伝承脳

海道久麻

一 覚醒

 私は覚醒した。


 しかし、闇に閉ざされ何も見えない。

 いや目をつぶっているのか。

 瞼を動かす感覚がない。

 瞳を動かす感覚もない。

 視覚が効かないだけでない。

 聴覚も、……、五感がない。


 まだ完全に覚醒していないのか、私が置かれている状況を把握するほどには頭が働かない。

 それでも記憶は蘇ってきた。

 鮮明に覚えている。

 覚醒する前の、最も新しい記憶は人生の大先輩でもある親しい友人との会話だ。


「先生のご子息、ご活躍ですね。

 JBCS(麦国化学会誌、世界的に権威のある化学分野の学術誌)の常連と聞いています」

「ご専門が違うのに、笹木先生もご存知でしたか」

「お父様が物理学、先生が医学、ご子息が化学。

 羨ましいですよ」

「息子が向こうでテニュア(永久在職権)を取れれば安心なんですけど、それまではねぇ。

 それよりも笹木先生、聞きましたよ。

 麦国の研究所のセンター長も兼務されるとか」

 記憶を辿っていたら、突然、意識が朦朧とした。

 そしてまばゆい光に包まれた。


 迷信深い者はこれを此岸から彼岸へ渡る臨死体験というだろうが、違う。

 そうでない自分の状況を理解できるくらいに頭が回り出した。

 私の名は笹木巌(いわお)。

 自分の研究の被験者になった男だ。


「先生、お目覚めは如何でしょうか」

「苦痛はないよ。

 快感もないけど。

 私は被験者になったのかな」


 目も耳も口もBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)の電子機器仕掛けになったのだ。

 喋ることができなくても、考えていることはモニターに表示され、スピーカーやヘッドフォンから合成音声が発せられる。

「残念ながらそうです。

 これからも先生の指導を仰ぐことができて、私達は安堵しています」

 同僚に手綱を握られ、部下にこき使われる生活が続くことに、感謝だ。


 BMIによって人類は、義手や義足を本当の手足のように思い通りに動かせる。

 アンドロイドの五感は自分の感覚となり、アンドロイドを自分の分身として操れるのだ。

 BCIの入出力をモニターしたアンドロイドのAIは操作者の行動パターンと思考パターンを学習し、本人と切り離した自律状態でも本人の如く振る舞えるようになる。

 BMIの核となるモジュールは、私が基本原理を完成させたBCI(ブレイン・コミュニケーション・インターフェース)だ。


 五感情報を脳に提供し、精神活動の産物であるイメージや言葉を画像や音声、義手による筆記やジェスチャで伝えるための意思疎通モジュールだ。

 アンドロイドの開発や製造に関わる国内外の企業や公的機関が採用した。

 その特許料や顧問料で私の研究室は新しい研究に取り組んでいる。


 BCIは人類に新たな意思疎通の手段を提供した。

 瞬きや視線入力でしか意思表示ができなかった人にその苦労から解放できた。

 重篤な状態の人の中には最後の言葉を近親者に伝えて安らかな死を迎えた人もいた。

 死期の迫った重篤な状態の犯罪者から捜査に必要な情報を引き出すという荒技も密かに行われている。


 通常はヘッドギア型のBCIを使うが、脳とセンサーの距離は近いほどノイズの影響を受けないので、重篤な状態ではセンサーを脳に埋め込む。

 噂だが、諜報活動では健康体にもこのようなことが行われているらしい。


「救ってくれた皆に感謝だな」

「巌さん、よかったわ。

 皆さんのお陰ね。

 でも、大変でしたのよ」

 妻も部屋に居たのだ。

 まだ思考モニタリング・モードのようだ。

 これでは私が思っていることがダダ漏れになる。


「モニタリング・モードから通常モードに変えてくれ」

「先生の意識状態を確認できましたので通常モードに切り換えます。

 どうでしょう。

 違和感がありますでしょうか」

「問題ないよ」

 思っていることが全て伝わるのがBCIの思考モニタリング・モード。

 まだ試作段階だが、通常モードはフィルタリングで表意したいことだけを出力する。


 こうして、私の被験者生活が始まった。


 我が国の研究、事実上、私の研究、はBCIの通常モードのように装置技術で最先端にいながら、事例で麦国や甲国に後れを取っている。

 他国がヒトの事例に取り組んでいるが、日本では類人猿での研究しか許されないからだ。

 類人猿では痛みや情緒の状態をモニタリングできるが、それがどんな具合か、思考にどう影響するかなどを記録できなければ、仮説の上に仮説を重ねているに過ぎない。

 しかし、私が被験者となって三ヶ月で幾つもの仮説に決着をつけた。

 研究領域によっては、麦国を追い越しているかも知れない。

 だが、研究は半年ほどで行き詰まった。


 私一人の被験者でできる実験はほぼやり尽くした。

 新たな被験者が必要なのだが、日本ではそれが叶わない。


 法律も学会も研究機構の倫理委員会も、それを許可しない。

「脳死でない植物状態(遷延性意識障害)のヒトは生きているとされる。

 では、仮説として、脳だけを生かすことができたとき、身体が滅んでもヒトは生きているのか?

 死とされるのか?

 その脳は、当然に人格を保持し続け、BCIで外部の情報を収集でき、自ら意志決定して、それを第三者に伝えられる」

「生きていることの定義を自発的な呼吸や心拍に求めるなら、人工的に酸素と栄養を供給されて生きている脳は意志決定や意思表示ができても、人として生きていることにはならないのではないか?」

「脳だけの存在に、人としての権利を与えられるのか?」

「権利の議論は空論を重ねるだけだ。

 立法府は、当時存在しないこの技術を前提として検討の俎上に上ることすらなかった」

「将来、誰かが法律の外側にあるこの存在を現実にしたとき、人類の価値観は新たな段階になるのだろう。それから法整備される」


こんな筋違いの議論が延々と続いて、私の研究の足を引っ張ってきた。

 そんな中で私を襲った突然の銃撃事件。

 科学的素養のない雑誌記者が私の研究をヒトの脳を切り刻むとデタラメの記事を書き、それを信じ込んだカルト教徒が私を悪魔の手下として凶行に及んだ。


 その場にいた医学部教授の友人が辛うじて脳だけを救ってくれた。

 私の意志を理解している妻の同意のもとでBMIの被験者になったのだ。


 私は法律の外側の存在だ。

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