祐樹は誰も選べない

 小学生の亜利奈が腕の中で苦しそうに呻く。

 ああ。この光景は小学生の時にも見た。

 亜利奈へのイジメがエスカレートして、全身にシンナーを浴びせられて閉じ込められた時の光景だ。俺はあの時助けられなかった亜利奈をぎゅっと抱いた。




 俺はやっとまやかしから目覚めた。

 ここは青海学園でも、ましてや俺と亜利奈が卒業した小学校でもない。

 全てはミストが俺の記憶から創りだした大規模な幻だ。


「ねえ教えてユウ君。

 なんで、そいつがここに居るの?

 ユウ君の幼馴染みは私でしょ? そいつはもう要らないでしょ?」

 ミストはどこか凡庸とした様子で、俺に疑問を投げかけてくる。

「ミスト……」

 彼女は俺の記憶から亜利奈を消し去り、その位置に就こうとしたのだ。

 俺と亜利奈の関係を羨んだのか、あるいはもう二度と亜利奈の事を思い出させないようにしようとしたのか。だがどこで間違えたのか、俺の中にあるもっとも苦い思い出を顕現させてしまった。――もしかしたら俺自身の強い念か何かが、忘れさせまいとこの記憶の幻覚に働きかけたのかもしれない。


 俺は亜利奈をゆっくり傍に立たせる。すると、亜利奈は高校生の姿に変化し、俺の背中に隠れると怯えるように縋り付いた。


「もう見ただろう。俺と亜利奈はそんなに楽しい思い出ばかりじゃないんだ。

 すり替わったって無意味だし、いい事もないんだよ!」

 ――バキィ!!

 あの何かが折れる音が聞こえた。

 空耳なんかじゃない、はっきりとこの空に響き渡ったんだ。

「またそいつの名前呼んだ……」

 ミストは自分の頭を両手で抱えると、髪を掻き回し、

「そいつ、私のユウ君の中でいつまで居座るのッ!!」


 ……この音はミストの心か何かが折れる音なんじゃないのか……?


 憶測だが、異様な真実味があり、俺はぞっとした。

 これ以上ミストを追い込むのはマズイ。何とか気を宥めないと。

 焦燥する頭で必死に次の言葉を考えていたところで、


「……消えて……」


 ミストがそう呟いた。そして霧に変化し、広がった。

 周囲は濃霧に満たされて、あっという間に視界を奪われてしまう。

 一寸先も闇の中、ざっく、ざっくと小刻みに歩くような音だけが聞こえる。

 どこからか奇襲してくるつもりなのか!?

「ミスト、止めるんだ。こんな事しても何にもならない!」

 俺は身構えながら説得を試みる。

 だがざっくざっくという音は止まない。

「二人で元の世界に戻ろう!」

 ざっく、ざっく、ざっくざっく。

 ……音は止まないのに、一向に現れないぞ。

 距離的にも、もう傍に来ててもいいはずなのに、どこにも気配が感じられない。

 いずれにせよ何かを目論んでいるのは確かだ。

 彼女自身を取り戻すためにも、説得を続けないと!

「俺達、まだやり直せるだろ!?」

 ざっく、ざっく、ざっくざっく……ッ!!

 くそ、返事ぐらいしたらどうなんだよ!

 だんだん苛立ちが募り、俺は周囲を見渡して……、


 気付いた。

 背中に隠れてたはずの亜利奈が居ない。

 いつの間にか、忽然と姿を消していたのだ。

「しまった……」


 ざっく、ざっく、ざっく――ざっく。


 喉が鳴った。この音は足音なんかじゃない。

 俺は意を決して音のする方に歩いた。

「ミスト、おい、どこだ……」

 濃霧で視界が潰されているというものの、障害物は全くなく、俺はなんなく音に接近できた。

 ざっく! ざっく! ざっくッ!!

 近づくと、音は徐々に大きくなっていく。

 そしておぼろげに何かが上下する影が見えてきた。

 穴でも掘っているのか? そんな動きを連想させる。

 俺は募る不安を拭って、ゆっくりと前進を続けたが、ある地点で、びちゃっ、と水滴が顔にかかった。雨が降って来たのか。ならミストの仕業だが、一体何のために?

 俺は袖で水滴を拭った。


 血だ。


 気付いた瞬間、心臓が止まった、そう思えるほど体に痺れが走った。

 ざくざくという音と同時に、飛び散った鮮血が俺に降りかかる。

「あ、あああ」

 何をやっているんだ、ミスト、何をやってるんだ!

