神戸一年恋物語 

吉川灯

第1話 春の願い①

細い坂道を猛スピードで駆け上がる、二台のスポーツカー。


 トンネルをくぐり抜けると、急なカーブに差し掛かる。古い型のフェアレディZは、唐突なブレーキに悲鳴をあげる。車体は今にもガードレールにぶつかりそうになるが、間一髪のところで体勢を持ち直し、直線を突き抜けた。


 遅れをとったRX8は、この直線で抜き去ろうと試みるも、Zの的確な位置取りに、カーブ直前まで車体後方に付くことさえ許されなかった。

 長い直線を走り、三回の急カーブを抜けると、緩やかなカーブが視界に現れる。道路は広く、”抜く”には絶好のタイミングだ。RX8は一気にスピードをあげる。Zもやはり、同じようにスピードを上げるも、追いつかれてしまった。


 RX8は、鼻先程度、先んじることに成功した。緩やかなカーブの先にある、急カーブが目前に迫ると、Zは一瞬恐怖に怯み、速度を落としてしまう。このZのロスは、RX8にとってこれとない好機だった。

 ゴールまであと少し。RX8は直線を一気に駆け抜けて、ゴールである駐車場に先着した。Zが駐車場に入ってきたのは、その数秒後である。


「おいたかし、やっぱりお前は、あのカーブにびびっちまうな」

「あそこでビビらなきゃ勝てたと思うんだけどなぁ」

「鬼門だな、あそこは」


 RX8の運転手は、たかしの言葉に同調した。


「左は神戸を眼下にするから、嫌でも警戒してしまう、かといって右により過ぎれば、岩壁にクラッシュして、車体ごと神戸に突き落とされる」

「一理ある。だが、一言付け加えるとすれば、そこでびびってちゃ、俺には勝てないってことだ」

「間違いない。努力するよ」


 いつも変わらぬ、この日常。高校時代に免許を取り、バイトで貯めたお金で、旧型のフェアレディを中古で購入して以来、ずっと走り続けてきた。大学に入学してからも変わらなかった。


「明日も、大学か」


 一人帰路に就きながら、ぼそりと呟いた。

信号が赤になったことに直前まで気が付かず、車は停止線を少し超えて止まった。目の前の信号を渡るのは、幸せそうなカップルばかりである。だが、目の前だけではない。スターバックスのテラスで、楽しそうに談笑しているカップル、南京町の出店の前で、仲良く肉まんを分け合っているカップル、嬉しそうに大きな紙袋を手に提げて、大丸から出てくるカップル。この”旧居留地大丸前の交差点”は、いつもたかしを苛立たせた。

 窓には、見慣れた男が反射して写っている。短めの茶髪は、友人に「染めれば女にモテる」と言われ、大急ぎで染め上げた思い出がある。その茶髪の先に透けて映る、幸せそうなカップルに、たかしは虚しさを感じずにはいられなかった。


「おかえり、たかし」

「ただいま、母さん」


 家に帰ると、いつも母親が出迎えてくれる。この日初めての、女性との会話だったことは言うまでもない。

シャワーを浴びて、夕食を家族と食べて、布団に潜り込む。布団の中で、明日の大学のことを考える。いつもと変わらぬ日常だ。

 たかしはこの”いつもと変わらぬ日常”に心底うんざりしていた。けれども、今の自分を変えようという努力をしなかった。寝る前に思い浮かぶのは、街中を歩く、幸せそうなカップル達の姿である。


「悔しいなぁ。ほんと」


 人生がうまくいかないからといって、泣くような年齢ではない。たかしは惨めな自分を忘れる為に、目を閉じて、必死で眠る努力をするのだった。

 目が覚めた時、外は微かに明るかった。


「早く起きすぎだ」


 たかしはまた、一人でボソッと呟いて、もう一度、布団を頭まで被った。

が、このときなにやら違和感を感じた。いつもの部屋と違う奇妙な違和感に、たかしは頭が完全に冴えてしまった。

 布団を押しのけ立ち上がり部屋を見回してみるも、誰もいない。目をこすり、よくよく凝視してみると、勉強机の上に、誰か座っていた。部屋が暗いのもあるが、勉強机の上に見知らぬ誰かが体操座りしているなんて、誰が予想できるであろうか。完全に想像の範疇外の出来事で、たかしの脳は、その少女の姿を認知できなかったのだ。

 たかしはもちろん驚きはしたが、相手が少女であることにある種の安堵を覚え、兎にも角にも話しかけてみることにしたのである。

 電気をつけてみると、暗闇ではわからなかった容姿が鮮明に見えた。ボブほどに整えられた、綺麗な銀髪。西洋風の黒い喪服を身に纏っている。そして何よりたかしの印象に残ったのは、ベール越しに見える緑色の瞳である。彼女の瞳は、どこか哀しそうだ。右目の下に見える小さな泣きぼくろが、より一層そう感じさせる。


「ヨーロッパじゃ、机の上で体操座りするのか? 」

「そんな文化があると思う? 頭おかしいの? 」


 哀しそうな瞳とは対照的に、攻撃的な言葉を発する少女に、たかしは少し困惑した。


「喪服着て、他人の部屋で体操座りしている女にだけは言われたくないな」

「あら、意味があってここにいるし、意味があって喪服を着ているのよ? 相手のことを深く知らないで、毒吐くなんて、脳みそ湧いてるんじゃない? 」


 何故見知らぬ少女に、自分の家で、ここまで言われなくてはならないのか。事情が飲み込めないたかしは、怒りをまず抑え、少女に事情を聞くことにした。


「なら、教えてもらおうか。どういった事情で、ここにいるのか」

「あんたに言われなくても今から言うつもりだったわよバーカ」


 そういうと少女は、指を鳴らした。かと思うと、その瞬間、鳴らした指に名刺が現れ、乱暴にたかしへ差し出した。名刺にはでかでかと人間更正委員会と書かれており、その下に、ちいさく生活指導官コレットと書かれていた。


