第4話 人類、燻煙す

昨夜、漫画喫茶でウメ星デンカ全三巻を読み終わった男は仮眠を取ろうとしたが、何度もあの見上げるような化け物の姿を夢に見るのでついには睡眠を諦め、朝まで奴らについてインターネットで調べた。そして奴らの生態や行動パターン、その対処法を学びこんだ。


それは、奴らの名前を呼ぶ事もためらう男にとっては人生最大の苦痛を伴う作業だったが、漫画喫茶から出てきた男は、勝利を確信した邪悪にも見える微笑みを浮かべるとそのまま会社に電話をし、体調が優れないので休む旨を一方的に伝えて電話を切った。事実、ここ数日間まともに眠る事も出来ず、許容量を超えた異常を目の当たりにしてきた男の姿は幽鬼そのものだった。


時刻は10時、開店直後の近所のドラッグストアへ駆け込むと、あるものを買い込んで男は自宅へと帰った。ゴクリと唾を飲み込みながらドアを開けると、陽が差し込む平日の自室へと土足のまま入って行く。意外にも、奴らの姿はどこを探しても見えなかった。しかし、どこかで自身の事を監視しているであろう事を男は確信していた。


『田所ちゃんのリュックからね……出てきたのよ、でっかいのが……。』


……昨日帰宅中の車内、オネエ先輩から経緯を聞いた男は、自身のザックから出てきたという奴らが、何らかの意志を持って行動している事を悟った。というのも、男はザックを入念に点検した上で外へと出てきており、たまたま奴らが入っていた、なんて事はあり得ないはずだった。つまり奴らは男の行動を見ていた上、あえて隠密にザックへと忍び込んだ事になる。


依然奴らの目的は不明だったが、実際に第三者に被害が出た事によって、これが男の妄想ではなく、高度な知能と謎の力を有した奴らが現実に存在する事が証明された。もはや、これは男一人の問題では無い。地域住民、いや、オネエ先輩に攻撃性を見せたことからして、いずれ社会問題にすらなりうる事件だった。しかし、それを他人に理解させる事の難しさといったらない。人間に化け、喋る事もできる巨大ゴキブリの存在を、どうやって世間に伝えればいいというのだろうか。


唯一同じ悩みを共有出来るであろうオネエ先輩に相談しようとしたが、前なら2秒以内に返ってきていたメッセージは、ついに一晩既読になる事は無かった。


「……だから、俺が殺るしかないんだ。」


戸棚という戸棚が開け放たれた部屋の中央、ドラッグストアの袋から男は黒い缶を10個取り出した。


『バルサンプロEX』


それが黒い缶の名前だった。バルサンシリーズで効き目最強、3つの有効成分(メトキサジアゾン、フェノトリン、d・d-T-シフェノトリン)がどんな害虫も皆殺しにする燻煙系最強と名高い最終兵器である。


(全てが終わったら警察に通報し、燻煙によって皆殺しになった奴らの死体を見せよう。……もう俺一人が悩む必要は無い、これが俺の最後の戦いなんだ。)


男が躊躇いもせず缶の蓋を開けて擦ると、ほんの数秒で勢いよく煙が吹き出した。それを繰り返し、部屋のあちこちに置くこと10缶。男の部屋のサイズを考えればオーバーな量だったが、奴らの恐ろしさを知る男にとってはこれでも不十分ではないかと思えた。男は煙にむせながら部屋を出る。


ドカン!


閉じたドアの向こうから突然、何か重い物が倒れるものすごい音がした。


ドンガラガッシャーン!


続いて、細かい物が床に落ちる音と食器が割れる音がする。


そう、祭りが、始まったのだ。その音に反応した男の隣人達が、いつものように上下左右の床壁天井を叩いてくるもんだから、マンション中がドコドコドッカンとうるさくて仕方が無い。男はいたたまれなくなって足早に階段を降り、隣接する駐車場へと向かうと、愛車の軽の中で膝を抱えて丸くなった。これから最低でも2時間、煙が収まり奴らが死に絶えるまで待たなくてはならなかった。……しかし、これでやっと悪夢は終わる。そんな安心感から眠りの世界へ吸い込まれて行った―――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る