 そう叫んだつもりが、震えた喉から出たのは言葉にならない音だけだった。

 俺は走った。

 音はさらに大きくなり、影はよりはっきりとして来る。

 血飛沫が増して俺の制服を汚す。


 そして――……、



 霧の向こうの惨状に、祐樹はまず、立ち尽くした。


「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ」

 亜利奈の上に馬乗りになった全裸のミストが、片手で喉を抑え、片手で包丁を振りかざし、一心不乱に相手の胸に突き立てている。亜利奈から飛び散る血液がミストの裸体を染めるが、それも構わずにひたすら刃を刺していた。

 その度にざっくざっくという音が霧の中で響き渡る。

 亜利奈は白目をぐるりと向け、すでに抵抗どころか息絶えた様子でされるがままになっており、にも関わらずミストは無表情で致命傷を与え続け、突き立てる度、

「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ」

 そう呟いていた。


「うわあああああああああああああああああああああああああッ!!」

 そこを絶叫が貫いた。


 ミストは夢中になっていた行為からやっと祐樹の方へ気付き、

「あら、ユウ君、来ちゃったんだ」

 事もなげににこりと笑ったのだ。

「まっててね。こいつ消したら晩御飯作ってあげるね♪」

 まるで家事のように。まるでただの作業のように。

 ミストは殺人行為を悪びれる様子もなく、愛する祐樹に微笑みかけた。

 そして跨っている死体の少女に向き直ると、

「こいつしぶといから、念入りに殺しとかないと。

 じゃないとまたユウ君と私の邪魔をするに決まっているんだ」

 そして刃を大きく振りかざす。

「や、やめろおおおおおッ!!」

 祐樹もこの亜利奈は現実のものではないことぐらいは判っていたはずだ。

 だが惨殺される幼馴染みの光景に、身体が勝手に動いたのだろう。

 彼は刃を恐れず、ミストの身体を押しのけ、そして、亜利奈の亡骸に手を伸ばし……――、無残な姿に触れる事も出来ず、その場に力なく座り込んだ。

 一方の突き飛ばされたミストは立ち上がると、亜利奈の死体に向かい、


「ユウ君、どいて。そいつ殺せない」

「……もうやめてくれ……」

 覇気のない様子で祐樹は懇願した。

「もう、こんなお前を見たくない」

「私よりそいつを選ぶっていうの?」

 祐樹の願いは、狂ったミストの中には曲解してしか伝わらなかった。

 返事をしない祐樹をみて、ミストはクスリと笑うと、


「あーあ、しょうがないユウ君。

 またやり直ししよっか」


 いつかのように記憶喪失ガスへと身体を変化した。

「いいよ、私、何度でも何度でも、ユウ君が本当のユウ君になるまで頑張るよ。

 それじゃあ、おやすみなさい」




「楽しかった思い出まで消しちまう気かよ」




 祐樹の言葉に、ガスの進行がぴたりと止まった。

「一緒にやったテレビゲームも。一緒に食べた料理も。

 何もかも消しちまう気かよ」

「…………」

「お前がしたいたずらも。お前が俺の事好きだって言った回数も。

 何もかも消しちまうのか。――俺は嫌だぞッ!!」

 祐樹は意志を宿した瞳で、ミストを見据えた。


「俺は、お前の事が好きだ。そう思えたここでの生活を失くす気は無い!

 だから必ずお前と一緒に帰るッ!!」


 そう宣言する祐樹の傍らに抱かれていた死体は、亜利奈の幻からミストの幻へと変化していた。彼の中でミストが、あれほど護ろうとしていた亜利奈と居並ぶことへの証明だった。

「嘘よ」

 ミストは呟いた。

「じゃあどうして一度も私だけだって言ってくれないの!?」

「――ッ!」

 今度は祐樹が戸惑いを見せた。そして黙してしまう。

「……選べないのね。嘘でもそんな事言えないんだね」

「…………」

「亜利奈もローゼも捨てれないんでしょ?」

「……ああ」

 祐樹は頷いた。

 それは優しさではなく何も決められない事の証明だった。


「わかった」

 黙る祐樹に向かって、実体化したミストは刃を突き付けた。

「じゃあせめて一緒に死んで」

「…………」

 祐樹は返事をしない。肯定も、否定もしなかった。

「それも決められない……っか。

 あはは、酷い人を好きになっちゃったんだね、私」

「すまない」

 祐樹は短く謝罪したが、ミストは首を左右に振った。

「気にしないで。一緒に死んでくれるなら、それで幸せ。

 それにね、私、だいぶおかしくなっちゃったみたい」


 そして彼女はにっこりと笑った。

 ひどく歪んだ笑みで笑ったのだ。

「ユウ君の最後を私が決められる、そう思うと心が躍るんだ。

 あはは、私も最低だ、おあいこだね♪」

 祐樹は観念し、目をつぶると、


「でもお前の事を愛しているのは嘘じゃないんだ」

 彼が最後にそう訴えるのを見て、ミストは包丁を突き落とした。
















「……ここまでよ」

 凶器が祐樹に突き刺さる、まさにその寸前でミスト腕を掴み制止する少女が居た。

「ユウ君を殺すなんて、絶対にさせない」

 それはもう一人のミスト自身だった。

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