「私の名前はコレット。人間更正委員会から派遣された、生活指導官よ」

「人間更正委員会ってのはなんだ。役人か? 」

「役人だけど、地球上に存在する国家が運営する組織ではないわ」


 今の話に、たかしはいまいちピンとこなかった。


「地球上に存在しない組織ってどういうことだ? 」

「日本人なのに、日本語が理解できないの? 所詮ダメ人間ね。言葉の意味通りよ」

「いいか? 言葉通りの意味でも、その意味はお前しかわからない。言葉といのはコミニュケーションツールだ。役人のくせに、意思疎通を図ることもできないのか」

「意思疎通もなにも、言葉通りの意味も汲み取れないあんたはダメ人間って言っているのよ。このタコ」

「じゃあなにか?  お前は神様のところから派遣されて、ダメ人間である俺を更正しにきたとでもいうのか。アホらしい」

「あら、いい線いってるじゃない」


 たかしは驚いて、一歩後退りをしてしまった。半ばやけくそで答えた”それ”が、まさか大当たりだったとは。さらにそれが、神様のところからやってきたというのだから。


「あんまり詳しくは言えないけど、神様が住んでる場所である”天界”から派遣されて、あんたのとこにやってきたのよ」

「なんのために」

「あんたみたいな、色んな意味で生産性の無い、生きてるだけで資源を無駄にし続けるダメ人間を更正させるためよ。それ以外にこんな小汚い、孕んだティッシュが散乱している部屋にわざわざ足を運ぶと思う? 」


 酷い言われようである。


「左様でございますか。で、神様方はこんなクソゴミダメ人間の為に、一体なにをしてくださるんでしょうか? まさか小娘に罵倒させるだけで、ダメ人間が更正するとでもお考えなのでしょうかねえ」

「駄目人間を更正させるために、神様はチャンスをくださるの。これから四季に合わせて一つずつ、計四つの願いを叶えてあげます」


 たかしは思わず目をひん剥いて、コレットをみた。かと思えば、おもむろに右頬をつねった。


「痛い、夢じゃない」


 未だに信じられないたかしは、箪笥の角に、思いっきり足の小指をぶつけてみた。言葉にできぬ痛みが、小指の先端からじんわりと身体中を駆け巡った。床を転がりまわりながら、悶絶している最中、ようやく夢でないことと悟った。


「本当に、なんでも願いを叶えてくれるのか? 」

「ええ、もちろん。さ、春の願いをどうぞ」

「そうか、ならば」


 何でも願いが叶うとなれば、たかしの願いは一つしかない。屈辱を晴らす時が来たのだ。その時のたかしの脳内には、旧居留地で見たカップルの群れ、ここ数日の間に話した異性は、母親ただ一人という現実、それらが走馬灯のように流れていた。


「俺の願いはただ一つ、全世界の女性を俺の性奴れ」

「残念だけど、人の気持ちを操作する願いは、叶えられません」

「なんでも叶えられるんじゃないのか! 」


 たかしもこの時ばかりは憤怒した。


「ごめんなさい、これはその、ちょっとした趣味でね。ダメ人間はどんな願いでも叶えられると言われた時に、なんてお願いをするか、統計を取ってるの」

「カスみたいな趣味だな」

「ちなみに、あんたと同じように答えた人間は、例外なくバカでノロマで生きてる価値がない人たちだったわよ」

「ちくしょう、人の心を弄びやがって」


 たかしは無い知恵を振り絞った。人の心を願いで動かせないのなら、心を動かす為の何かを願えばいい。間接的に人の心を動かすのならば、それはコレットたちの、言うならば手の離れた場所での出来事じゃないか。


「金だ」

「はあ……」


 その言葉を聞いて、コレットは大きく溜息をついた。


「ちなみに言えば、女心を動かすことに失敗した人間は、みんな、次の願いで例外なく金を要求してきたわ。あんた、散々悩んでその答えに行き着くなんて、やっぱりダメ人間、クソゴミ生ゴミ生産機としての素質があるわね」

「なんとでも言えアホ。で、これまでの連中は幾ら要求してきたんだ?」

「億万長者とだけ。具体的な数字が出せず、とりあえずの幸せが掴めそうな、あいまいな言葉を紡ぐだけよ。努力したことのない人間の特徴よね」

「ならば、俺がダメ人間では無いことを証明してやろう」


 そう言うと、たかしは、片手をパーにして、コレットに向けた。


「なによ」

「五億だ、五億円で俺はハーレムを作ってみせよう」

「あんた……」


 コレットはあきれて言葉も出なかった。


「春の願いは、五億円、キャッシュで」

「わかったわよ、でも、これだけは言っておくわよ。願いで手に入れた物は、一年後のこの日、私と一緒に消えるから」

「構わん、一年後までに五億円を使い切って、ハーレムを作ってしまえばいいんだろ? 」

「ま、まあそういうことね。それじゃあ」


 コレットが指を鳴らすと、アタッシュケースが五個、布団の上に現れた。


「一億円の入ったアタッシュケーが五個、計五億円あります」

「俺は大学一年生にして、億万長者デビューしてしまったのか」

「猫に小判とはこのことね。さあ、これからどうするの? 」

「決まってるじゃないか」


 そういうと、たかしは大急ぎで自分の部屋を出た。階段をどたどたと大きな音を立てて降りていった束の間、たかしの声が、二階にいるコレットの耳にも入ってきた。


「お母さん、俺、今日大学休むわ! 」


 コレットはこの時、たかしがどういった人物なのかを察し、大きなため息をついた。

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