら会社のやけに優しい先輩(オネエ系35歳)でもドン引きするだろう。それくらいの思考力はまだ男には残されていた。
早朝、男が恐る恐る漫画喫茶から自宅に帰ると、巨大女子型ゴキブリの死骸は跡形もなくなっており、ベタベタに汚れたニトリのラグマットだけが昨晩の惨劇を記録していた。そのまままともに寝る事も出来ず出勤し、食堂で胃に優しいおろしそば定食を注文して座っていると、いつものようにオネエ先輩が横に座り、男の肩をぺたぺたと触りながら、きゃっきゃと話かけてくる。
男は普段、距離感を惑星間距離程度に保った対応でかわし続けていたのだったが、連日のゴキブリ騒ぎですっかり衰弱し切っていた為、今日はただオネエ先輩の語るゴキブリ対策に、うんうんと耳を傾けて頷き続けるマシーン、全自動受け答え機と化していた。その顔は、数日の間にすっかりやつれ、見るからに生気が無くなっている。
(今なら、落とせる。)
そんな弱りきった後輩である男を見て、オネエ先輩の狩猟本能はそう告げていた。本物の狩人は、あらゆる変化に敏感に対応して
「それじゃあさ、田所ちゃん登山行かない?」
「……登山?」
「そう、登山よ。気晴らしになるだろうしぃ~、何より高い山にはゴキちゃんも出ないわよ?」
「登山……行きます。」
「きゃ~~~やった!……絶対よ。(低音前のめり)そうだ、いい加減連絡先教えてよぉ。日程とか打ち合わせないとでしょ。」
男は無表情のまま、はい、はい、と相づちをうってオネエ先輩とLINEを交換した。オネエ先輩にとっては元々趣味である登山。しかし当然、狙いは後輩のチョモランマだった。時刻は12時28分。男が無表情でおろしそばをすするのをどこか感無量と言ったまなざしで見つめるオネエ先輩。男の入社から1ヶ月半、入社日から毎日彼を口説き続けた不屈の精神がついに実を結ぶ瞬間であった。
――――
「先輩!見て下さい、めっちゃ景色良いですよ!」
山頂、2702メートルから見た景色に目を輝かせる男の姿を、オネエ先輩は母のような眼差しで見つめていた。
登山の約束をしてからわずか3日後、男から『もぅマジ無理登山ぃこ……』とのメッセージを受け取ったオネエ先輩は、愛車のBMWをかっ飛ばして教えられた住所に到着した。薄い緑色のタイルの外壁が、綺麗なマンションだった。そういえば部屋の番号を聞いていなかったわ、とオネエ先輩がラインを立ち上げようとすると、コンコンと窓を叩かれた。顔を見上げれば、そこには既に準備万端と言った風体の男が、力なく笑って立っていたのだ。
「昨日は風呂場に3匹、トイレに5匹も出たんですよ……。」
「やだ~、それ大家さんに言った方が良いわよ?」
「大家は県外の人らしくて、不動産屋に言っても鼻で笑われるだけなんです。しかもGの奴ら、最近じゃまるで殺されるのを待ってるみたいに身動き一つせずにこっちを見てるんですよ……何を考えているんだ……あいつらは……何を……。」
「あらやだ大変、何ならウチに住んじゃってもいいのよ?きゃっ。」
ぶつぶつと宙に向かって問いかける男に言った、一緒に住んでもいいという、半ば冗談、半ばガチのその言葉。それに男が一瞬喜びの色を浮かばせた事をオネエ先輩は見逃さなかった。
(確実にいける。もしかしたらこの子、元々コッチの気があるのかも……。)
あまりにも順調に行きすぎている事に少しの不安を抱きながらもBMWを山側へ向けて飛ばす。目の下をクマで真っ黒にした男を助手席に乗せ、法定速度を舐めに舐め切ったスピードで、車はあっという間に麓に到着し、男二人の登山は幕を開けた。
最初は何かに怯えるような表情を見せて、辺りをきょろきょろと見渡しながら歩いていた男は、山頂が近づくにつれて徐々に顔を明るくし、しまいには経験者であるオネエ先輩の先を行く程に元気になっていった。
「感動だ、何に怯える必要もない。ああ、心が澄んでいく……。」
「ね、来て良かったでしょ?」
「誘ってくれてありがとうございます……俺、もういっそここに住みたいくらいです。」
「うふふ、それもいいわね。」
山には奴らが居るが、この高さまで来れば奴らに怯える事もない。男はこの数日の悪夢を忘れようとするかのように、澄み切った空気を肺へと送り込んでいる。
(あらやだ……。)
オネエ先輩は、そんな満足げな男のザックから、一匹の大きなゴキブリが這い出て来たのを見てしまった。恐らく部屋から連れてきてしまったのだろう。ここで水を差すのも男に悪いと、オネエ先輩は気づかないふりをした。すると高山に慣れないゴキブリはヨタヨタと男の足を降りて地面に着地し、岩陰へと姿を消していった。
「登山サイコーー!!!!!」
満足を通り越してナチュラルハイの極みに達しようとしている男を母性溢れる目で見守るオネエ先輩。やたらと下山を渋る男は、その後1時間山頂でつかの間の安心を味わった。
そして下山。
登りに反して男の足は重い。今から恐怖で溢れる下界へと戻っていくのだから。オネエ先輩の後を、おぼつかない足取りで続く男は、恐らく自分に惚れているであろう、この人の家に泊まる事を本気で考えて始めていた。
「田所ちゃん、ちょっとルート変えるわよ」
「え、どうしたんですか……。」
オネエ先輩は、いつにない真剣な表情で男に告げた。
「熊よ、あたし熊の影を見たの。」
「熊?この山、熊が出るんですか。」
「何言ってるの、山に熊が出るなんて当たり前じゃない。というか人間が彼等の家にお邪魔しちゃってるのよ。まあ、気を付けてれば滅多な事にはならないんだけどね……。」
熊、それは鋭い牙と爪を持つ恐るべき動物である。しかし、喋る巨大ゴキブリの存在で頭がいっぱいな男にとっては、熊という言葉の響きは大した重みを持たなかった。
(熊スプレー持ってくれば良かったかなぁ……)
そんな事をぼんやり思いながら歩く男をよそに、オネエ先輩は右方向にルートを変更し、歩く速度をぐんぐん速めていった。実は東北の山村出身の彼(彼女?)には、子供の頃に山で親子熊に出会った記憶があったのだ。その時には至近距離で姿を見ただけだったが、子供ながら感じた圧倒的な無力感と殺される側の恐怖が彼には刻み込まれていた。
信じられない程のハイスピードで下山をするオネエ先輩と、それに何とか必死でついて行こうとする男。やがて男は、自身の後ろから追ってくる何かの気配を感じ取った。その気配は、ガサガサと音を立て、周囲のヤブを鳴らして自分たちを追い越していった。そして
「キャーーーーーーーーー!?!?!?」
前方から野太い悲鳴が聞こえた、オネエ先輩だ。まさか、本当に熊が!?男の足取りは速くなる。同時に、凄まじい勢いで、男の全身に荒縄のようなミミズ腫れがッッ!!!!!
「ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァ!!!!」
「嫌ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーーーーー!?!?」
そこに居たのはッ!体長2メートルはあろうかという超巨大なゴキブリッ!人類の記憶に刻み込まれた根源的恐怖を呼び起こすその太古のスケール感ッ!圧倒的力を感じさせる手足に、田舎の室内アンテナのように天高くそそり立つ触角ッ!今、超巨大ゴキブリは、震える男が見ている前で……足で……オネエ先輩の服を切り裂き、その上に覆い被さったッ!……は、繁殖ッ!?そう、奴らは、想像もしたくないが、人類の身体を使って……繁殖を行おうとしているのだッ!?しかし、覆い被さったその対象の股間……そう、股間にぶら下がっているであろう、チョモランマを認めると、超巨大ゴキブリは、あのグロテスクな頭を……確かに右に傾けたッ!
「ビッグサンダーマウンテンオラシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!」
「ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?!?!?!??!?!?」
まるで全身が、元気な時のチョモランマにでもなったかのように、身体の表面が隆起するミミズ腫れだらけになった男は、まるでこの時を想定していたかのように、ザックからゴキブリ氷結スプレーを素早く取り出すと、その圧倒的なスケール感のゴキブリに向かって吹き付けた。効いてくれ!頼む!男の願いが届いたのか、吹き付けられた箇所から真っ白になった超巨大ゴキブリは、氷漬けになって動きを止めた。
「あ、あ、ありがと……」
「ぐずぐずしてる暇はありません、すぐに動き出すかもしれません。……立って!行きますよ、先輩ッ!」
転げ落ちるように下山した二人。茫然自失と化したオネエ先輩の代わりに、男はBMWを運転し、オネエ先輩を自宅(タワーマンション)まで送り届けると、そして漫画喫茶でウメ星デンカを読んで一夜を過ごした。
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